第265話 リリアーナ師匠の魔法講座④
用意した白紙に、自分の拳ほどの円を三つ。横に並べて描いたそれぞれには、【点火】【湧水】【送風】の効果を与える構成をペンで描き込む。筆記のためのペン先だからあまり描画には向かず、たまに線が引っかかってしまうけれど、目で見ておおよその形がわかれば十分。
ごく基本的な、最低限にまで簡略化した構成だ。特に三つ目の【送風】であれば、以前カステルヘルミが詠唱して見せた魔法とほぼ変わりない。
紙に描き出した絵図を食い入るように見つめながら、対面に座る女魔法師は眉間に浅いしわを寄せた。
「今度はこれを……。わたくしにできるでしょうか?」
「お前の自信のなさと自己評価の低さはどうもわからんな。ひとつできたのだから次もできる、とは思わんのか?」
「お嬢様とお会いするまでは、わりと魔法師としての腕前には自信があったのですけれど。もう、最近は全方位から心がめためたでございますわ」
「めためた?」
口の中で繰り返してみてから、インクを落としたペンを横に置く。
魔法の基本である円形を頭と眼に叩き込み、さらにその円を構成として浮かべ安定させることにも慣れてきた。そろそろ次の段階へ移っても良いだろうと考えた結果、今日の魔法の授業は座学にした。
まだ庭へ出る許可が下りないため、どのみち部屋でやるしかないという理由もあるが。暇を持て余す日々に、こうして室内でもできることがあるのはリリアーナとしても有難かった。
段階を進めると決めはしても、まだカステルヘルミには魔法を発現させるための構成をあれこれ教えるべきではないと思っている。
知れば、きっと使いたくなる。
使うべきタイミングに手数を備えていれば、有利に運ぶこともあるだろう。しかし、カステルヘルミの場合は小心者のくせに妙な度胸もあるものだから、下手に攻撃手段を覚えては何をやらかすか不安でしかたない。
あのエルシオンと対峙した時も、自分を庇って前に出た時は肝を冷やした。
効果なしの構成円だけを浮かべて相手の気を引くという、自分では思いつかないような手を披露したことは褒めてやりたい。だが、もしあの時、効果のある魔法を知っていたら、この女はきっとエルシオンに向かって攻撃を加えていた。魔法で手向かう相手に対し、あの男がどんな反撃をしたかは、仮定としてもあまり考えたくない。
相手との力量差を計れないうちは、実戦に使えるような魔法はお預けだ。その前に基本をしっかり覚えることを徹底させていこう。
「この三番目の【送風】は、お前も見覚えがあるだろう? 二回目の授業で風を起こさせた時、手の中に浮かべていたものだ」
「あの時は手鏡に映った自分の目に夢中で、あんまり魔法のことは覚えておりませんわ……。でもそれなら、わたくし、もうできているということかしら?」
「そうだ。お前は中々の素質を持っているのだから、少しは自信を持て。次は正しい法則を覚えて、意識してこれを浮かべられるようになる訓練だな。もちろん、あのおかしな詠唱は抜きで」
「が、がんばりますわ!」
両手を握り締めて目を輝かせるカステルヘルミ。やる気が上向いたなら結構。
弟子の成長というのは、八朔の樹が育っていくのを見守るような長期的な面白味がある。十年後や二十年後がどうなるか楽しみだ。
「では手始めに、もう心得のある風からいこう。お前は、風がどうして吹くかを知っているか?」
「え? 改めてそう言われますと……ええと、どこか遠くから空気が押されて、それが風になるのかしら?」
「うむ、大体そんな感じだな。温度差とか気圧とか要因は色々あるのだが、空気が動くことで風が生じる」
言いながらリリアーナは指を一本立て、その上に紙に描いたものと全く同じ構成を浮かべる。
起動させた小さな構成円からは柔らかな風が絶えず吹き続け、正面にいる女の髪を揺らす。自分でも使える魔法だろうに、カステルヘルミは物珍しそうに風の境目へ手をかざしている。
