第300話 さえぎるものなく①


 手を重ねてしばらく、互いの体温が混じり冷たかったイェーヌの手が同じ温度になった頃。何もしゃべらず、目も閉じたまま動かない老婆に気づき、どきりとした。

 まさかと思い顔を近づけて良く観察すると、かすかではあるが胸が上下に動いている。どうやら眠りに落ちただけのようだ。リリアーナはそっと詰めていた息を吐き出す。


<筋力や心肺機能は加齢により弱っておりますが、特段異常は見受けられません。ご安心ください>


「そうか、良かった……。込み入った話をして、疲れさせてしまったのかもしれんな」


 加減をみるため見舞いに来ただけだったのに、配慮が足りず悪いことをしたと反省する。

 リリアーナは立ち上がり、横にあった小さなクッションをイェーヌの後頭部に添える。窓は閉まっているのに肌寒さのような悪寒を覚え、イェーヌが寝間着の上に着ているカーディガンの前を合わせてやった。

 黙って寝顔を見ているのも何だか申し訳ないので退室したい所だが、カミロが戻ってくるまではここで待ったほうが良いのだろうか。医師との話というのはほとんど退室の口実だろうから、そろそろ戻ってくるはず。

 リリアーナは椅子に座り直してからふと思い立ち、かけているポシェットを膝の上に置く。


「今日はやけに大人しいな、アルト。いつもカミロが一緒にいると、あれこれ文句をつけてうるさいのに」


 サーレンバー領からの移動中も特に話しかけてくることはなく、別邸で馬車を降りてからこれまでも、全く念話の呟きを寄越さなかった。あのエルシオンとの対峙以降、どうも口数が減ったように思う。


<役立たずの私からどうこう言えることなど何も……あの陰険眼鏡は自分の役目を全うしているというのに、それと比べて私は……何の役にも立たないただの玉です……。必要ある時のみお声がけ頂ければ……力の及ぶ範囲で働きますので……>


「何だ、まだいじけていたのか? わたしがこの体になってから、お前にどれだけ助けられたと思っている。本当に役に立たないなら、わざわざ持ち歩いたりしない」


 エルシオンの接近を察知できなかった件についてはリリアーナにも思い込みがあったし、雑木林の中でポシェットの肩紐が切れてしまったのは単なる事故。そのあと野鳥につつかれてぬいぐるみが壊れたのも仕方のないことだ。別にアルトが怠けたわけでも何でもなく、巡り合わせが悪かったとしか言い様がない。


「そもそもお前の能力が低下しているのは、完全な杖の形で引き出すことができなかったわたしの力量不足ゆえだろう。本体から離れた状態なのに、お前はいつも良くやってくれている」


 今なら時間をかければ収蔵空間インベントリへ残してきた杖も引き出すことができそうだが、イバニェス家の令嬢という立場では、あんな大きな杖を携帯するのは難しい。

 最初は相談相手にと宝玉だけを無理に引き出したけれど、フェリバによってぬいぐるみに縫い込めてもらったお陰でいつも持ち歩くことが叶っている。……長く本体と切り離され、アルトバンデゥスの杖としては不満もあることだろう。

 結局は自分の都合で不自由をさせているのだと伝えれば、ポシェットの中で宝玉が微細に振動した。


<能力低下の原因は、本体から離れているせいだけではなく……あの、実はですね、リリアーナ様へお伝えしていないことがありまして……。前に収蔵空間インベントリから出てくる途中、……アッ、あぁーっ!>


 話している最中に突然アルトが奇声を発するため、何事かとポシェットのふたを開く。中から出てきた角がぶんぶんと激しく上下に揺れた。


<リリアーナ様っ、外に、いえもう窓のすぐそばまで来ています、あの赤毛の害虫野郎です!>


「また来たのか」


 急いで立ち上がり、カーテンの向こうのガラス窓を開ける。顔を出して横を見れば、両手を伸ばしたエルシオンが壁にべったり貼りついていた。確かに、虫のようにも見える。


「や、やぁ、リリィちゃん。驚かそうと思ったのにバレちゃった?」


「懲りずに何をしているんだ貴様は」


「えへへぇ。あの侍従のお兄サンが下に来たから、これは逢引チャンス~と思って登ってきたんだけど……この建物、足場が少なすぎて手がきっつい、滑りそう、ちょっとそっち入ってもいい?」


