第266話 星明りの下で①


 少し硬めのバゲットに、緑色の何だかわからない瓶詰スプレッド、苺の匂いがする香茶と、煉瓦色の甘い飲み物。色鮮やかな砂糖菓子もあった。

 サーレンバー領にもうまいものがたくさんあって、毎日がおいしい。

 幸せだ。温かい。腹が満ちて、心も満ち足りる。


 白い少年が隣でブニェロスを食べている。熱いものが苦手なのか、慎重に齧るひと口がとても小さい。

 透けるような横顔は今にも消えてしまいそうで、常の健康状態が気になった。

 ここには他にもうまいものがたくさんあるから、色んなものをたくさん食べてもっと肥えるといい。そんな細く痩せたままでは、そのうち風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまう。


 手の中にある温かいカップを渡そうとすると、少年がこちらを見た。

 赤い。

 赤い眼。

 自分と同じ眼。


「――……ア、」



<リリアーナ様、お休みのところ大変申し訳ありません、リリアーナ様! どうか起きてくださいっ!>


「ん……? ど、した、アルト?」


 うとうと夢の境を漂っていた意識の中へ、妙に焦った声音の念話が入り込む。

 呟き未満の声を発したものの、ほとんど眠りへ落ちていた頭は綿を詰めたように朦朧としている。柔らかく温かな枕から顔を引きはがせない。眠たい。ねむい。

 それでも何とか上掛けをどけたリリアーナは、目元をこすりながらのろのろと上半身を起こす。

 まだ開ききらない視界、サイドテーブルに置かれた籠の中で、ぬいぐるみが緊急を告げるように片方だけになった角を激しく振り回していた。


<奴です、あの赤毛の『勇者』が、屋敷の外壁を越えてもうすぐそこまで……真っ直ぐこちらの別棟に!>


「は、」


 大声を上げそうになる寸前、自分の口を手で塞いだ。声や物音をたててフェリバたちに気取られてはまずい気がする。いや、むしろ今すぐ人を呼んで避難を促した方が良いのか?

 焦りと驚きで一気に目が覚めた。

 迷いながらもベッドから転がるように飛び降り、室内履きを爪先に引っ掛けて窓まで走り寄る。

 遮光の厚いカーテンを掴んで引き開けると、彫刻の施された出窓の向こう、眼下へ望む庭に人影がひとつ。

 何もない芝生だけの広い庭の真ん中、簡素な衣服の男が何をするでもなく立っていると思えば、ふと二階を見上げる。遠目でもばちりと目が合ったのが分かった。


「な、本当に……っ」


 暗くて髪の色まで判別できないが、どれだけ遠くても見間違えるはずはない。あの男だ。まさかこんな短期間にあれだけの重傷が完治したと……?

 こちらを見上げた男は何か言ったらしく口元を動かし、一度はちぎれた右腕を大きく振って見せる。

 何がしたいのかわからず反応に困っていると、庭に立つ男――エルシオンはおもむろに駆け出し、それを助走にして壁のどこかへ足をかけ、姿が見えなくなったと思ったら一息に二階のバルコニーまで跳び上がってきた。ガラス越しに着地の靴音が届く。


