第248話 決着

※流血表現注意。





「ぐっ、ア゛ァァァ……――ッ!」


 半身を赤く染め、絞り出すような叫びをあげてエルシオンが倒れた。

 抉れた肩を左手で鷲掴み、痛みに呻いて体を震わせる。

 噴き出した鮮血を浴びたまま、温いものが滴る手を握り、リリアーナは止まっていた息を大きく吸い込んだ。


「パストディーアー!」


 声を荒げて上向いた途端、視界いっぱいに金の燐光があふれる。

 その眩い霧が晴れると共に、虚空へ白い布地がはためき、筋骨隆々とした偉丈夫が姿を現した。豊かな金髪は風を受ける稲原のごとく波打ち、周囲を暖かな黄昏色に照らし出す。


『ハァイ、リリィちゃん。おひさ~』


 金の大精霊は空中に腰掛けるように足を組み、指先を振りながら面白くてたまらないといった様子でリリアーナたちを見下ろしていた。

 いつも、そうなのだろう。精霊たちは自らの愉しみのために、地上の全てを娯楽としている。とうにわかりきっていたことなのに、今はその楽し気な表情にひどく腹が立って仕方がない。


「なぜ、こんな……!」


『なぜって、今さらじゃないかしら? 契約は守るわ、邪心を持ってアナタにふれる異性はすべて排除する。一切の例外なく、ね』


「こ、……の、クソ精霊っ!」


 睥睨する金の視線を受け、息も絶え絶えのエルシオンが毒づく。

 何の抵抗もできず地に這うだけの『勇者』を見下ろし、唇で弧を描くパストディーアーは失笑を隠し切れないというようにくつくつと喉を鳴らした。


『相変わらず口の減らない男ねぇ、腕じゃなく首を飛ばすべきだったわ。リリィちゃんだって、この男が邪魔だったんでしょう? 手間が省けて良かったじゃない。何ならこのまま、穴でも掘って埋めちゃえば?』


「それとこれとは……第一、お前は『勇者』と『魔王』の戦いに不干渉というルールのはずだろう」


『あーら、リリィちゃんはもう『魔王』じゃないんでしょう?』


「……」


 すでに『魔王』の権能はなく、ただのヒトとして生きているのは事実だが、それならなぜ『魔王』であった頃に交わした契約を未だに引きずっているのか。

 ……だが、それをパストディーアーに問い質したところで軽くあしらわれるのは目に見えている。本人が楽しければ、契約などどうでも良いのだろう。

 顔を背け、お前の相手はしないと態度で表すと、宙に浮かぶ大精霊は忍び笑いを漏らしながら霞のように消えていった。

 姿が見えなくなっても、どうせどこかで観察をしている。大陸のどこにいようと精霊から逃れられはしない。だから、はなからいないものと割り切って頭を切り替えるしかない。


 倒れて荒い呼吸を繰り返しているエルシオンは、出血の止まらない傷口を押さえたままきつく目を閉じていた。

 肋骨の辺りまで抉れているため、太い血管が破れただけでなく、損傷は肺にまで及んでいるかもしれない。断面からは裂けた骨がのぞいている。単純な止血や手当てでどうにかなる傷ではなかった。


「ハァ、ハァッ、……くっそ……っ!」


 呼吸を荒げる中、気丈に意識を保つエルシオンは何か魔法を使おうとしているらしく、乱れた構成がいくつも浮かんでは消える。

 ひどい痛みのせいで集中が続かないのは、つい最近自身でも身に覚えがある。リリアーナは地面についた手と膝で這うように移動し、ちぎれ飛んで転がった腕を回収した。

 ぐたりとして力の入らない肉塊が、妙に重く感じる。片腕でそれを抱えて戻り、倒れたエルシオンの肩口へ置く。びちゃりと跳ねる水音。流れ出る血は止まらず、赤黒い水溜まりになっていた。


「単純に切断された傷ではないから、高度な修復の魔法でないと、とても元には戻せないぞ」


 一面のおびただしい赤色と鉄を噛む匂いに、ぐらりと視界が揺れる。馬車の事故とあの悪夢のせいで、すっかり血が苦手になってしまったようだ。

 ねっとりした空気にむせて咳き込みそうになるのをこらえ、倒れ込んだ男の頭のそばに手をついて呼びかける。


「しっかりしろ、まだ意識を失うなよ。わたしは治療の魔法は得手ではないのだ。こちらで痛み止めをしてやったら、自分で治すことはできるか?」


 応えるのも辛いのだろう、エルシオンは歯を食いしばり、激痛に耐える険しい顔のまま小さなうなずきを返した。

 見回せば、辺りには氷牢を作った精霊たちがわずかに残っている。ふわふわと漂う光の粒たちは、もっと楽しいことはあるのか、新しいものを披露してくれるのかと、期待を寄せて様子をうかがっているようにも見えた。