「そう言われて易々とお前を招くと思うのか」


 足場も掴まる場所も少ない簡素な建物だ。無理に登ろうとせずとも、エルシオンであれば【浮遊レビト】でも使えばもっと容易く窓の外まで来られるだろうに。

 邪魔をして下に落とすか、それとも廊下にいるナポルを呼ぶかわずかに逡巡してから、結局見つかると後が面倒だという結論に落ち着いた。


「全く、こんな場所で人目にふれれば余計な騒ぎになるとわかるだろうに。もういい、さっさと入れ莫迦者め」


 そばにイェーヌがいるため声をひそめつつ、開けた窓から身を引く。そしてエルシオンがするりと入り込んでからすぐにカーテンを閉めた。

 隙間から外の様子をうかがってみるが、元々人通りが少ないため誰かがこちらに気づいた様子は見られない。


「わざわざこんな場所に忍び込むなんて何を考えているんだ。扉の外には護衛がいるし、じきにカミロも戻ってくる。一度入れはしたが、また窓から出るしかないぞ」


「いや、ちょっとでもキミとおしゃべりしたくてさ、登るのに手こずったのが失敗だったなぁ。あ、さっき見てたんだけど、護衛ってもしかしてナポル君?」


 なぜエルシオンがナポルのことを知っている?

 彼はサーレンバー領にはついて来なかったから、この男との接点は思い当たらない。馬車だってさっき街についたばかりだ、となると可能性があるのは以前に街で遭遇した時か。

 そういえばマダムの菓子店からエルシオンの姿を覗き見た時、自警団の制服を着た誰かと話していた覚えがある。こいつがポポの店で自警団員と同席していたとの証言も聞いているから、その相手がナポルだったのだろう。


「……一緒に食事をとった仲だとしても、ナポルはお前のことを覚えていないだろう」


「うん、そうなんだよ。わかってはいるし自分のせいなんだけどさ、やっぱちょっと寂しいね」


 そう言って片手で跳ねた黒髪をかき混ぜながら、エルシオンは不格好な苦笑いを浮かべた。いつもの気色悪い笑みとはどこか違うその顔を見て、何となく気が削がれる。

 カミロが戻ってくるまではここに居座るつもりなのだろうと諦めて、リリアーナは元の椅子に腰かけた。


「イェーヌが眠っているから静かにしろよ」


「あ、うん。このお婆さんはリリィちゃんの知り合い?」


「以前に少し面識があってな。厄介な代物のせいで体を弱らせている。……お前はこれまで方々を旅をしてきたのだろう、精神へ作用するような、妙な構成の刻まれた栞について何か聞いたことはないか?」


「何それ? 初耳だけど、確かに厄ネタ感がプンプンするね。リリィちゃんが知りたいんなら調べてくるよ?」


 あの栞に関してはクストディアやブエナペントゥラも知らなかったし、未だ自分とイェーヌの手元からしか現物は見つかっていない。もっと出回っている物かと思っていたが、どうやらそういうわけでもないようだ。

 特定の相手にしか使うつもりがないのか、それとも流通させる前の準備段階なのか。どちらだとしても、なぜ自分とイェーヌが被害に遭ったのかはわからない。

 それを知るためにも、早くあのアイゼンと名乗った行商人の身柄を確保できれば良いのだが、一体どこに隠れているのやら。


「噂も広まっていないなら、今のところ他に被害は出ていないということだろう。気にはなるが自警団の調査に任せるからいい」


「ふーん。じゃあ、何かそれっぽい話を聞いたらリリィちゃんに伝えるね!」


「点数稼ぎをしたいなら自警団に伝えれば良かろう」


「ふっふふ、そーだね」


 エルシオンは嬉しくて仕方ないというような、いつも通りの笑顔を浮かべて壁に寄りかかる。何が目的なのかと注意深く観察していたが、先日のベランダや小屋のとき同様に、本当にただ話をしに来ただけのようだ。

 いつの間に置いたのか、床には暖気と消音の構成が回っていた。


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