第287話 儻来之物


 いつものようにカーテンを閉めきった部屋で、灯りをつけて本を開く。

 寒い時期になると部屋の奥まで光が入るから面倒だ。この季節以外なら、一枚目の薄布カーテンだけを広げて窓を開けることも叶うのに。

 窓を背にしたひとり掛けの椅子に寛ぎながら、クストディアは耳から入る台詞の文字を追った。


「天にかかる、遠き輝石。青白い、幽玄のきらめき。届かぬ、手を、私は、いつまでも伸ばし、続ける」


 途切れながらも朗々と続く台詞の暗唱。すっかり台本を覚えきっているシャムサレムの朗読は、いつも一言一句間違いがない。

 何年も続けている台詞の読み合わせだが、新しい台本を渡すと数回読むだけで暗記してしまうのが少しだけ悔しい。それでも覚えていることを隠されるほうがずっと癪だから、台本を見ている振りなんて許さない。


「野干玉の輝き、どこまでも、深い宵の色。掬って、ふれたい。その髪に、どうかこの手を、届かせて」


「そこ違うわよシャム、髪じゃなくて『その月に』でしょう?」


「……でも、この人は、たぶん、月じゃなくて、……本当は相手のきれいな髪、を、褒めたかったんだと、おもう」


「本読みなのに自分の解釈を混ぜてどうするのよ」


 いつも指定した台本を読み上げるだけのシャムサレムが、こんなことに我を出すなんて珍しい。クストディアが広げていた台本から顔を上げると、ずっとこちらを見ていたらしい黒い瞳と目が合った。


「あの、お嬢様の、侍女が……髪を梳いたり、結ったりするの、好きだって、いうの。分かる気がする」


「え?」


「俺も、毎朝、ディアの髪にふれて、櫛で梳いて、支度を手伝う、ときが、とても幸せだから」


「ぐ、う、ぅ……っ、変なとこであの子の影響受けてんじゃないわよ! あんたはいっつもそんななのに、余計にたちが悪いわ!」


 冷めかけの香茶を一息に飲んで、力任せにソーサーへ戻しそうになった手前で思いとどまり、静かにカップを置く。茶器なんて他にいくらでもあるけれど、レンゲソウが描かれたこのセットは気に入っているから、こんなことで割ってしまうのは惜しい。

 おかわりの支度をしようとポットに手を伸ばすシャムサレムを断って、クストディアは膝の上の台本を閉じた。

 もうこの本を使うのはやめよう。同じ台詞を読み上げるたびに、さっきの言葉を思い出してしまいそうだ。


 趣味の蒐集の一環として、著名な劇団で使用されている台本を二冊ずつ取り寄せるようになってもう長い。

 寡黙なシャムサレムに声を出させるため、読み合わせという形を取ってこれまで百冊以上の台本を読んできた。普通の物語の綴られた読み物とは違い、ト書きや暗転、小道具についての指定も書き込まれているのが面白いと思う。

 シャムサレムの話し方が負傷の直後よりは自然になってきているのは、読み合わせの効果なのか、それとも時間経過による回復なのかはわからない。ここ数年はあまり変わりがないようにも思うが、それでもずっとこの習慣は続けている。


 彼に髪を結わせているのもそうだ。

 たとえ無理矢理でも、細かい作業をさせて手を動かす練習にという子どもの浅知恵だったが、効果があるのかどうかは未だによくわからない。

 少なくとも力加減を誤って茶器を割ったり、何度も櫛を取り落としたりということはなくなった。

 彼に対する無茶な命令が回復の足しになったかはともかく、自分もシャムサレムに髪を梳かれるのは心地よくて好きだ。丁寧すぎて毎朝時間がかかってしかたないけれど、他の人間へ任せる気にはなれない。

 高い位置でふたつに結われた髪を指で梳きながら、顔面の無駄な熱がおさまるのを待つ。

 自分のことは嫌いだけれど、父譲りのこの髪だけは自慢だった。


「午後、来客の予定が、あるよね。髪は、直す?」


 髪を気にしているのを見て取ったのだろう。気まずくて横から訊ねてくる男の顔を見上げることができない。

 外まで見送りに出るつもりはなくとも、部屋へ挨拶に行くために今朝はいつもより手の込んだ格好をしている。

 髪飾りの手持ちは増えても、今日はあえて前から持っていたものをつけた。ここぞとばかりに新調したリボンを結ぶのは、何となく気恥ずかしかったのだ。


 ……生意気なイバニェス家の娘の提言を素直に聞いたわけではないけれど、あの女魔法師は商人への注文にも立ち会い、あれこれと流行や組み合わせのアドバイスをくれた。髪飾りを収めた引き出しには、以前の倍ものリボンや編紐が詰まっている。