「じゃあその動いている空気とは何だという話だが。目に見えないだけで、空気は細かな粒でできているんだ」
「え、粒、ですか? 何もありませんけれど?」
「何もないことはないだろう、現に今、お前は自分の手で風に触っているではないか。本当に『無』であれば、手でふれられまい?」
「はっ、……は! ……ハ?」
細い筒状の風に両手をかざしたまま、カステルヘルミは目を瞠り、わなわなと体を震わせる。
「な、何というか、上手く言えないのですけど、今とんでもなく大事なことをさらっと教えられているような気がいたしますわ!」
「確かに大事なことではあるな。物質の基本組成の話でもあるから覚えておけ」
「念のためお伺いいたしますけど、これ、世界の秘密に抵触しているとか、そーいう類のヤバいお話ではありませんわよね?」
「ずいぶんと発想が飛躍するなぁ。風にさわっているくらいで、なぜそんな話になるんだ?」
真剣に聞こうとする姿勢は良いけれど、いくら何でも大袈裟に捉えすぎだ。リリアーナは立てていた指を特に意味もなくくるりと回し、浮かんだ【送風】の構成を消す。
「万物の材料はうんと小さな粒だと、何となく頭の隅に置いておけばいい。この机も紙も、お前の体だって最小単位に分解すれば、眼に視えないほど小さい粒になる。そうした物の造りと動きについて理解するのが、魔法を扱うための基礎でもある」
「あんまり魔法とは関係ないような気がいたしますけれど、ええと、お勉強が大事だということかしら?」
首を軽くかしげるカステルヘルミは、まだあまり物理法則と魔法の関係を飲み込めてはいないようだ。こちらも一度に詰め込むつもりはないから、ゆっくり理解していけばいい。時間はたくさんある。
話に一区切りついたのが見て取れたのだろう、ポットを手にしたフェリバが嬉しそうに近寄ってきた。
イバニェスの屋敷にある勉強部屋とは違い、ここは自室として借りている広い部屋の一角だから、机に向かっている姿もフェリバやエーヴィに筒抜けだ。会話までは聞こえないだろうし、構成陣も視えないのだからと衝立は置いていない。
「お茶のおかわり、いかがですかー?」
「うん、もらおう。話し通しだと喉が渇く」
「ちょっと空気が乾燥してますもんね。リリアーナ様、喉や目は痛くないですか?」
「大丈夫だ」
甘さを控えめにしたミルクティーは喉と一緒に気持ちも潤う。カップを両手で包むように持つと、少し冷たくなっていた指先がじんわりと温まった。
「このお茶も、粒でできているんですの?」
先ほどの話がまだ納得できないのか、手にしたティーカップの中身を見つめながらカステルヘルミが呟く。
聖王国内で魔法師のレベルが退化している以上、物の成り立ちに関する教養も低下していると踏んでいたから、それも予想通りの反応だ。液体も空気も粒だと言われて、そういうものと飲み込めるだけの素地がまだないのだろう。
「目には見えないけどな。納得がいかないか?」
「いいえ、お嬢様がそう仰るのでしたら信じますわ」
「うん、結構。お前のその何でも鵜呑みにする姿勢は、実に教え甲斐がある。はじめの頃は記憶をまっさらに洗うことまで考えたものだが、不要だったな」
自分の都合で勝手に他者の記憶をいじるなんて、あの赤髪の男と同レベルになってしまう。
この優秀な弟子はそんな必要もなく、自分の言ったことは素直に信じ込むから、もうあの妙な詠唱など忘れている頃だろう。聖堂のおかしな教導のせいで基礎の基礎から上書きをする羽目になったけれど、これはこれで根元から真っ直ぐに育っている安心感がある。
育ちだした芽を嬉しく思うリリアーナは、両手に包んでいたカップを右手で持ち、その縁に左の人差し指を置く。
「例えば、この香茶の温かさ。これは香茶の中の
「香茶が……震える……?」
「見えないからイメージだけで構わん。その震えがカップの粒に伝わり、周りの空気の粒にも伝わり、少しずつ均一になっていく。そうして均され周囲と同じになっていくのが、冷めるという現象だ」
