第247話 赤色


 聳えたつ氷柱を前に、深く息を吐く。あまり寒さは感じないのに呼気はもうもうと白い。

 肉体疲労と、魔法の使い過ぎで全身が重くて気だるい。震える膝に手を置いても体を支えていられず、諦めてその場に座り込んだ。

 今すぐ寝台に体を投げ出してしまいたいけれど、まだやることが残っているからそうもいかない。リリアーナは胸を押さえて呼吸を整え、油断すればふつりと切れてしまいそうな意識を何とか繋ぎ止めた。


「おーい! 嬢ちゃん、無事かー?」


「……あ、キンケード」


 返事の声を張り上げる元気もなく、そのまま座っていると呼びかけの主の方から駆け寄ってきた。

 氷の正反対から大回りして走ってくるキンケードの顔はいつも通りで、先ほどまでの険はすっかり抜けている。また危ない役目を任せることになってしまったが、今回は負傷もなく済んで何よりだ。


「ケガはねぇか?」


「あぁ、わたしは大丈夫だ。危ういところだったが、お前が来てくれたお陰で助かった、ありがとう」


「水臭ぇこと言うな、それがオレの仕事だっての。にしても何なんだこの氷、辺りの地面がベコッとへこんだぞ?」


「地中の水分もずいぶん引き寄せたからな。先日降った大雨が土に染みていて助かった」


 無から有に、静から動に、物理法則も何も無視できる精霊たちの力を借りたとしても、これだけの水を無から呼び出すには相当な負荷がかかる。自分の『領地』内ならまだしも、従える精霊の少ないこの土地ではさすがに荷が勝ちすぎると判断した。

 だから大気中の水分と地中の水を、時間をかけて集められるだけ集めておいたのだ。地表付近はあえて水滴にすることでエルシオンに気づかせ、それが雷撃封じだと思い込ませることに成功したのも幸いした。

 自身が圧倒的に強いという慢心があったのだろう、水の大半は気化した状態で集めていたことに、奴は最後まで気づかなかった。


 乾いた地面に座り込んだまま、氷の塊を見上げる。

 術の完成時に巻き上げた土が混ざっているため、氷柱は濁って中を見通すことはできない。物質も光も遮断する停止の牢獄なら、もっと黒く見えるものかと思っていたが、意外にも大質量の氷は青みがかった濃い灰色をしている。

 少し離れた所で足を止めたキンケードは、物珍しさにか氷柱を眺めながら「ほー」と声を上げた。

 忍び足でそうっと近づき、指先でつついて何かを確かめてから、手のひらを伸ばして氷面を撫でる。


「冷てぇなー」


「冷たいのか」


「そりゃあ氷なんだから冷てえだろ。こんだけデケェ氷があったら夏場に助かりそうだが、削って使ったりすんのはやっぱマズいのか?」


「これはただの氷に見えるが、魔法によって状態を停止している。粒子の運動をゼロに……ええと、この中だけ時間が凍りついているんだ。だから日光に照らされても、夏の季が来ても自然に溶けることはない。勿論、削り取るのも無理だ」


「じゃあヤツは中で……その、」


 言いにくそうに語尾を濁すキンケードが、一体何を言い淀んでいるのかはおおよそ見当がつく。リリアーナは苦笑を向けて首を振って見せた。


「体の芯まで凍りつく前に時を止めているから、この中に封じられても凍死することはない。そもそも、その程度で殺せる相手なら苦労はしないさ。……とはいえ、降らせた氷塊が思いのほか大きかったからな、上下の氷に磨り潰されてグチャッとなっていなければ、まだ生きていると思う」


「グチャって、……まあいいや。ご大層な置き物ができたが、ここなら誰の邪魔にもならねぇだろうし。屋敷の敷地内で良かったかもな、後でブエナの爺さんに言っときゃ立入禁止の措置くらい取ってくれるはずだ」


