第264話 うららかな朝の訪れ②
何だか釈然としない思いを抱えたまま、リリアーナがベッドの上で長話の体勢を整えていると、再び叩扉の音が響く。
お茶の支度ができたのだろう、許可を得て入ってきたフェリバは四角い銀盆を携えていた。あまり嗅ぎ慣れない、甘いような不思議な匂いがあたりに漂う。茶葉の香りとは違うようだ。
「できましたよー。分量とかは説明書きの通りにしてみたんですけど、これ、すっごくおいしいです、リリアーナ様も飲んでみてください!」
「毒見なのか、つまみ食いなんだか、わからない言い草ね……」
「まぁ、フェリバはフェリバだからな。お前が持ってきた手土産は飲み物だったのか?」
サイドテーブルに用意された大きめのカップには、ミルクティーよりも色濃い液体がなみなみと注がれていた。不透明のそれは一見するとホットミルクにも見える。煉瓦色混じりなのは、一体何が入っているのだろう?
フェリバとクストディアの視線に勧められるまま、カップを持ち上げてひと口啜ってみる。すると、未だ知らない濃厚な甘さと風味が口の中いっぱいに広がった。
炒ったような香りとねっとりした濃い甘み、何かがミルクに混ぜられている。喉の奥に留まる苦み混じりの甘さは初めての味わいだ。
リリアーナが感想を告げるのも忘れ夢中でカップを傾けていると、その様子だけで気に入ったことが伝わったのだろう、クストディアは満足気な笑みを浮かべて自分に用意されたカップを手に取った。
「南海の茶葉は持っていても、まだコレは知らなかったみたいね。あっちで栽培している豆を焼いて、細かく挽いたものが入ってるのよ。私はあんまり好みじゃないけど、アンタなら食いつくだろうと思ったわ」
「うむ、うん、これはうまい。香りもいいな。濃厚で不思議な甘さだ」
好みの味だと伝える前に、カップの半分ほどまで飲んでしまった。本の貸し出しがなくとも、手土産としては十分すぎる。
あとは少しずつ飲もうとカップを下ろし一息ついていると、クストディアはうろうろと目をさまよわせながら、ためらうように指先を弄っていた。何か言い出しにくい話でもあるのだろうか。
そのまま小刻みにカップを傾けながら、黙って待つことしばし。
「……こないだ話した、あれ、戻ってきたの。だから、その礼みたいなもんよ」
「あれ?」
「だから……、お父様の部屋から無くなっていた物。まだ領外には散逸していなかったわ、立て続けの出物だから古物商の方でも不審に思って、買い取った後に保管していたみたい。お父様とも面識があったらしくて、遺品ということなら買い戻しの上乗せもいらないって」
「そうか、無事に戻ってきたのなら良かった」
亡きクラウデオ氏の私室から消えていた数々の高価な品。それらは結局、クストディアの親戚が勝手に持ち出し、売り払っていたらしい。清掃を請け負った侍女が金で協力していたと口を割り、指示した者も全て捕縛されたと、二日前の訪問で知らされた。
高価な品というのはそれだけ稀少なわけだから、足もつきやすいのだろう。買い取った商人が善良であったのも幸いした。
書籍や骨董品の他、クストディアが案じた通り母親の宝飾品もいくつかなくなっていたという。あまり高価なものを身に着ける習慣のなかった領主夫人が、正式な場で使うために所持していた選りすぐりの品。いずれも特徴のある宝石とのことだから、そちらも全て見つかれば良いと願っている。
「残りも探させてはいるけれど、本だけは人手に渡ってて追うのが難しいみたい。詩集は見つかったのに、例の『勇者』エルシオンの伝記は、その商人の所には持ち込まれていないって」
「そうなのか……。書斎から消えた、聖堂の本や手記もまだ手掛かりはなしか?」
「ええ、一応伝えてはあるけど、そっちの話はさっぱり入ってこないわ。イバニェスの文官の、あの細目の男も色々と動いてくれてるみたいだから、見つかったらあいつから話が行くんじゃない?」
ファラムンドの従者、ソラからは特に報せはない。まだ何の手掛かりも掴めていないということだろう。
元々自分の持ち物ではないし、盗品としての捜索はサーレンバー側へ任せるべきなのだが、あの手帳だけは消えた理由と行方が気になった。
聖堂の不審な行いと、精霊教についての所感が記された古い手記。自分と同じような疑問を抱いた誰かが書いたもの。できればもう一度、ちゃんとあの中身を読んでみたい。
「ブエナおじい様も覚えはないと言っていたし、あの手帳は一体何なのだろうな……」
「さぁ、私だって知らないわよ。もっとも、そんな個人の手帳なんて売ったところで大した額にもならないし、誰かが持ち去ったなら金以外の目的があったんじゃない?」
「そこだな。誰がなぜ持って行ったのか、それもわからないとなるとお手上げだ」
カップを両手で持ったまま、軽く肩をすくめる。あとは続報を待つしかない。
温かいものを飲んだせいで少し体が熱くなってきた。重ねて着ていた一枚を脱いで、軽く畳む。下はワンピースのような形をした少し薄手の寝間着で、いつも寝汗をかくとこちらを取り替えられる。
