第242話 クストディア=サーレンバー⑥


 少年の胸にきつく抱かれたまま、苦しさに喘ぐ中で次々に目にした光景が蘇ってくる。

 車窓の外を覆う砂埃、無数に落ちてくる石、クラウデオに抱き上げられ、馬上のシャムサレムに向かって投げ飛ばされて。

 ……それで。遠ざかる馬車が、両親がまだ乗っている馬車が大きな岩に潰された。弾き飛ばされて、切り立った道の向こうへ落ちて行くのを見た。

 突然、すべて奪われた。

 なくなってしまった。目の前で。

 父も母も、もういないのだ。


「ご、めん、ごめん……お、おれは、ま、守れなかった……俺が……っ!」


 不自然につっかかる少年の囁き声に注意を向けていると、もう大人たちの会話は聞こえてこなかった。胸に顔を押し付けられたまま、包帯なのか服なのかわからない布を力いっぱい握る。

 口に当たる服を噛みしめ、クストディアは涙と涎で濡れるそこに思い切り叫びを叩きつけた。


「ゥゥゥゥゥ、ゥ、ァァア――……ッ!!!」


 慟哭を外に漏らすまいと、後頭部を押さえる手に力が込められる。

 声になりきれないその叫びは喉を震わせるばかりで、胸の奥に溜まる嫌なもやもやを晴らすには至らない。

 それでもシャムサレムにしがみつき、布を噛んで息を吐いているうちに、爆発しそうだったその黒い靄は次第に薄くなっていく。喉が痛んで、息を吐き出すのもつらくなってきた。

 最近、……いや、昨日も今朝も、ずっと叫んでいたような気がする。叫んで、泣いて、暴れて、そうして体の外に出していないと、頭の中にいやなものが浮かんでどうにかなってしまいそうだった。

 何かを思い出しかけるたびに、勝手に声が出た。頭を振り払い、涙を流して、叫び声を上げ、何も考えられなくなった。

 どれくらいの間そうして過ごしていたのだろう。鼻をすすりながら痛む喉をさすっても、目が覚める前のことはやっぱり思い出せない。


 そうして発散せずにはいられない衝動が落ち着き、疲れたクストディアが顔を離すと、少年の胸元は色んな水分でぐっしょりと濡れていた。気恥ずかしくて袖口で乱暴に拭うと、今頃になってシャムサレムは「い、いたたた」と言って体を捻った。


「よわい」


「うん。……うん、ごめん……」


「べつに、いいわ。シャムがよわいことくらい、ディアは知ってるもの」



 療養中の令嬢がベッドにいないことに気づいた侍女が声を上げ、老医師がこちらの部屋に探しに来るまで、クストディアとシャムサレムは狭いベッドの上で身を寄せ合っていた。


 馬上で抱えたクストディアを庇い、少年は頭や右腕にひどい怪我を負ったこと。

 負傷の影響か、手の震えが止まらず、言葉も思うように話せないこと。

 石礫に晒されて細かな傷を負ったものの、クストディアは大きな怪我をしていないこと。

 瀕死の馬ともども、領道の外れで商人に発見されてすぐ屋敷まで運び込まれたこと。

 ……そして、その日からすでに五日が過ぎていることを、ゆっくりとシャムサレムから聞かされ、クストディアは嫌でも理解した。目の前で起きた「いやなこと」が全て現実であり、もうどうやっても取り返しはつかないのだと。


 父も母もいない。もう会えない。二度と笑いかけてくれることも、頭を撫でてくれることもない。

 なぜあんな岩が落ちてきたのだろう。前の馬車に乗っていたエリザが無事なのに、どうして両親は潰れてしまったのだろう。

 自分が迎えに行かなければ、一日早く屋敷に帰り着いていた。そうしたら、事故になんて遭わずに済んだのだろうか?