 聳える氷柱を見上げるキンケードに倣い、空を仰ぐようにして上端を見上げた。

 水分子を限界まで圧縮してあるため、高さは屋敷の三階分くらいに縮んでいる。宙に浮いていた時と比べれば小さくなったが、屋敷の裏手に突然こんなものができたとあってはブエナペントゥラを驚かせてしまうことだろう。一体何と説明したものやら。

 移動させようにも楔は地中深くまで続いており、質量も相俟って人力で掘り出すことは到底不可能だ。


「……んー、細かいことは後で考えよう。とにかく、疲れた……」


「オレは魔法のことはわかんねぇが、こんなのデカイ氷を出したらそりゃ疲れもすんだろ。屋敷まで離れてるし、嬢ちゃんさえ良けりゃおぶってくか?」


「あぁ、頼む。もう自力で林を越えられそうにない。あ、それと林の中で落し物をしたから、帰りに回収したいのだが」


「あのぬいぐるみだろ、来る途中で声を聞いたよ。探して拾ってこうかと思ったんだが、とにかく急げ、そのまま真っ直ぐ走れってアイツが言うからよ。場所は大体覚えてるから大丈夫だ、近づきゃまたあっちから声かけてくんだろ」


 背中を向けたままのキンケードは明るい調子でそう言うと、林の方向をちょいちょいと指さした。

 アルトを落としてきたとわかった時には焦ったが、所在がわかって安堵した。駆けつける途中のキンケードに念話の声が聞こえたなら、やはりここは思念波の届く範囲から外れているようだ。

 無事に決着がついたことはもう探査で知られているかもしれないが、早く戻って回収してやらねば。


 見上げていた顔を下ろすと、また頬の辺りから雫がぽつりと落ちた。もう目の乾きは治まったと思っていたのに、まだ涙が零れているらしい。何度か瞬きをして、袖口で目の辺りを拭う。

 気が緩んだせいか、それとも、ずっと不安でいた『勇者』の件にようやくけりがつき、思っている以上に安堵しているのか、自分でもよくわからない。

 とりあえずキンケードがずっとこちらを向かない理由はわかったので、途端に気恥ずかしくなる。


「ええと、クストディアに、お前を呼んでくるよう頼んだんだ。それを聞いてここへ?」


「ああ。会合から戻って裏庭に出たら、知ってる顔が何人も倒れてるもんだからよ、さすがに肝が冷えたぜ。布の上に寝てる女どもの脈を確認して、嬢ちゃんを探そうとしたら、ちょうど木の向こうからご令嬢を抱えた黒鎧の野郎が出てきたんだ」


「そうか、ふたりが無事に戻れたなら良かった。あの赤毛の男は、歌劇の公演を中止させるためクストディアに会いに来た……、劇団を脅迫をしていた犯人らしいのだが。捕まえられる状態じゃないのは、やはり問題があるだろうか?」


「は? 脅迫って、あれか、劇団と爺さんが何か揉めてたやつか。どんだけ方々に迷惑かけてんだ、あの赤いのは……」


 顔だけでこちらを振り向いたキンケードが、がしがしと後頭部を掻く。苦り切った顔で腕を組み、首を鳴らした。


「追ってたのはこっちが先だが、身柄がこの中じゃ捕縛も尋問できねーし。ま、その辺は戻ってからファラムンドと爺さんで相談してもらうしかねぇわな」


「中央に身元保証人がいると言っていた、もし本当なら損害の補償などはそちらに問い合わせてみるといい。何という名だったかな……騎士がどうとか。クストディアも一緒に聞いていたから、彼女が覚えているはずだ」


 コンティエラでの一件と、劇団の脅迫事件、それからサーレンバー領主邸への侵入に守衛たちへの暴行、令嬢への狼藉、諸々、こうして指折り数える以外にも周辺でエルシオンが起こした罪は山ほどありそうだ。

 術が解けるまではこの氷牢の中だから、捕まえたり量刑を科したりと通常の段取りが取れないのは申し訳ないが、こればかりは仕方ない。一旦、奴は死んだものとして扱ってくれても……


 そんなことを考えるリリアーナの膝先を、白い冷気が過ぎる。

 氷柱の温度が低すぎて、周囲の空気が冷やされているのだろう。こうしてそばにいるだけでも吐き出す呼気が曇り、指先が凍える。


(……?)