 あまりに突然すぎる、あいつはいつだって唐突だ。信じられない思いに戦慄きながら隣の窓まで移動し、バルコニーへ面した大きなカーテンを引き開ける。

 ガラス一枚を隔て、すぐ手が届くような距離にエルシオンは立っていた。

 欠けた月と薄雲のかかる星空に照らされ、夜闇の中でも思いの他はっきりと顔を視認することができる。

 唖然と見上げるこちらの気も知らず、男は緩んだ笑顔で両手の指をひらひらと振った。


「リリィちゃん、こんばんは~。良かった、まだ起きてた?」


「貴様のせいで起きたんだ。牢で大人しくしていれば良いものを、一体何用だ?」


「そう邪険にしないでよ。気が済んだらすぐ戻るからさ、それまでちょっとだけお話ししよう?」


 窓を隔てているため、すぐそばにいるのに声の通りが少し鈍い。

 こちら側の声も聞き取りにくかったのだろう、エルシオンは窓にふれる寸前まで歩み寄ると、そのままバルコニーの上に座り込んだ。

 リリアーナが立ったままでいるため、やや見下ろす位置に赤い頭がある。癖の強そうな毛先が風に靡く。

 まだまだ夜は冷え込むし、今日は朝からずっと風が強い。そんな薄着では寒いだろうに、と思いかけて、こんな男を心配してやるのも何だか悔しいから気にしないことにする。


「お前と話すことなんてない、帰れ」


「いやいや、そー言わずにさ。何かクッションとか座るもの持ってきなよ、立ったままじゃ疲れるでしょ。寒いなら上着も持ってきていいよ、待ってるから」


「帰れ」


 にべもなく言い捨ててカーテンを閉める。すると外から窓をコンコン叩き始めた。それも無視していると、次第に音が大きくなる。

 たまらずカーテンを勢いよく引き開けると、体勢を変えないままの男が楽しげに笑っている。


「リリィちゃーん」


「うるさいっ、侍女たちに気取られるだろうがこの莫迦者め!」


「じゃあさ、静かにしてるから、おしゃべりしよ?」


「お前と話すことなど、何もない」


 今すぐその顔に拳をめり込ませたい衝動をぐっと堪えながら、リリアーナは声をひそめて言い捨てた。眉間に力も籠るが、どうせ今の姿では迫力など微塵もないことはわかっている。


「リリィちゃん、冷たい……。もしかしてオレのこと嫌い?」


「当然だろう、嫌う以外の要素が己にあると思うのか?」


 至極もっともな回答をすれば、男はまるでショックを受けたように顔を強張らせた。

 全部、何もかも自分に原因があるくせに、まるでこちらが酷いことを言っていじめているかのような態度に苛立ちが募る。

 一体何がしたいんだこの男は。意味不明な言動と行動、それでも自身の命を脅かす相手だと思うと油断はできない。


「生前の対立は置いておくとしても、だ。自分より明らかに力の勝る者に何度も追いかけ回されれば、心証が悪くなって当然だろう。コンティエラに先日の庭での出来事、胸に手をあてて己の行いをよく思い返してみるがいい」


「ごめーん、怖がらせたことに関しては謝るしかないけど、こっちも必死だったんだよ。少しでも手掛かりが欲しくてさ。ずっと、長い間、何のあてもないまま大陸中をさまよってたから、ちょっと焦りが出たっていうか……。うん、反省してる、ごめんなさい」


 そう言ってエルシオンは赤い頭を下げる。突然見せる殊勝な態度と謝罪に、口の中で二の句を噛みつぶした。

 これ以上、同じことで責めても堂々巡りだし、素直に謝っている相手に対して追い打ちをかけるほど恨みがあるわけでもない。

 恨んでいるわけではなく、ただ単純に、苦手なだけだ。

 わずかな異変も見逃すまいと緊張を保ったまま、リリアーナは小さく息をつく。


「……本気で反省しているのなら、もうその件は良い。他人にかけた迷惑と犯した罪の分は、追って断罪を受けるがいい。そこまではわたしが口を出す領分ではないからな」


「んー、その辺はまだ中央への問い合わせ中とかそんな感じらしいけど。そろそろ返事が届く頃じゃないかな?」


「ならばその返答が届くまでは、牢で大人しくしていることだ。こんな夜更けに忍び込んで、自ら余計な罪科を増やしてどうする」


「だから、おしゃべりしに来たんだって。さすがにまだ夜這いはしないよー」


<まだ、だと……?>


 アルトからの念話が横から混ざり込むが、あえて反応は示さず振り返りもしなかった。

 未だこの男にアルトの存在が知られていないことは、いずれ何らかの優位性を生むかもしれない。力で劣る以上は少しでも有利を確保しておくべきだ。


「さすがにこんな小さい女の子に手を出すほどゲスでもないし。っていうか着込んでないとこを近くで見ると、ほんと小さいよね、リリィちゃん今何歳?」


「……生まれて八年になる」


「八歳かー。じゃああと七年だねぇ、先が楽しみだ」


「何がだ? 十五歳記が?」


 話の筋が見えず眉を寄せると、説明する気はないのかエルシオンはへらりと笑うに留めた。

 魔王城の大広間で迎え撃つだけの相手、いずれ『魔王』である自分を殺す相手。……その後は、どこかで平穏に老後を過ごしているのだろうなと思っていた相手、不意に街で追いかけ回された相手、突然庭に現れてまた追いかけてきた相手。今出せる最大出力の魔法で封じようとして、失敗した相手。

