第241話 クストディア=サーレンバー⑤


 まぶたを開ける。

 目が乾いていてうまく開かない。喉がいたい。体中がいたい。

 手を伸ばしていつもベッドサイドに用意されている水差しを探そうとするが、体がひどく重たくて指先を動かすのも億劫だ。

 そこで、クストディアは枕とシーツの感触がいつもと違うことと、右手に何か結ばれていることに気がついた。ベッドの端のほうから伸びている平たい紐が、手首にぐるぐると巻き付けられているようだ。

 感覚の鈍い左手で何とか結び目をほどき、拘束されていた右手を自由にする。

 そうして持ち上げた手で目元を擦り、素っ気ない天井から壁に視線を移動した。白とアイボリーを基調にした色合いは自分の部屋にも似ているが、鼻をつくような薬の匂いが充満しているここが自室とはとても思えない。

 顔を擦っていた手にかかる布が邪魔だ。長すぎる袖を捲ろうとしても腕にまとわりついて外れない。顔に近づけてよく見ると、その白い布は袖ではなく、包帯だった。


 ……そういえば、誰かにこれを巻かれたような気がする。手足を押さえ込まれ、臭い軟膏をあちこちに塗られて、上から布を巻いて。苦い薬も飲まされた。喉が痛むのはそのせいだろうか?

 体をごろりと反対側に倒すと、何となく見覚えのある室内が見えた。屋敷の一角にある医療室だ。風邪をひいた時などに診察を受けるのはここよりも手前の部屋だから、すぐにはわからなかった。

 体中が痛むため苦労して上体を起こし、周囲を見回すとベッド脇のワゴンの上に水差しが置いてある。思うように動かない手で支えながら何とか水を飲むと、ようやくひと心地つけた気がした。

 どうして自分の部屋ではなく、こんな薬くさい部屋で寝ていたのだろう。起き抜けのせいか、前の晩のことがどうにも上手く思い出せなかった。

 ひいていた風邪が悪化したのかもしれないが、水を飲んだことで喉の痛みもいくらか治まったし、今は熱っぽさもない。体はだるくてあちこち痛むが、風邪は治っているはずだ。

 人を呼ぼうにも手の届く範囲にベルは見当たらず、しんとした室内はクストディアひとりきりだった。


「……エリザ? いないの?」


 声を出してみても侍女が駆けつける気配はない。こんな場所に自分を放り出しておくなんて、何てひどい大人たちだろう。父や母が帰ったら言いつけてやらないと。

 そう、もうすぐクラウデオたちがイバニェス領から帰ってくる。エリザがあと二日と言っていたから、明日だろうか。それとも今日だろうか。

 ふたりに置いて行かれたのは寂しかったけれど、もう風邪はすっかり良くなったし、ちゃんと良い子に待っていたからうんと褒めてもらえるに違いない。

 それと、ファラムンドからの誕生日プレゼントも持って帰ってきてくれる。おしゃれで、格好良くて、両親の次に大好きな大人。会えないのは残念だが、用意されたプレゼントは楽しみだ。今年は一体何をくれるのだろう。



『お土産にファラムンドを連れてくるのは無理だったけど、ディアへの誕生日プレゼントは屋敷の方に届くよう手配してあるって。何か大物なのかな、僕もまだ中身は聞いていないんだけど、楽しみにしているといいよ』



「……?」


 不意に、微笑む父の言葉が脳裏に蘇った。

 自分はファラムンドからのプレゼントについて、もう聞いていただろうか?

 屋敷に届くということなら、ちゃんと自分の部屋で待っていないと。このままここにいてもエリザたちや医師は誰も来そうにないし、それならひとりで部屋に戻ってしまおう。

 そう決意したクストディアは毛布を捲り、そろりと素足を床に下ろす。ベッドの中でぬくまった足には床の冷たさが妙に心地よかった。

 ここは医療室の奥なら、屋敷の一階の東側だ。自室まで戻るにはずいぶん距離があるけれど、途中で使用人を見つけたら運んでもらえばいい。まったく、シャムもエリザもどこに行ってしまったのだろう。

 そんなことを考えながら、冷たいドアノブを掴んで隣室へ出た。


 てっきり廊下へ面する診察室だと思っていたそこは、色の薄いカーテンが室内にかけられた薄暗い部屋だった。照明が消されている上、窓にも厚いカーテンが引かれて外光が入らない。

 出口はこちら側ではなかったかとドアを閉めようとしたところで、「クス……ト……?」と掠れた声が少女の耳に届いた。聞き覚えのあるその声、ほんのわずかだろうと聞き間違えたりはしない。


「シャム? そこにいるの?」


「……っ」


 薄暗い部屋に足を踏み入れると、奥のカーテンが揺れて人影が見えた。歩みを進めるうち、次第に目が暗がりに慣れてくる。

 先ほどの部屋よりも薬の匂いが鼻につく。暗くてあまりよく見えないけれど、窓側の隙間から差す細い光が、揺れる布の位置を示した。

 近づいてよく見れば、それはカーテンというよりも並ぶベッド同士を遮る衝立のようだ。光を受けてひらひらしている布をどかして入り込むと、よく見知った少年が身を乗り出すようにしてベッドの上に座っていた。