 頭をよぎった考えを、疑問符が引き止める。

 巨大な氷が冷たいのは当然だ。呼気がそれに冷やされて、含まれる水分がこうして白く見えているのも当たり前のこと。

 だが、この氷柱はただ水を冷やして凍らせたものではない。世界をそこだけ切り取るような、空間と時間に作用する氷の牢獄。

 術が成った今、氷の中では時間が停止し、外界の影響を全く受け付けない。同様に、氷の外にも温度差なんていう影響を及ぼすことは――


「なぁおい、嬢ちゃん、氷の上からなんか出てねぇか?」


「上……?」


 キンケードの声に再び上向き、切り立った上端を見る。

 巨大な氷の向こう側、いや、もっと手前だ。もうもうと白い煙のようなものが立ち上っている。

 瞬時に可能性がいくつか浮かぶが、思考が重い。

 とにかく、まだ終わってない・・・・・・・・ということは確かだ。

 力の入らない手を地面について、何とか立ち上がる。崩れそうになる膝を叱咤しながら氷の塊を見上げた。

 あれは煙ではない、おそらく氷中からの蒸気。


「キンケード、氷から離れろ!」


「オイオイ、あんなん食らってまだ平気でいるってのか、まじかよ!」


 駆け寄ってきたキンケードの腕に体を掬われる。軽々と持ち上げられ、厚い胸元に抱き込まれたところで、地面が割れるような音をたてて氷柱にひびが入った。

 縦に割れた、深い亀裂。思わず「嘘だろ」なんて、らしくもない呟きが漏れてしまう。


 裂けた氷の壁の向こう、暗がりの中に立つ男がいた。

 真っ直ぐに伸ばした右腕、五指を開いた手を正面へ向けている。その手のひらに収束する光。


「――――っ!」


 血の気が引く。鼓動が跳ねる。

 それは見たことのある予兆だ。

 自分が一番、恐れている魔法。


 ほとんど反射的に、残った全力を振り絞って薄い水鏡を張った。



「……っく!」


 視界を灼く光。

 何の音も衝撃もなく、発射された光線は斜めに設置した水の膜に当たり、上空へと反射した。

 太陽を直に見たような光量につい目を閉じてしまったが、あまりに手応えがなさすぎる。あの熱線の魔法はもっと細く威力が収束されていて、こんなに光ったりはしなかったはず……

 それに、咄嗟に張った水の膜なんかで防ぎきれるはずがない。

 それはほんの瞬きの間、目が眩んで視界が覚束ない中、何かが飛んできたのが見えた。


「あでっ!」


 それはリリアーナの頭上、キンケードの顔に当たって小さな破砕音をたてた。

 途端に鼻腔を掠める覚えのある匂いに、袖口で鼻を覆う。嗅覚を刺すような甘ったるい香り……ベチヂゴの森の奥深くに生い茂る、バンドナの花だ。蜜と根には滋養強壮、花粉には強力な麻酔効果がある。「吸うな」と注意を呼び掛けるよりも前に、自分を抱き上げていた男は仰向けに地面へ倒れた。

 衝撃で胸元から転がり落ちる。体を丸めていたお陰でどこも痛めてはいない。だが、もう自分の足で立ち上がる力は体のどこにも残っていなかった。

 地に這うような格好で、上体を支え、顔を上げる。


「……驚いたよ。心臓が破裂するかと思った。こんなに驚いたのは、四十年前のあの時・・・以来だ」


 裂けた氷柱の中から、悠然と歩いてくる。

 やがて暗がりの中に姿を現した男は、氷牢を仕掛ける前と何ら変わらず、衣服にも顔にも傷ひとつついていない。

 魔法が効かなかった、というより、望んだ効果を発揮できなかったと見るべきだろう。


「構成に手を加えたか」


「あったり~。描ききるのにもたついてると邪魔されちゃうんだよ、もしかして経験ない? 昔は一瞬で描けていたし、今は他に強い魔法師がいないもんね、これまでサシで魔法勝負なんてしたことないんでしょ。お互い、手の内を知られてる相手には気をつけないと」


