第286話 さよならサーレンバー


 来た時と同じ馬車に乗り込み、ぼんやりと窓の外を眺めながら出発を待っていた。

 クストディアから貰った台本は、布に包んでストールなどを詰めた籠の中に隠してある。内容に問題はないと言っていた彼女の言葉を疑うわけではないが、また大人たちに没収されてはかなわない。

 未だに何が「不適切」なのか基準がわからないせいで、ぱらぱらと軽く目を通してみても大人たちに知られるとまずい内容なのかどうかは判断がつかなかった。

 多少の改変を経ているとはいえ、ようやく手に入れた過去のエルシオンの物語。今すぐにでも手を伸ばしたいところだが、乗り物酔いしないよう休憩時間に読むと言ってしまった手前、ここで開くのは気が引けた。出発したら次に馬車を止めるのはおそらく昼食の時だ。

 レオカディオとは違い、これまで乗り物酔いなんてしたことがないのだから、あんな安請け合いをしなければ良かった。焦れる気持ちをこらえながら、リリアーナは窓枠に預けた頭を押しつける。


 乗り込んだ馬車の中には、移動中の慰みにとブエナペントゥラから貰った三冊の本も持ち込んでいる。あまり好みに合わなかった物語と詩集はともかく、鳥の図鑑は気に入っているから道中はこれを眺めて過ごそう。

 窓にもたれたままカーテンの隙間から外を見ると、護衛たちも馬車に跨り出発を待機している状態だった。

 すでに荷物などは積み終わっているし、自分たちの後にファラムンドも馬車へ乗り込んだ。もう幾ばくもしないうちに馬が走り出すのだろう、――と思っていた所で、コンコンと軽い音をたてて窓が叩かれ、その振動が頭にも伝わってくる。

 細い隙間だけあけていたカーテンを引っ張ると、つい先ほど別れを済ませたばかりのブエナペントゥラが立っていた。その姿を認めるなり、すぐに後ろから手を伸ばしたエーヴィが車窓を開けてくれる。


「おお、すまんの。ファラムンドの方で用事があると聞いたもんだから、出発まで時間があるならリリアーナともう少し別れを惜しんでおこうと思ってな」


「いえ、おじい様とお話しできるならわたしも嬉しいです」


「そうかそうか、リリアーナもレオ坊も礼儀正しい良い子だのう。せっかく来たんだから、もっとゆっくりしていって貰いたかったんだが……はぁぁ、残念だ……」


 老領主とは何度も対面で話をしたが、同じ目線の高さで顔を見るのはこれが初めてだ。

 年齢以上に深く刻まれた顔面のしわは、苦労と病の重さが感じられ、胸骨が締められるような心地がする。内臓を患った顔色は不健康に黒く、体格は良いのに頬がこけている。

 自分はまた数年後にサーレンバー領を訪れるつもりでいたけれど、それまでブエナペントゥラは健在でいるのだろうか。別れを惜しむ老人にとっては、もしかしたらこれが今生の別れのつもりなのかもしれない。


「馬車旅が嫌でなければ、またいつでも遊びに来ておくれ。儂だけでなくきっとクストディアも喜ぶ」


「はい、クストディア様とは滞在中に色々ありましたが、仲良くしてもらえました。書斎で過ごせたのも、広間で歌と楽器の鑑賞ができたのも、とても楽しかったです。また近いうちに来ますから、おじい様も元気でいてください」


 そう言って窓から手を伸ばすと、老人はわずかに瞠目してから手を握り返してくれた。幼い子どもに遠慮したささやかな力だが、その硬い手は思いの外しっかりとしている。


「お前さんが楽しみにしてくれるなら、書斎はもっと手を入れておこう。蔵書を増やしておくし、劇団も招致できたらまた報せる。……あぁ、そうだ、この前あげた本は楽しんでくれたかの?」


「はい、今日も馬車の中に持ってきています。イバニェスに帰ってからも大事にします」


「そうかそうか、それは嬉しいな。それで、リリアーナ、詩集は読んでみてどうだったかね?」


「詩集……?」


 まさかここでその感想を問われるとは思わなかった。

 三冊のうち、物語の本と鳥の図鑑なら細かに感想を言えるのだが、よりにもよって。著者が日常の中で感じた些細な事柄、季節の巡り、庭の様子などが情緒的に綴られたあの詩集は、端的に言って、意味が良くわからなかった。

 おそらく感情の変化に共感したりとか、言葉の断片の美しさを味わう種類の本なのだろうと推察するが、最初から最後まで何が言いたいのか理解できず、カステルヘルミにも読んでもらったが彼女も微妙な顔をしていた。