(大した返礼はできんが、もう少しだけ力を貸してくれ)


 気持ちを落ち着けたリリアーナは、精霊たちの助力を得ながら最低限の構成を描く。

 痛覚の麻痺。あまりやりすぎると意識まで刈り取ってしまいそうだから、深層にはふれず激痛を和らげる程度に留めた。

 それでも見込んだ通りの効果はあったのだろう、エルシオンの呼吸は少しずつ穏やかになり、薄く目を開くと自身の傷の上に構成陣を浮かべた。治療に慣れているのか、一瞬で編まれる魔法には無駄がない。

 完成した構成をまじまじ観察してみると、それは修復というより治癒促進の描画に見える。

 本来であればこんな重傷に効果を発揮する構成ではないが、この男の並外れた体力と肉体強度ならこれで十分なのだろう。使える機会があるかはわからないけれど、せっかくだから覚えておこう。


 辺りにこぼれた血液や肉片はそのままに、添えられた腕と肩の間で血管や筋繊維が繋がっていく。断裂していた神経と骨が接合し、その周りを肉が覆い、再生し盛り上がる。

 流れ出た血は戻らないから、顔色はひどく白いままだ。呼吸も平常より浅い。

 とはいえこの男のことだから、失った血肉を補うために食糧や水を摂取すれば死にはしないのだろう。……やっぱりヒトではないのでは?


「あのさ、」


「ちゃんと回復するまで動くな、繋がるまでもう少しかかる」


「……まだ、キミから、答えを聞いてない」


 失血により下目蓋に黒い隈のできた顔、血が足りずほとんど目は見えていないだろう。言葉を出すのも辛いはずなのに、男はリリアーナがいる方に顔を向け、かさついた白い唇をたどたどしく動かす。


「キミは、本当に……」


「うぅ、ぐ」


 背後から小さな呻き声が聞こえて振り向く。

 少し離れた所で、仰向けに倒れたままのキンケードが身じろぎをしていた。いくら頑丈とはいえ、ベランナの花粉を吸い込んだなら、まだしばらくは起き上がることができないはず。

 熱線の魔法に見せかけた光で目くらましをして、エルシオンが投げつけてきたのは花粉の詰まった小瓶だった。

 庇うために動けなかったキンケードと、光の魔法に対し反射的に防御を取ってしまった自分。咄嗟のこととはいえ、あれは完全に失策だった。

 もしかしたら、石の陰に隠して短剣を投擲してきたことへの意趣返しでもあったのかもしれない。そして、熱線の魔法を使う素振りを見せれば、魔王城での戦いを知る者なら対策を取るだろうとこちらを試したのだ。

 焦りがあったとはいえ、まんまと策にはまった自分が悔しい。


 光に目が眩み、顔面でまともに小瓶を受けたキンケード。もしも、あれが小瓶ではなくナイフだったら、この男を絶対に許しはしなかった。パストディーアーに任せるまでもなく、倒れ伏す男に自ら止めを刺していただろう。

 剣で切り結ぶ間だって、雷撃以外の魔法を使ってキンケードを倒すことはできたはず。

 どうしても知りたいことがあるなら、問答を挟まず自分を捕らえて吐かせることもできたのに。

 どれもこれも、結局エルシオンは相手を傷つける手段を取らなかった。


 ……今回の件は、痛み分けということにしておくべきか。

 肩から力を抜いたリリアーナは、伸ばした指先で血濡れたエルシオンの頬を拭った。

 一応、汚れを拭いてやったつもりなのだが、指も血濡れだったせいで赤い血がべたりと広がるだけだった。


「今のわたしはリリアーナという名の、ただのヒトの子だ。もう『魔王』ではない」


「あぁ……」


 簡潔にそう答えると、エルシオンは肺の奥から漏れるような息をついて、目蓋を閉じた。

 その吐息には、大陸を彷徨ったという四十年分の何かが込められていたのかもしれない。





 ちぎれていた腕の肉がしっかりと繋がり、真新しい皮膚で覆われるのを見届けた頃、自身の名前を呼ばれたような気がしてリリアーナは顔を上げた。

 割れた氷柱は端から崩れ、大半が気化しながらも池のような水溜りを作っている。その氷の残骸の向こうに、いくつかの人影が見えた。

 林を抜けてこちらに駆け寄るのは、クストディアに話を聞いた護衛たちだろうか……、そう思ったのも束の間、髪を振り乱し見たこともない形相で先頭を走っているのは、父のファラムンドだった。

 ぬかるみに足を突っ込むことなく溶け残った氷の上を器用に渡り、最短距離で突き抜けてくる。そのまま大きく跳び、片足に体重を乗せたその軌道――着地地点が横たわるエルシオンの頭部だと気づき、慌てて赤い頭の上にかざした両手を振る。