身軽になり、再びカップを持ち上げると、またもやクストディアが微妙な顔をしていた。今度は何だ。
「……別にいいんだけど。あと二年もしたら十歳記なんでしょう、少しは年頃の娘としての嗜みとか恥じらいとか、身に着けておきなさいよ、みっともない」
「みっともない?」
「別にいいって言ってるでしょ。シャムのことを置物としか思ってない態度はそのままでいいわ」
「置物と思っているわけではないのだが……」
そう釈明しながらクストディアの背後を見上げると、黒鎧の男は首から上だけ窓の方を向いていた。
ちょっと考えて、人前で寝間着を脱ぐのがまずかったのかと思い当たる。……まぁ、クストディアが別にいいと言っているから、いいか。
そう判断し、冷めかけのカップに口をつける。これは冷たくして飲んでもおいしそうだなと思った。
「ほんっと、領主子女らしくない上に落ち着きのない子ね。脱ぎ着くらい侍女に任せて、静養中なら大人しく寝ていなさいよ。暑いなら窓を開けさせたらどうなの? 換気はしてるの? 素足を出してないで何か履きなさいよ、爪先が冷えるじゃない」
「大丈夫だ。それに、こうしてベッドで大人しく過ごしているではないか」
「嘘おっしゃい。さっき私が来たときだって、何かやってたくせに。全然じっとしてないんだから」
「あれは、その、少しくらい筋肉を動かしていないと鈍ってしまうから……」
大人しくしていなかったのは確かなので、口の中でもごもごと言い訳のなりそこないが萎む。
多少は体を動かしていなければ、快癒した時に困るのは自分なのだ。ちゃんと寝室から出ずにいるだけでも褒めてもらいたいくらいなのに、と思うと頬がふくれる。
脱いだ寝間着の上をかたわらに置き、横座りにしていた足をベッドの上で伸ばした。
「体の筋を伸ばす程度の、軽い運動なら許されているんだ。寝てばかりでは筋力だけでなく体力まで落ちてしまう。いざという時に息が上がって走れなくなるのは、お前とて味わったばかりだろう?」
「あんなの例外中の例外でしょ、普通に暮らしてたら走る機会なんてそうそうないわよ!」
ブエナペントゥラと言い合いをした後、走り去ったもののすぐに息切れして足を止めていたことを指摘すると、今度はクストディアがむくれて横を向いた。
自分は普段からなるべく体を動かし、散歩や夜の柔軟運動を欠かさずにいたからこそ、林の中を駆け抜けて採掘場跡まで行けたのだ。幼い頃と比べれば着実に体力がついている実感もある。
このまま鍛え続ければ、生前ほどは無理でも、多少の無理はきく程度の肉体に成長するのではないだろうか。こう、上腕筋など今の倍くらいになって、胸筋や腹筋も硬くなって……
鍛え上げられた未来の自分を夢想しながら細い二の腕を撫でつつ、ふと立っている黒鎧を見る。
「シャムサレムも、そんな重たい鎧を着たまま生活するには、日頃から筋力を鍛えていないと無理だろう。あんな鍛錬を毎日やっているのか?」
「あんな?」
クストディアの短い問いには曖昧にうなずき、ベッドの端から両脚を下ろしてぶらぶらとさせた。
以前、窓から見かけたシャムサレムの鍛錬は、平衡感覚を培いながら自重を利用して腕を鍛える合理的な方法だ。片手逆立ちの屈伸は場所を取らないし、自分もあれができるようになればいいなと思う。
<リリアーナ様、ムキムキは、ほどほどに……>
「筋肉は、あって困るものではない」
<えー>
「そうね、ないよりはあった方がいいわ」
リリアーナの呟きに対し同意にうなずくクストディアは、顔を傾けて背後のシャムサレムを見上げた。令嬢二人分の視線を受ける黒鎧は兜をしたまま微動だにせず、その下の表情はうかがえない。
もう素顔は知っているのだし、室内でまでフェイスガードをつけている必要はないと思う。本人は息苦しくないのだろうか。
「この前、シャムサレムの鎧は常に身を守るためだという話は聞いたが、普段から顔まで覆うことはないんじゃないか? それ、邪魔だろう?」
ひとまず日常生活においては、フルフェイスではない兜にして頭部を守れば良いのではないか。そんなことを考えて疑問を口にすると、クストディアは顎を上げながら鼻でせせら嗤った。
「顔も隠していないと、小うるさい虫がたかるのよ」
「虫?」
ここは近くに大きな川があるから、陽の季などに羽虫が増えるのだろうか? 顔面を出しているとたかられるというのは、意味がよく分からないけれど。
そう思ってシャムサレムへ視線を向けると、不自然に顔を逸らされる。
「……? まぁいい。ついでだから、シャムサレムにはいくつかわたしの知っている、局所的な鍛錬方法を伝えておこう。クストディアも、腹とか脚とかの大きい筋肉は恒常的に鍛えておいて損はないぞ。お前はいくら何でも体力がなさすぎる、たるんでる」
「余計なお世話よっ!」
ふたつに結い上げた髪を揺らし、クストディアは令嬢らしからぬ顔で歯を剥き出しながら威嚇した。
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