 正直、新調した物を早く使ってみたい気持ちはあるけれど、そんな子どもじみた動機で引き出しを開けるのは気に食わない。新しく購入したリボンをつけるのは当面先になりそうだ。


「いいわよ、このままで。あんな木っ端商人のためにわざわざ身繕いを整えるまでもない。それにあいつのことだもの、いつもと違う髪飾りなんてつけていたら、新しい商機だとでも思ってあれこれ売りつけてくるに違いないわ」


 元は大店おおだなの雑用係をしていた若者だが、店が潰れる際にほんの少しばかり口添えをしてやったことがある。

 その後は自身の力で小さな店を持つようになり、今も度々クストディアの元を訪れては珍品を売りつけていく。遠慮を知らない無礼者でも、物を見る目だけは確かだ。


 ……これまで多くの商人がこの屋敷を訪れたが、あの男だけだった。偽者を掴ませようだとか、世間知らずの娘を騙して高く売ろうだとか企む商人ばかりの中で、あの男だけは自身の雇い主に向かって贋作を押し付けるようなことはやめるよう、進言をした。

 そんなことを言う大人は初めてだったから、ずいぶん驚いたのを覚えている。


 屋敷の方々に設置された伝声管の発話口、最も使用頻度が高いのは、この部屋の手前にある廊下の長椅子だ。

 仕込まれた伝声管により会話が筒抜けだなんて知りもしない店主は、若者の忠告も聞かずクストディアに贋作の磁器を売りつけようとした。元より、偽物で私腹を肥やしていることは知っていたので、予定通り証拠をそえて製造元と中央へ通報してやった。

 その悪徳商人の元には、かつてここ去った侍女が入り込んで愛妾になっているなんて噂を聞いたこともあるが、自業自得で潰れた店のことなど自分には関係ない。





 昼食を終えて応接用のソファで待っていると、商人は約束の時間通りにクストディアの部屋を訪れた。

 シャムサレムの先導でソファセットまで辿り着いた若者は、今日も何かを売りに来たはずだが、腰のベルトに留めた小さな鞄以外ほとんど荷物を持っていない。

 物でないとなると、何か耳寄りな情報でも仕入れたのか。

 こざっぱりとした身軽な様を検分し、そう当たりをつけたクストディアは挨拶の口上を述べる男を前に、悠然と足を組み替えた。


「手ぶらとは良い度胸ね。私の時間を浪費するに見合った価値がなければ、お前の物置小屋みたいな店も潰すわよ?」


「おぉこわ、そいつは堪忍してくださいな。実はちっと面白いモンが手に入ったんで、お嬢様の御眼鏡に適うかなーと思って持ってきたんですけどね」


「御託はいいわ。さっさと本題に入りなさい、何を売ろうってのよ?」


 急かすクストディアにも慣れたものとばかりに、商人の若者は腰につけた小さな鞄の留め金を開けた。

 中から取り出したのは、片手に乗るほどの小さな布包みだ。


「昨日の朝にウチに持ち込まれて、買い取ったモンでして。何でも、子どもが小銭欲しさに下水路を漁っている時に引っかかったとかで」


「下水路に落ちていたような代物を私に売りつける気? 身代が惜しくないようね?」


「いや、ちゃんと洗ってあるしキレイなんで! 入手経路を全部言わないと、お嬢様も納得しないでしょ?」


 男は苦笑いを浮かべながら取り出した包みをテーブルに置き、クストディアの前でそれを広げて見せた。

 中から現れたのは、濁った色の球体だった。表面は艶やかに磨かれているが、黄色の香茶にミルクを垂らしたような不透明の濁りがある。宝石の類は色々と目にしているが、見たことのない色合いだ。