 ……わからない。何も考えたくない。


 ベッドの上に座ったまま俯いていると、腕に巻かれた包帯が緩んでいるのが見えた。痛くもないためくるくる巻き取って外すと、軟膏を塗られた色の下、傷はすでにかさぶたになっている。手首についた赤く擦れた跡のほうがよほど痛々しい。

 泣き叫んで、暴れて、手の付けようがないから大人たちに両腕を拘束されたのだ。険しい顔をしてこちらを見下ろしているエリザの顔がぼんやり浮かんで、すぐに頭を振って消し去った。



 探しに来た医師に見つかってもクストディアは元のベッドへは戻らず、呼ばれて駆けつけた祖父に説得をされても、侍女たちに宥められても、頑としてシャムサレムのそばを離れないと言い張った。

 本来であれば貴公位の娘が護衛と寝台を並べるなんて有り得ないことだが、快復の見込みのなかった孫娘がようやく正気を取り戻したとあっては、ブエナペントゥラにはその強情を跳ね除けることなど到底できない。

 幼くしてひとり残された、息子夫婦の忘れ形見である。後継には向かずとも、無事に帰ってきてくれただけで悲嘆に暮れる心が救われたのだ。

 生きて、そばにいてくれるだけで良い。それさえ叶うなら、たとえこの先どんな我が侭を言われても、クストディアの望みは全て聞いてやろうと心に誓う程だった。


 そうして意地を張り続け、双方の怪我が日常生活に支障のないくらい回復するまで、クストディアとシャムサレムは医療室の奥の部屋で寝食を共に過ごした。

 間に布を下げた衝立を置いてはいるが、手を伸ばせば届く距離にベッドを寄せている。

 クストディアが夜中にうなされてもすぐに起こすことができるし、食事や薬を嫌がってもシャムサレムが宥めれば口にする。そうして我侭な令嬢につきっきりで世話をすることで、侍女や看護師たちの負担が減ったのも事実。

 身分や異性であることを理由に引き離そうとしてもクストディアが聞かず、その上ブエナペントゥラの許しもあるとなっては、誰も口を挟むことはできなかった。



 それから二十日が過ぎ、クストディアは自身の怪我が完治しても、シャムサレムの世話をするとか、そばにいないと不安がるからと言って、未だ診療室の奥を自室代わりにして居座っていた。

 反面、シャムサレムの方はまだ補助がなくてはひとりで歩けない状態が続いている。

 そもそもが、命を落としてもおかしくない程の大怪我だったのだ。老医師はよく耐えたと言って、自分を責めてばかりいるシャムサレムを何度も労う。

 頭部の深い裂傷に右肩から腕にかけての打撲、骨折。その他、岩山側に向いていた右半身に数十の裂傷。守衛見習いのため正式な防具を支給される前であり、他の護衛たちよりも軽装だったことが災いした。

 だが自身の怪我なんかよりも、上半身の全てで庇っていたクストディアの方は手足にいくらかの傷を負っただけで済んだことは、シャムサレムにとってせめてもの救いだった。

 年若い体は回復が早く、食欲もあるため経過自体は一見すると順調にも見える。

 ただ、額と右腕には一生消えない深い傷跡が刻まれ、打ち所が悪かったのか指先の震えや発音の後遺症も残ってしまった。





「だめよ、もっと上。やりなおして」


「や、やっぱり、むり、ですよ……誰か、じ、侍女のひとにや、やってもらったほうが」


「やだ。侍女なんか嫌いだもの。こんなふうに背中を向けて、もしディアの首がちょん切られたらどうするの」


「そ、それはさすがに、な、ないと……いえ、わか、りました。もう一回やりま、ます」


 再び櫛を手にしたシャムサレムは、不格好に結ばれたリボンを一旦ほどき、慎重に少女の髪を梳く。震える指では櫛を満足に扱えず、まとめた髪を結うのも一苦労だった。

 不揃いな仕上がりになるたび無理だと訴えるのだが、少女は容赦しない。自分の髪を整えるよう櫛とリボンを押し付けて、食事のワゴンが運ばれてくるまで、もしくは手が疲れたと少年が音を上げるまで何度でもせがむのだ。


「ク、クス、ト、ディア様、そ、そろそろ食事の時間ですよ」


「ディアのことはディアって呼びなさいって言ったでしょう。変なふうに呼ばれるよりずっといいわ」


「……も、申しわ、わけ、ありません」


「長い。おそい。もっとかんたんにしゃべりなさい」


「いや、そ、ういう、わけにも」


「ディアの命令がきけないの?」


 髪を結え。礼を省け。敬語をやめろ。略称で呼べ。

 クストディアは以前にも増して多くを命じたが、いくら少年がそれはまずいと留めても大人しく言うことを聞く令嬢ではない。命じられたことには従わねばという気持ちと、軽い諦めと、大きな感謝を込めて、次第にシャムサレムの口調は砕けたものになっていった。


