第250話 魔法師は見た!~策謀の劇場編~②


 街の石畳を進む馬車は揺れも少なく、軽快な蹄の音とともに回る車輪の音は耳に心地よいくらいだった。

 車窓からのぞく街の風景は、先日リリアーナたちと買い物に下りた時とは少し様相が異なっている。商店の多く並ぶ通りではなく、大型施設へ続く閑静な道を進んでいるためだろう。周辺に見える立派な建物は、サーレンバー領の有力者たちが住まう屋敷や別邸のようだ。


 豪奢な馬車の座席に収まり、カステルヘルミは最大限に淑やかな微笑を保ったまま、心の中では滂沱の涙を流していた。早く部屋に帰って、湯浴みをしてひとりで毛布にくるまってふかふかのベッドで眠りたい。

 その虚ろな目が映すのは、正面に仲良く並んで座るふたりの令嬢たち。

 栗色の髪を高い位置でまとめたサーレンバー領の令嬢は、客間で合流してからしばらくは緊張した様子で口数も少なかったのだが、馬車に乗ってからいくらか気持ちもほぐれたのだろう、今日の衣装や演目について得意そうに話していた。

 それに応える淡い色彩の少女は聞き役に徹し、たまに相槌を返しては花のような笑顔を浮かべる。愛らしい令嬢たちのそんな華やいだ様子は眺めているだけで心温まりそうなものなのに、緊張と不安と義務感に苛まれるカステルヘルミは、出発したばかりの今から早くも疲労困憊だった。


 三台が連なった馬車は静かな通りを抜け、坂道をひとつ越えると、窓の外に大きな煉瓦造りの建物が見えてきた。サーレンバー令嬢が指をさし、あれが目的地の劇場なのだと教えてくれる。

 芸術の興行発展を広く推奨するサーレンバー領の方針により、領内には劇場や野外舞台の類が多く設えられているらしい。その中でも一番の目玉、設備の良さでは中央にも引けを取らない自慢の大劇場とのこと。

 歌劇は故郷や中央でもいくつか観たことがあるけれど、さすがにここまで大きな施設で鑑賞するのは初めてだ。暗澹とした気持ちは晴れないまでも、外壁の見事な彫刻を見上げていると心躍るものがあった。

 馬車は劇場の正面へは向かわず、横手の門からそのまま中へと収容される。

 ステップを降りると広々した空間には他に何台もの馬車が停まっていた。いずれも今日の公演初日に招待された、周辺領や中央のお偉方が乗って来たものだろう。それぞれの扉には貴公位の紋章が刻まれている。


 劇場の支配人の先導により、護衛に囲まれながら絨毯の敷かれた廊下を歩く。一般客は入ることのできない専用通路から階段を上り、大きな両開きの扉を出ると、一気に眼前が開ける。

 初めて足を踏み入れるそこは、貴賓用の特別席だった。左右は壁とカーテンに囲まれ、舞台を望む前方もバルコニー状になって下の客席からは見上げることのできない造りだ。

 本来の身分であれば一生縁のなさそうな空間に通され、自分だけが場違いなのではとカステルヘルミは顔を青褪めさせる。幸いと言うべきか、照明を落とされた劇場内は薄暗く、よほど接近しなければ他人の顔色まではうかがえない。


 奥の椅子からブエナペントゥラ、ファラムンド、カステルヘルミと並び、その前の席にサーレンバー家令嬢とイバニェス家令嬢が仲良く並んで腰掛ける。

 段取りの説明は受けても座席までは聞いていなかったため、着席してからは伸ばした背筋が鉄板にでもなったかのようにびしりと固まり、緊張の汗が浮かぶ。

 まさか自分が領主の隣席だなんて思いもしない。これまで過ごしてきた中でも一番の至近距離、息遣いが聞こえそうなほど近くにファラムンドがいると思うと、胸の高鳴りまで聞き取られてしまいそうで、荒くなる鼻息を抑えるのに精一杯だった。

 憧れの相手と並んで観劇、こんな状況でなければ舞い踊るほど嬉しかったのに。この切り取られたような特別な空間で、劇が終わるまでのひと時は同じものを見て、同じ空気を吸っている。そう考えるだけでたまらない。


(あぁ、何だかとってもいい匂いがしますわ……。これはもしかして、ファラムンド様の香水?)