 だが、もう自分はヒト歴八年だ、ここで「よく分からなかった」なんて素直に言うほど浅慮ではない。


「あの詩集は……繊細な感情の機微が綴られていて、こう、全編に渡り、とても細やかな心の動きと、言葉運びの美しさが感じられましたね」


「そうかそうか! はは、やはり女の子はああいうのが好みだろう!」


 精一杯、全身から絞り出すような感想を伝えると、ブエナペントゥラは殊の外喜んでくれた。焦燥と罪悪感から服の下にぶわりと汗がにじむ。


「実はな、あれはクラウデオが書いたものなんだ」


「え……?」


 意外なところで出てきた名前にリリアーナが呆けると、ブエナペントゥラは締まりなく笑いながら口元に手をあて、内緒話らしく声をひそめた。


「昔な、あれが書き溜めていたのを嫁さんに勧められて編纂したらしいんだが、恥ずかしがって結局名前も出さんかった。ファラムンドにだけは絶対に言うなと言われておるから、あやつには内緒にしておいてくれ」


 茶目っ気たっぷりにそう言って片目を瞑る老人に、こくこくとうなずき返す。

 あまり好みには合わなかったけれど、著者が誰かを知った後ならまた別の読み方ができるかもしれない。まさかあれがクラウデオの書いた詩だったとは。では詩集の巻末にあったサインは偽名なのか――


 謝辞と共に書かれていた細い字を思い浮かべたところで、その記憶がとある筆跡と結びつく。


「あ」


 書斎で見つけた手記の、特徴的な筆跡。読んだ時に妙な既視感を覚えていたが、あれは詩集に添えられたサインと同じ字だ。

 あの聖堂に関する手記は、クラウデオが書き残したものだったのか。


「リリアーナ、どうかしたかね?」


「あ……いえ、後でもう一度、詩集を読んでみようと思って」


 あれがクラウデオの手帳なら、なぜ自室ではなく共有の書斎に置いていた?

 持ち去った人物は、クラウデオが書いたものだと知っているのか?


「ブエナおじい様、変なことをおうかがいしますが、クラウデオ様はこちらの聖堂と親しかったですか? ええと、父上は聖堂の方とあまり仲が良くないのですが……」


「あぁ、ファラムンドは聖堂といがみ合っておるが、うちの息子は別に仲が悪いということはなかったぞ。引っ込み思案だが友人は多い方でな、官吏にも親しくしている者がいたから、よく茶飲み話をしに来ていたものだ」


 なぜ急にそんなことを、と首をかしげる老人に何と返すべきか考えていると、横から乗馬したキンケードが近寄ってきた。


「爺さん、名残り惜しいのはわかるが、もう出るぜ」


「そうか、いや十分だ。お前さんも達者でな、カミロにもよろしく伝えてくれ」


 馬車から離れて手を振るブエナペントゥラへ、同じように手を振り返しているとすぐに馬車が動き始めた。もう窓は閉めているため、老人の姿はすぐに見えなくなってしまう。

 ファラムンドたちとも親しく、曾祖父の生前を知る好々爺。心労も肉体的疲労もかさむ職務で大変だろうが、クストディアのこともあるし、どうか長生きして欲しいと思う。


 名残り惜しい気持ちはリリアーナも同じで、窓に貼りつくようにして滞在していたサーレンバー領主邸が遠ざかっていくのを見ていた。

 外門へ繋がる道には守衛たちが敬礼の形で並んでいる。

 整えられた植木と舗装された私有道。石造りの直線的な建物が多い中、植物のある部分だけは温かみがある。

 イバニェス邸とはまた趣の異なる前庭を抜け、領主邸の敷地を抜ける間際、等間隔に並んだ木の陰からはみ出ている何かが目に留まった。

 暗い色合いの服は目立たず、通り過ぎるわずかな時間に気づけたのはほんの偶然だ。


「あれは……アントニオか?」


 ああも離れていては、車窓からリリアーナが見ていることに向こうは気づいていないだろう。

 わざわざ見送りに来てくれたのか、木の陰に半身を隠したままこちらをうかがっている。彼にもひとこと別れの挨拶をしたかったのだが、ブエナペントゥラに接触禁止を言い渡されているためだろう、屋敷の中ではあれ以来遭遇することがなかった。


 いつもおどおどと何かに怯え、丸い体を小さく縮こまらせていた少年。

 遠目のせいだろうか、その姿がまるで別人のように映る。

 植木の陰に背筋を伸ばして佇むアントニオは、感情の抜け落ちた真顔でじっと走り去る馬車の一行を見つめていた。



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