 本当は、不自然な発音を聞かれるのが嫌で、他人と会話をしたくないという気持ちが強かった。不明瞭なしゃべり方では意味も通りにくいし、大人たちから申し訳なさそうに聞き返されるのが逆に申し訳ない。

 だが、そんなシャムサレムの心情など知ったことかとばかりに、クストディアは寸暇を置かず毎日少年へ話しかけた。しかも一方的にしゃべるのではなく、必ず返答を求める。

 始めは義務感からそれに応じていたシャムサレムだったが、ほんの少しずつ発音がしやすくなっていることに気がついた。髪を結うのも、本人だけにわかる感覚の範囲で、段々と櫛が扱いやすくなっている。


 少年の治療が進み、医療室を出て普段通りの生活に戻ってからもその命令は継続された。ふたりでいる時は多くの会話を交わし、髪の手入れや日々の身支度、お茶の支度を一任される。

 周囲から見れば、『令嬢たる立場を弁えぬ非常識な振る舞い』としか思われないそれらは、数年を経るうちにシャムサレムへ発音と手先の器用さを取り戻させた。いくらか言葉の運びに慎重さを要しても、もう以前ほどつっかかることはない。右腕もわずかな震えは残っているが、日常生活は何の支障なく過ごせている。

 シャムサレムは薬臭い部屋で共に過ごしていた頃からそのことに気づいてはいたが、クストディアによる強制の数々が、本当に発音と手先を動かす練習のためだったのかは、結局本人に確かめられないままだった。




 領道の事故から八年。


 日々の鍛錬を欠かさずに過ごした少年は、鍛え抜かれた体躯の青年へと成長を遂げた。

 もう貧弱だった頃とは違い、令嬢を抱えて足場の悪い林間を走り抜けることができる。着せられた頑丈な鎧のお陰で、突き出る枝葉や足元の岩程度では負傷に繋がらない。何らかの魔法をかけられた鎧は、まるで普通の衣服のように軽快だ。

 主の柔肌に藪が当たらないよう腕の中にかき抱き、シャムサレムは視界の悪い林の中を駆ける。

 客人の令嬢をあんな場所へ置いてきてしまったことは気掛かりだったが、自身を「家庭教師よりも強いんだ」と言った少女の言葉は、不思議とそのまま信じることができた。だから彼女の心配より、今は自分に求められていることを遂行するべきだと割り切る。

 息が切れ、額やこめかみを幾筋もの汗が伝う。だが、まだ走れる。


「シャム、なんであの子を、」


「大丈夫。心配いらない、ディア、もうすぐ着く。彼女もきっと大丈夫」


「なんでそんなこと言えるのよ」


「口、閉じてないと、ほんとに虫が入るかも」


 首にしがみついた手で側頭部をがんがん叩かれた。痛くはないが、兜の中で音が反響して鼓膜が痺れる。

 見られていないから良いかと口元をほんの少しだけ笑いに歪めると、お見通しとばかりに胸に抱いた令嬢に睨みつけられた。顔色は優れないが、癇癪の気配はない。一時はひどい怯えを見せていたけれど、もう大丈夫そうだ。


 息苦しさを覚える兜の中で、シャムサレムは深い呼吸を繰り返す。

 まずは庭に出て、屋敷へ戻り、クストディアの安全を確保してから、イバニェスの黒髪の護衛を呼んでくる。

 今度こそ全部守り切ってみせる、二度と悲しい思いはさせない。歯を食いしばり、駆ける先、木々の切れ目から光が差しているのが見えた。


 『危険』から遠ざけられる。少女を抱えたまま、今度は自分の足で逃げ延びることができる。戦わず、怪我をせず、守ることができる。

 もう弱いだけの自分ではないのだ。不謹慎さを感じながらも、シャムサレムにはそのことがどこか嬉しく思えてならない。

 そんな口には出せない想いを胸に、黒い鎧の青年は、ただひとり絶対の忠誠を捧げる少女を抱えてひた走った。


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