「まっ、待ってくれ父上! もう死にかけだから、殺し直す必要はない!」


 その言葉が届いたお陰か、それとも元より頭蓋を踏み砕くつもりはなかったのか、ファラムンドは空中で姿勢を崩すことなく、両脚を前後に開きエルシオンの頭を跨ぐ形で着地した。


「リリアーナ……!」


 名を呼んで屈み込むなり、説明の言葉探す娘を両腕で包むようにして抱きしめる。

 汗と香水と草木の匂い。温かい体。顔を寄せて父の体温にほっとするなり、白いシャツにべったりとついた血の色に驚いたリリアーナは、厚い胸に腕を突っ張って身を引いた。


「父上、すまない、服が……」


 身じろぐ娘に構わず、顔を顰めたファラムンドは指先でリリアーナの汚れた頬を拭い、頭やコートの上をあちこちふれて検分する。指先、手の甲、腕、肩、背中……体を余すところなく撫でて、何かを確かめる。

 噴き出る血を頭から被ったのだから、さぞ酷い有様だろう。父の懸念と何を探しているのか見当がついたリリアーナは、ファラムンドの袖口を摘まんで引いた。


「父上……大丈夫だ、キンケードが来てくれたから、わたしは怪我ひとつしていない。痣も傷も、痛いところは何もない。これは全て返り血だ」


 コートにふれたせいで真っ赤に汚れてしまった父の手を握り、無事を訴える。ファラムンドもひとしきり触って確かめ、気が済んだのだろう。ようやく強張った頬を安堵に緩め、深く息をついた。


「そうか……お前を守りきって死んだなら奴も浮かばれるだろう。リリアーナが無事ならそれでいい」


「ま、だ、死んでねぇよ、勝手に殺すなっ!」


 搾り出すような声に振り返ると、仰臥したキンケードが顔だけを持ち上げてこちらを見ていた。

 肘を突っ張って上体を起こそうとするも、思うように力が入らないのか、起き上がるのを諦めてそのまま脱力する。


「キンケード、もう動けるのか?」


「いんや、まだ無理っぽい。悪ぃな、油断した。嬢ちゃんの方は大丈夫か?」


「ああ、わたしは平気だとも。ただ、この男の方は失血死しかけだから、捕縛するなら慎重に運んでくれ」


 ファラムンドと共に駆けてきた自警団員やサーレンバー邸の守衛たちが追いつき、その中のひとりがリリアーナを見るなり目を丸くして真新しいハンカチを手渡してきた。

 有り難くそれを借りて顔を拭うと、すぐに真っ赤になってしまう。目の前で腕が飛び、噴き出した鮮血を真正面から浴びたのだ。コートの色が濃くて自分ではわかりにくいが、きっと頭の先から髪も何も血塗れなのだろう。

 べたつく前髪が気持ち悪いし、早く湯を浴びて着替えたい。でもこんな姿をフェリバが見たら卒倒してしまうかもしれないし、エーヴィは湯浴みの手伝いを任せられるほど回復しているかわからない、カステルヘルミは……。

 赤く染まったハンカチを持て余しながら唸っていると、大きな手によって再び胸元に抱き込まれた。

 温かな体温に頭を預けていると安心するが、自分のせいで仕立ての良いシャツがひどく汚れてしまっている。着ているフードつきの外套だって、せっかく今冬用にと新調してもらった物なのに。


「リリアーナ、服なんてどうでもいいんだ。お前が無事で本当に良かった。駆けつけるのが遅くなってすまない、たくさん怖い思いをさせたね」


 そう言いながら片足を上げて再びエルシオンの頭を踏もうとしているのに気づいたので、胸元を叩いてやめさせる。

 そして、そのまま腕を回してファラムンドの逞しい首に抱きついた。

 温かい。後頭部へ添えられた手に、父の体温に、なぜか目の奥が熱くなってまた涙があふれてくる。もう出し尽くしたと思ったのに、この小さな体にはまだ水分が残っていたようだ。


 リリアーナとして得たもの、この人生を全て失うかもしれないという危険に直面して、今の生活や家族が、自分にとって掛け替えのないほど大切なものだと一層胸に沁みた。

 失わずに済んでよかった。

 まだ死にたくない。

 手放したくない。

 噛み締めた歯の間から、こらえきれなかった嗚咽が漏れる。

 首に抱き着く娘を抱えたまま、ファラムンドは宥めるようにその背をぽんぽんと優しく叩く。

 緩やかな振動と、自身の鼓動が合わさる。どこか懐かしい、ぬるま湯に浸かっている時のような安心感。還りついた温もり。包まれていた温度。


 周囲の喧噪が遠い。感覚がふわふわとして、境界が曖昧になる。浮かんで、沈んで。

 体力の上限を超えた疲労と、張り詰めていた精神、緊張の糸が切れたことでその両方が一気に限界を迎える。


 自身を包み込む父の体温を感じながら、リリアーナの意識は深い淵へと落ちていった。





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