「石なら宝飾品店にでも売りつければ?」


「ええ、一応ウチにいる石に詳しい子にも鑑定を頼んだんですけどね。黄水晶でも黄玉でも琥珀でもない、何だかわからないって言うんですわ」


「あのね、鑑定しても何だかわからないような物を私に……、黄色い宝石……?」


 つい最近、耳にしたばかりの言葉だ。いつものようにブエナペントゥラが執務室へ入る時間を見計らって伝声管を開いた時、従者と呼びつけた商人たちに指示を出していた。

 街の中で、胡桃ほどの大きさがある金色の宝石を失くした者がいるから、見つけ次第すぐに報せるようにと。


「もしかしてこれ、おじい様が探させている失せ物……?」


「おー、やっぱりご存知でしたか。ウチにも報せが回ってきまして、まぁそんときは在庫にも心当たりはないし、ウチには関係ないかなって思ったんですけどね」


「……なぜ私の所へ持ってきたの? おじい様へ報告すれば、相応の褒美が出るのでしょう?」


 剣呑さを隠しもせず問うクストディアを前に、商人の若者は臆することなく指先を組んでにっこりと笑顔を浮かべる。


「お金が欲しいなら領主様のとこに持っていきますけど、それよりも前に、珍しい物って言ったらお嬢様のとこでしょう。っていうか聞いていた色とはちょっと違うから、本当にコレが領主様の探し物かどうかイマイチ確証はないんですけど」


「確かに、金色って言うには少し汚いわね。一見したところ形は欠けもなく綺麗だけど」


「ええ、そうなんですわ、鑑定した子も見事な真球だって驚いてました。おまけに、なんかコレね、……憑いてるらしいですよ」


「ついてる?」


 訝し気な視線を返すクストディアに対し、商人はへらりと笑いながらわざとらしい揉み手をする。

 そのもったいぶった様子に眦をつり上げると、両手を挙げた降参のポーズを取るが顔は緩んだまま。持ち上げた手を自分の口に添えて、男は内緒話の格好で顔を近づける。

 ソファにかけたまま思わずのけ反りそうになるのをこらえたクストディアは、顎先で話の先を促す。


「なんでも、鑑定士の子が言うには、たまに声が聞こえるって。僕が話しかけても何も聞こえないのに。何でしょうね、魔法とかにはあんまり詳しくないんですけど、精白石とも違うし。……どうです、珍しいでしょ?」


<応えるのも馬鹿らしいわ、このスカポンタン、何が憑いてるよ失礼しちゃうわね、自分の理解が及ばない現象を何でも魔法のせいって一括りにするヒト族のその単純さが嫌いなのよ反吐が出るわ。おまけに精白石ですって、あんなゴミカスと一緒にするんじゃないわよそのお手軽な脳ごと全身燃やして灰を下水路に流してやろうかしら!>


「…………」


 幻聴……、にしては妙にはっきりと聞こえる。

 いや、聞こえるというよりも頭の中に直接声が響いているような、不思議な感覚だ。

 眼前にいる男とシャムサレムに目を向けても、特に変わった様子は見られない。今の声は自分にしか聞こえていないのだろうか。

 濁った金色の石。ブエナペントゥラは呼びつけた商人を帰した後に、従者へ「リリアーナからの頼まれごとだ」と漏らしていた。


「珍しいのは確かでも、正確な鑑定ができなかったのはあんたの店の知識不足でしょうに。まさかおじい様の元へ持ち込む前に、私に見せて真贋を確かめようって魂胆なの?」


「それこそ、まっさか~! 珍しい物が手に入ったら真っ先に持ってくるって約束したから、こうしてお嬢様へ一番にお見せしたんじゃないですかぁ」


 営業用の笑顔は見慣れたものだが、視線がわずかに逸れている。少なくとも、これが本当にブエナペントゥラの探し物かどうか判断がつかなかったこと、自分に見せて反応を覗おうとしたことは確かなようだ。


 少しだけ面白くなってきた。

 しかし顔にその感情は乗せないまま、クストディアは内心で算段を立てる。

 下水さらいをするような相手から買い取ったのだから、元手は相当安いはず。領主を差し置いて自分の元へ持ってきたのは、半分が物珍しさから、もう半分は物によっては領主よりも高値を付けると踏んだためだろう。

 金ならあるから言い値で買い取ることもできるけれど、この男は最近少し調子に乗りすぎだ。飼い慣らすために甘い汁を吸わせるよりも、石の価値を下げるだけ下げて買い叩くほうが面白い。


 ……さて、いくらまで値切ってこの石を手に入れてやろう?

 クストディアの浮かべる嗜虐的な笑みを前に、商人の営業スマイルがわずかに引きつった。



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