 嬉しそうに口の両端を持ち上げ、満面の笑みを浮かべる。

 氷牢を破られたのではなく、術が完成する前……上空から氷柱が落ちきる前に、浮かべた構成陣を破損されていた。中途半端な構成は氷の圧縮だけに留まり、時間の停止までは働かなかったようだ。

 力が足りないため、構成を描ききるまで時間がかかるのはどうしようもない。もっと余力があれば最後まで構成を隠蔽したまま回せたのに、完全に自分の手落ちだ。

 こちらが光を使って構成陣を投射したように、エルシオンは束ねた光線で描画の一部を描き換えたのだろう。

 あんな瞬きの間に氷獄の構成陣を読みきったというのか、それともまさか、既知の魔法だった……?


 頭の中に納得と疑問が駆け巡る。

 もう打てる手は何も残っていない。土で汚れた手をついて、座り込むのがやっとだ。


「大昔の『勇者』アステリオが、自身の命と引き換えに『暴虐の魔王』を封じた伝説の大禁術。あんなの実際に扱える人間なんていないから、オレもまさか生きてこの目で見られる日が来るとは思わなかったけど」


「……あれを、知っていたのか」


「うん。でもね、拘束を物理に、しかも氷なんかに頼ったのは完全に悪手だよ、リリィちゃん。確実に仕留めたいなら、あの麻痺の魔法を使って身動きも魔法も封じとくべきだった。オレの手の内を知っているなら、水は使っちゃダメでしょ、風と水は得意分野なんだからさ。瞬間業火で骨まで灰にするとか、土で固めて金属塊に封じるとか、なんか他の手を選べば良かったのに」


 喋りながら歩いていた男は氷柱の亀裂を脱し、すぐ目の前まで近寄ってきた。

 明るい口調、おどけたような仕草、どこか困ったような笑い。昔も今も、考えていることが全く読めない。


「……だから言ったじゃないか、キミにはオレを傷つけることはできないって。本当に死んでしまう可能性がある魔法は選べなかった。相変わらず詰めが甘いなぁ」


 眉根を寄せ、何かを必死に耐えるような顔で、ひたと目を見つめてくる。

 自分よりも少しだけ明るい赤色の眼。虹彩に金を含んだ、髪も眼にも燃える焔を宿す男。

 こんなに間近でその色を見るのは、自分が命を落とした時と合わせて二度目。あの時はまさか、二度目があるなんて思いもしなかったけれど。

 ただ黙って視線を返していると、エルシオンは何をするでもなく、どこか途方に暮れたように立ち尽くした。


「本当に、キミが……そうなのか? だって、四十年だよ、何の確証も手掛かりもないのに、馬鹿みたいに世界中を駆けずり回ってキミを探してた。四十年も経てばもうとっくに成長しきって、元の容姿に戻ってるだろうと思ってたのに。それが、まさか、こんな小さい女の子になってるなんてさ、さすがに想像もできないって……」


 すぐ目の前で膝を落とし、ゆっくりと右手を伸ばす。眼前にある指先は小刻みに震えていた。

 細かな傷痕がたくさんついた、皮の厚い手指。長く剣を振るってきた者の手だ。

 乱れた銀髪を触ろうとして止まり、一度引っ込みかけた手は、ためらいがちにリリアーナの頬へとふれてきた。

 かさついた指先が壊れ物をなぞるように輪郭を辿る。その慎重な手つきには、不思議なことにまるで害意を感じない。

 目の前にある男の顔が、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪む。


「あったかい、生きてる……、オレはやっとキミに、」





 ――――パァン!



 掠れた声が破裂音に遮られた。

 視界が真っ赤に。顔面に温かいものが降りかかる。

 驚愕に見開かれる目。むせ返る血の匂い。


 エルシオンの右腕が、その肩口の肉ごと弾け飛んだ。


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