「なる、ほど?」
カップを手にしたカステルヘルミは、リリアーナの手の中を凝視したまま首を右に傾け、左にも傾けた。
「これまでふれたことのない範囲だろうから、わからなくても構わん。理屈を学んで噛み砕いていくうちに、いつか飲み込めるようになるだろう。今はまだ理解までは遠くとも、そういうものと知っておくだけで違うはずだ」
「違うって、何がでしょう?」
「魔法の効果が、だ。構成に描き込んだ内容を精霊たちに実行させるのが基本ではあっても、術者のイメージと指示も重要だからな。お前とて、構成も風の仕組みもよく知らないまま、風を起こす魔法を使えただろう?」
「ええ、でもあれは詠唱……は、意味ないのでしたわね」
「ん。元々お前自身が風というものを知っていたから、魔法を起動する際にそれをイメージしたのが構成陣を経て伝わったんだ。魔法の設計図である構成を学び、空気の仕組みを知り、理屈と結果を結びつけることができるようになれば、いずれ風を起こす魔法の強度も範囲も思いのままになる」
持ち上げたままのカップに口もつけず、背を伸ばしたまま固まっていたカステルヘルミの頬が徐々に赤みを増す。
「こんなわたくしでも、お嬢様はできるとお思いなのですね?」
「最初からそう言っている。でなければ弟子になんてするものか。お前は良い弟子だ、才能もちゃんとある」
顔が赤らんできたと思ったら、目まで潤みだした。眉も口元も情けなく歪ませながら、カステルヘルミは山羊のように「プェェェ~」と妙な鳴き声を漏らす。
「ルミちゃん先生はがんばってるし、すごいですよ。私なんて机に向かっただけで寝ちゃうのに。こんな難しいことお勉強して、練習だって毎日ちゃんとしてるじゃないですかー」
「うむ。単純な練習を積み続ける根性は、大したものだ」
「それに、リリアーナ様の弟子なんて世界にひとりだけですよ。なんかもう絶対すごい魔法師になれるに決まってるんだから、自信持ってください!」
生前は誰に教えることもなかったし、この先も魔法の弟子なんて取るつもりはないから、確かに世界でひとりだけだろう。
……弟子にしたカステルヘルミへ魔法の授業をしていることを、フェリバに言ったことがあったかな? とリリアーナは不思議に思いながらも、笑顔で励ます侍女と涙目で奮起を誓う家庭教師を見て、まぁいいかと空になったカップを置く。
まだ幼いうち、ほんの少し前までは、自分の年齢が足りないために、家庭教師たちから教えられる内容が浅いのだと思っていた。
だが、どうもそうではないらしい。
イバニェス家の書斎にも、サーレンバー邸の書斎にも、こうした物理法則について詳細に解説するような本は一冊も見当たらなかった。魔法の指南書がないのはともかく、数学書や歴史書などは難解なものも揃えているのに、物理関係の本だけ並べていないということはあるまい。
どうやらヒトが扱う魔法の退化については、自分が思っていたよりも根が深刻そうだ。
聖王国中に伸ばされているその根の元にあるのは、聖堂。
広く一般に備わる常識や教養を操作するなんて、とてつもない時間と権力が必要になるはず。この時代に聖堂と呼ばれる宗教組織は、一体何のためにそんなことをしているのだろう。
聖堂について考えるといつも思い浮かぶのは、実のある会話を交わし一時をともに過ごした白い少年、ノーアのこと。
彼を見つけ出しもう一度会うことが叶えば、何でも質問をふたつ答えてもらえるという約束をした。
秘密を自力で明かすのと、彼に再会するのは、果たしてどちらが先になるのか。
閉めきられた窓の向こう、強まった風に押し流されていく薄い雲。それを物憂げに見上げながら、リリアーナは冷える日にこそ外で熱々のブニェロスが食べたいなと考えていた。
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