 鼻腔をくすぐる薫香に夢中ですんすんと鼻を鳴らしていると、隣から体重をのせた肘掛のきしむ音がした。わずかに、香りが強くなる。


「昨日は、とんだことに巻き込んでしまってすまないね。もう体調は良いのかい?」


「ふぇっ? い、いえ、はい、とっても元気ですわ。それと、ええと、滅相もないっ、わたくし何のお役にも立てなくて」


「君が身を挺して娘を守ろうとしてくれたことは聞いている。父親としては感謝してもし足りないくらいだが、淑女があまり無茶をするものではないよ。万が一にも次がないよう細心の注意を払うが、もし同じようなことが起きたら、どうか自身を守ることも大事にしてほしい」


「は、はい……、心に留めておきますわ」


 鼓膜が溶けそうな囁き声に小刻みな首肯を返すと、隣のファラムンドは鷹揚にうなずき、口元だけに薄く笑みを浮かべた。

 間近でそれを食らったカステルヘルミは内臓を全部吐き出して悶絶したい衝動に襲われたが、前の席からの視線を感じて危ないところで踏みとどまる。


「……ああ、もうすぐ始まるようだね。少し長い劇らしいが、席でよい子にしているんだよ、リリアーナ・・・・・


「はい、お父様。観劇は初めてだから、とっても楽しみです」


「ワハハハ、ここなら多少の物音をたてても気にする者はおらんから、まぁ気を楽にして観るといい。途中で疲れたり、喉が乾いたら遠慮なく言うんだぞ?」


「ええ、ありがとうございます、ブエナおじい様」


 胸の前で指を組み、にこやかにふたりの領主と言葉を交わす少女――に扮したレオカディオ。麗しい面差しだけでなく、細い肩も華奢な指先も、そのあどけない仕草も何もかも、どこからどう見たって完璧な領主令嬢。おまけに声音までリリアーナに寄せてきている職人芸には舌を巻くしかない。

 そうこうしていると、眼下の舞台に劇団の座長らしき男が姿を現す。封切りの挨拶を簡潔に述べ、それが終わって間もなく、高らかに開演のベルが鳴り響いた。






 ――ぱちりと、瞬きをする。

 座ったまま朝の目覚めを迎えたような感覚だった。

 体勢を崩さずに視線を周囲へ巡らせると、暗くなっていた照明が灯されて窓のカーテンも開いている。隣とその向こうの席は、いつの間にか空になっていた。

 正面の舞台も幕が下りている。帰り支度や観劇後の感想を言い合う声が方々から反響し、劇場内はざわざわという喧騒で満たされていた。

 どうやら公演は無事に終わったらしい。

 別に寝ていたわけではないのだが、ファラムンドとのあまりに近すぎる距離を気にして呼吸音を抑えるのに必死でいる内に、意識が半分ほど飛んでいたようだ。

 ちゃんと微動だにせず、視線も舞台を向いていたはずなのに、劇の内容はさっぱり記憶に残っていなかった。

 これでは帰ってからリリアーナに聞かせる話も何もあったものではない。おそらく正面入口側ではパンフレットのようなものを販売しているはずだから、帰路につく前にせめてそれだけでも入手して……


「……ねぇ。ねぇってば、センセイ」


「は! はい、何でございましょう?」


「もう……劇の余韻に夢見心地になるのは結構ですけれど、私のお話しもちゃんと聞いてくれないと嫌だわ」


「まぁ、申し訳ありませんお嬢様、ぼうっとしてしまって。もう一度お願いしてよろしいかしら?」


 話しかけられていることにさっぱり気がつかなかった。慌てて謝罪をすると、前の席から身を乗り出している少女は可愛らしく小首をかしげた。


「センセイはこの後のご予定、聞いていらっしゃる? 下の皆さんの退場が落ち着くまではここで待っているのは良いのですけど、お父様たちはいつになったら戻ってくるのかしら?」


「ええと、確かファラムンド様とブエナペントゥラ様は、先にお帰りになられる来賓の方とお話があるそうで……、男性のおしゃべりも案外長くなるものですし、お戻りまでもう少しかかるかもしれませんわね」


「私たちを置いて余所の人とおしゃべりだなんて、お父様もブエナおじい様もひどいわ。時間の管理ができていないソラも同罪よ。帰ってきたらうんと叱って差し上げないと」


 そう言って隣席の少女と悪戯っぽい視線を交わし、くすくすと笑い合う。

 そのまるい横顔はあどけなく、草原で花冠を作って笑っているかにも見える光景は、額をつければそのまま絵画として飾ってしまえそうだ。……笑みの隙間に漂う嗜虐の色さえなければ。

 それぞれの本性をいくらか知っているだけに、後ろで聞いているカステルヘルミは何となく実家の意地悪な姉たちを思い出し、あんなのはまだまだ甘かったと、ひとり遠い目をしていた。


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