第279話 三日月を仰ぐ男


 枝にかけた手へ力を込めて、体を持ち上げる。硬い樹皮に靴先を引っかけながら何とか太い枝を跨ぎ、息をつく。

 ずいぶん登ったなと真下へ目を向けていると、後ろから腰を押された。自分も座りたいから詰めろという催促だろう。その腕を引いて手伝ってやりながら、自分よりも横幅の大きな連れを隣の枝へ座らせた。


「おおー、いい眺め!」


「オレはもうちょっと上いけるけど、トトイはこの辺が限界だよな。枝が折れちゃうもん」


「お、俺だってまだいけるし! それよりも、どうだ、見えそうか?」


「うーん、葉っぱが邪魔かな。あと少しなんだけど……」


 そう返事をしながら樹につかまり、そうっと枝の上で立ち上がる。慎重に、滑らないように足を伸ばしてから隣に生えている樹を振り返ると、ちょうど木の葉の隙間から目的のものが覗いた。

 細い枝を組んだ巣の中に、白っぽい卵が数個。割れた殻の奥にはもぞもぞと動く塊が見える。


「あ、くちばしがちょっと見えた、もう雛が孵ってるよ!」


「えー、俺も見たい!」


 焦れたトトイが掴まれる場所を探し、枝の上で身じろいでいると、ふたりがいる樹木の下から突如大きな声が響く。


「コラー! 何してんだお前たち、危ないだろーっ!」


「うっわ、びっくりした」


「オレも。オーゲンのバカでか声のほうがよっぽど危ないよ、落ちたらどーしてくれんの」


 眼下に向けてそう文句を垂れれば、年長の少年は怒りを露わに両手を腰にあてたポーズでこちらを見上げている。怒った顔なら見慣れたものだが、あれは相当おかんむりだ。


「落ちるようなとこに登るほうが悪い! そんな高い所で遊んでたら危ないだろう、怪我する前にさっさと下りてこい!」


「すぐに下りるつもりだったよ、邪魔だからどいてて」


「どいてとは何だ、って、ちょっと待てシオン、あ、危ない、もっと慎重に、ゆっくりでいい!」


 素っ気なく返してからすぐにしゃがみ込み、枝と樹皮に掴まりながら登ってきた時とは逆の順序で樹を下りていく。

 不安そうに見ているトトイに逐一、ここを掴んだら足場はここと示しながら、手本となるようゆっくり手足を動かす。地面に足をつける頃には、トトイも同じようにして樹を下りはじめた。


「まったく、あんな高いところまで登って。落ちたらタダじゃ済まないぞ!」


「大丈夫だよ。ちょっとだけカネケズリの巣を見たかったんだ、もう雛が孵ってる」


「巣って、昨日先生が言ってたやつか……」


 自分よりも頭ふたつ分は背丈のあるオーゲンが隣の樹を見上げる。下からでは木の枝が絡まったような、鳥の巣の端っこしか見えない。

 あの巣と雛が気になっているのは自分とトトイだけでなく、オーゲンたち年長組も同じはずだ。みっつ年上のアネットは古布でベッドを作ってはどうかと言って先生に糸をねだっていたし、ひとつ上のシズは適当な網がないかと朝から納屋に籠っている。

 言ってみれば自分たちは偵察のための斥候だ。巣の中がどんな状況で猶予はあとどのくらいなのか、様子を見る必要があった。


「気になるのもわかるけどな、あんな高いとこまで登るのは駄目だ。危ない遊びはしないってルールだろう、守れないなら先生に言いつけるぞ」


「けちー、オーゲンのけちんぼ、ハゲー」


「禿げてない! ちょっと額が広いだけだ!」


「ハゲとくさい男はきらいだって、アネットが言ってたよ」


「えっ、アネットが、本当かそれ? でも俺は臭くないし……臭くないよな?」


 腕を上げながら脇を気にするオーゲンの背後に回り込み、ようやく樹から下りたトトイと手を打ち鳴らしてその場から駆け出す。

 もう雛が孵っているとシズたちにも知らせてやらないといけないし、納屋に目ぼしいものがないなら村の大人に頼んで分けてもらったほうが早い。野鳥除けの網くらいなら、破れて要らなくなったものがどこかにあるかもしれない。


「あっ、こら、お前たち! ……まったく、ちゃんと夕飯までには帰ってくるんだぞぉーっ!」


「あははははっ、オーゲン声でけぇー!」


 背後からかけられる大音量に揃って噴き出す。アネットが本当は「騒がしい男がきらい」と言っていたことは、まだオーゲンには秘密にしておこう。

 隣を走るトトイと悪い笑みを交わしていると、駆ける姿を見つけた年下の連中が後ろから追いかけてくる。傍目にはかけっこでもしているように見えたのかもしれない。

 きゃっきゃと楽しげに笑い声を上げる幼い子どもたちを引き連れ、そのまま外れの納屋に続くゆるい坂道を走っていった。






 息を切らして、吹きつける風を肺いっぱい吸い込んで、首筋に浮かぶ汗が冷えて気持ち良くて。

 あれは夏の少し手前の時期だったろうか。薄い雲のかかった水色の空と、草いきれの濃い緑の匂い。轍の立った砂利の多い道をみんなで走った。たしか途中でトトイが派手に転んで、服を砂だらけにしていたっけ。