 そんな相手がすぐ目の前に座り、他愛ない会話をしているこの状況は何だか不思議な心地がする。

 見たところ、今のエルシオンは何の防護も張っていないようだ。緩みきった気配、至近距離にある頭部。隠蔽の構成を併用すれば、先手を打ち致命傷を与えることだってできるかもしれない。


「……」


 益体もないことを考えているという自覚はある。

 どうせ、実行はしないのだ。

 夜中に騒ぎを起こすわけにはいかない。まだ快復しきったわけではないため無理は禁物。この男のことだからどうせ防がれる、などなど。そんな言い訳じみたことを胸の内にいくつも並べながら、リリアーナはずっとカーテンを掴んでいた指先から力を抜いた。


「会話に応じれば、満足して帰るのだな?」


「うん、そうそう。ちょっとでいいからさ、オレとおしゃべりしよ?」


 先に折れて見せると、男は無邪気に破顔する。あぐらをかいた体勢から窓に向き直り「まぁ座って座って」と言ってから、おもむろに両手をぽんと叩いた。


「あ、オレ、ちょうど良いもの持ってたんだ!」


「?」


 エルシオンはそう言って、虚空を見上げて何度か開閉した右手をぺたりと窓につける。すると、ガラス越しに突然、布のかたまりのようなものが現れた。

 床へ落ちる前に慌てて受け止めたそれは、思った以上に柔らかい。両手で押し込めば綿のような感触が返ってくる。抱えるほどの大きさの枕、またはクッションのようだ。

 レース飾りなどはついておらず、夜闇のため色はわからないが薄い柄なしの生地。おそらく布袋に中綿を詰めて、端を縛ったものだろう。その布自体はあまり質の良いものとは思えない。

 ただ、中に詰まっている綿は違った。


「……何が入っているんだ、これは。ただの綿とは異なる感触だな……柔らかいのに弾力もあって、温かくて、手がどこまでも沈み込むようだ」


「極楽鳥の羽毛だよ」


「ご」


 一音出すのが精一杯で、口が「ご」の形のままリリアーナは固まった。

 極楽鳥と言えば、テルバハルム山脈の奥地に住まう伝説級の大型鳥類だ。まずもって人里に降りてくることはない、古代竜クラスの稀少種。

 鉄鬼族の件などで何度か麓へ足を運んだことのあるデスタリオラですら、存命中に一度もその姿を見たことがない。

 魔王城の地下書庫にある本で、尾羽には特別な力が宿っているとか、心臓を食せば不老不死が手に入るとか、どの部位の肉も至上の美味だとか、そうした真偽の確かでない情報をいくつか読んだことがある程度。

 伝説なんて言われるくらいだから、もうとっくに絶滅している可能性もある、なんて思っていたくらいだ。

 ……その、極楽鳥の、羽毛。


「どうしてお前が、そんな代物を持っているんだ。しかもこんな粗末な布袋に詰めたりして」


「んー、前に山登りした時、ちょっと捕まえたことがあって。逃がしてやる代わりに何でも言うこと聞くって契約を交わしたんだよね。そんとき雪が降ってたし、なんか温かそうだから胸毛をむしったんだ」


「どんだけ外道だ貴様」


 あまりにもあんまりな経緯に絶句する。

 当の本人は特に何とも思っていないのか、羽毛の詰まったクッションを抱えたまま棒立ちになるリリアーナへ、それを敷いて座ればいいと床を指さしながら笑いかけた。


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