 額にのせていた腕をどけ、目蓋を開ける。

 狭い独房の中は灯りが設置されていない。日が落ちたら大人しく朝まで寝ていろということなのだろう。

 夜になると通気口代わりの天窓から仄かな月明りが差し込むだけの、暗く湿った部屋。

 夜目は利く方だから、真っ暗闇でさえなければそれなりに視えるし困りはしない。

 エルシオンは硬いベッドの上で寝返りを打ち、しばらく石の壁を眺めてからまた元の仰向けに戻った。


「ここんとこ、なんか懐かしい夢ばっか見るなぁ……」


 笑って怒って転がって、同年代の少年らと忙しなく遊び回っていた幼い日々。

 決して豊かな暮らしではなかったけれど、何の不足も感じなかったし、代わり映えのしない日常があのままずっと続くのだと思っていた。

 村には善い人も意地悪な人もいた。扶養施設の先生も優しいばかりじゃなく、天気の悪い日なんかは機嫌も下降して、子どもたちに手を上げることもあった。

 だけど、どこだって大抵そんなもんだ。人間なんだから、その時の気分によって変わるのは当然。いつも変わらずニコニコ笑って聖人君子みたいに振舞うとか、そんなのの方がよっぽど気持ち悪い。

 だから自分も、仲間をからかったり意地悪をしたり、大人に嘘をついたり言いつけを守らなかったり、それから極たまにだけ殊勝に振る舞ったりと、悪ガキらしく奔放に生きていた。

 殴り合いの喧嘩だってしたし、小さい子が苛められた仕返しにトトイたちと村の空き地へ乗り込んだこともあった。


 ――笑って怒って転がって、本当に毎日が忙しかった。

 あの頃はまだ、ちゃんと気持ちと感情が繋がっていた。



 ベッドに起き上がり、寝乱れた髪を掻く。それから虚空に取り出したカップへ魔法で水を注ぎ、一息に飲み干す。

 元々眠りは浅く短い体質だったけれど、こんな頻繁に夢を見るのは旅立ちの前……何も知らないでいた子どもの頃以来だ。

 ずっと会いたかった相手を見つけ出して、会話をしたことで、ちょっとばかり感傷的になっているのかもしれない。

 童心に返るというほどじゃなくても、精神的にどこか若返ったような心地がしていた。


 楽しいとか、嬉しいとか、そういう気持ちが湧いてきて、ちゃんと自然に笑える。

 ずっと錆びついていた心臓が、潤いを取り戻したようにドクドクと生きている実感を伝えてくる。

 あの子の存在と出逢いが、摩耗しきっていた心に再び命を吹き込んでくれた。


「……なんか、初恋を自覚したばかりの純情少年みたいで参っちゃうね」


 何となく人の温もりにふれたくなって、収蔵空間インベントリへしまったクッションを取り出そうとしたけれど、やめておこう。今出してしまうのは何だかもったいない。

 代わりにバンドナの花粉を詰めた小瓶を取り出し、軽く匂いを嗅ぐ。間を空けず眠りに落ちれば、もしかしたら夢の続きが見られるかも、なんて。

 栓に麻布を詰めた瓶は中身が粉だからこぼれる心配はいらないし、顔を近づけるだけで十分な香りが漂う。

 度々、寝付けない夜に助けられたアイテムだが、最近あまり効かなくなってきた。今度あの森に寄ったら効き目の強い蜜も採取しておこう。


「明日が楽しみなんて気持ちも久し振りだよ。何だか、オレの方が生き返ったみたいな感じ〜……って、こーいうときに返事がないの寂しいなぁ、これじゃあただの独り言じゃん。ほんと、どこで落っことしちゃったんだろ……絶対怒ってるよな……」


 ひとりでしょうもない呟きを漏らしても、相方からの辛辣な突っ込みはない。

 思い返してみると案外、ひとりきりで旅をした経験はなかった。孤独は感じないがやっぱり話し相手は欲しい。

 だんだんと頭の奥が痺れたように重くなってくるのに任せ、柔らかさの欠片もない枕へ後頭部を押し付けた。

 もういくらもしないうちに眠りに落ちそうだ。


 見上げる先では爪痕のような月が、鉄格子の隙間に所在なげに浮かぶ。

 明瞭な白銀の光に、あの少女の髪を思い出す。さらさらで透き通った、淡く紫を含んだ美しい銀髪。

 月に重ねて思い浮かべた幼い容貌は、自分を見上げてどこか不服そうな顔をしていた。

 過去の経緯を思えば仕方ないけれど、そのうちもっと笑わせてあげたい。喜ばせたい。幸せそうにしているところが見たい。

 赤い瞳以外、生前の容姿とは何の共通点もないような姿をしているのが、何だかおかしい。あれじゃあ街で出会った時にわからなくても当然だ。


「運命の相手なんだから、また逢えたら、すぐにビビッとわかるって、思ってたんだけどなぁ……」


 生きてきた中で一番の衝撃、激しく心を揺さぶられたのと同時に訪れた死別から、四十年。

 この世界でただひとり、自分の理解者たりえる相手をやっと取り戻した。

 もう二度とそばを離れるつもりはないし、彼/彼女へ無残な死を与えようとする者は誰だろうと許さない。たとえ相手が何であっても、絶対に。


 ベッドに投げ出した手のひらを開閉し、自分がまだ生きている意味をなぞりながら、エルシオンの意識は昏い浅瀬の淵へと落ちていった。


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