 よく、見知っているはずだ。


「……シャム?」


 それでも誰何の声をかけてしまう。言動と理解の不一致に混乱しながら、クストディアはためらうことなくベッド上の人物に手を伸ばした。足の上に手を置くと、布でぐるぐる巻きにされた一回り大きな手がそこに重ねられる。布に遮られて体温が感じ取れない。


 間近で見上げた少年は、厚く巻かれた包帯で顔の右半分がすっかり隠れてしまっていた。前合わせの簡素な服の中も同じように白い包帯で覆われ、首から下げた大判の布で右腕を吊っている。

 顔の見えている部分も細かな擦り傷だらけだが、そこにいるのはシャムサレムに間違いない。


「シャム、どうしたの、怪我したの? いたい?」


「ク、ク、スト、……ディア様、ご、ごめ……」


 喉の奥で言葉が引っかかるような、不明瞭な発音にクストディアは首をかしげる。自分のように寝起きで上手く喋れないのかもしれない。

 シャムサレムの言葉がちゃんと聞き取れるようにと、ベッドに置いた両手へ体重をかけたところで、隣室から物音がした。

 きちんと閉めていなかった扉の隙間から入り込んでくる、出入り口の開閉音と複数の足音。黙ってベッドを抜け出したため、見つかったら咎められるような気がしてクストディアは衝立の裏で身を竦ませた。


「……では、この着換えなどは棚に置いておきますから。後はよろしくお願いしますね」


「ああ、看護師たちには儂から伝えておこう。だが、本当にもう行ってしまうのかね、お嬢様が正気を取り戻されてからでも……きっと寂しがるだろうに」


「もうこりごりなんです。私だって、できることなら奥様を悼んで泣き暮らしたい気分なのに……。あんな泣き叫ぶだけの赤ん坊みたいな子の面倒を見るのはもう沢山。自分の子どもでもないのに、これ以上付き合いきれません。元々私は奥様付きの侍女としてこちらに移って来たんです、育児係じゃありませんから」


「お嬢様はあまり大人に心を開いておらんから、大旦那様や他の者も、懐いているきみを頼ってしまうところがあるのだろう。そこまで言うなら無理に引き止めることはできんか……」


 隣室から漏れ聞こえる会話を耳にしても、あまり内容は頭に入ってこなかった。

 知っているはずの女の声、だが、こんなに冷え冷えとした声音は今まで聞いたことがない。


「時間を置けばいずれ快方に向かうかもしれんし、こちらは何とかしよう。きみも息災にな、エリザ君」


「ええ、先生もご無理はなさらずに。大旦那様のご病気のこともありますし。お屋敷勤めはお給金が良いんですけどね、旦那様も奥様も亡くなってしまっては、お仕事どころかサーレンバー自体がこれからどうなることか。唯一のご息女もあれじゃあ、」


「あまり滅多なことを言うものではないよ」


「そうは言っても事実じゃないですか。せめてご子息がいらしたら良かったんですけど。あんな我が侭ばかりの娘、しかも気がふれて毎日泣き叫ぶだけなんて、この先まともな縁談も舞い込むかどうか。本当に、お可哀想な奥様……馬車の事故から生き残るのが逆だったらどんなに良かっ、」


「エリザ君」


 老医師の窘める声よりも先に、背後から覆いかぶさるようにして両の耳を塞がれた。

 だが片手が利かず、空いている左手を使って体に抱き込む形で塞ごうとしても意味はない。隣室での会話は全てクストディアの耳に入ってしまう。


「だって、あんな、あんまりじゃないですか。たまたま落石が起きて、偶然旦那様たちの乗った馬車がその下を通っていたなんて。そんなこと……あんなに良い方たちなのに、あんまりです……っ!」


「気持ちはわかるよ。善い人ほど早くに失われるとは言うが、あまりに惜しい方々を失くした」


「あんなに、皆に好かれて、使用人にもお優しくて、勤勉で誠実で、……ご領主様なのに倹約家でいつもサーレンバー領のことをお考えになっていらして。ううっ、どうして、あんなに良いご夫婦がっ! きっと何者かの仕業に違いありません、でなければ、偶然なんて到底信じられない……っ」



 ――旦那様も奥様も、亡くなった、馬車の事故、生き残り――


 侍女の鋭い声が頭の中でぐるぐると回る。

 馬車、……そう、自分は両親と一緒に馬車に乗っていた。

 イバニェス領へ向かった父と母を迎えに行って、途中の町から一緒に馬車に乗って。それで、隣に座る父と外にいるシャムサレムが話をしている時、何か、大きな、とても大きな音がしたのだ。


「あ、あ、ぁぁぁっ」


「ク、クス、トディア……っ」


 口から勝手に声が漏れる。それを塞ぐように、少年の胸に強く抱え込まれた。

 薄い胸はいつもの土と草の匂いがしない。軟膏と消毒薬のいやな匂いが鼻に入ってくる。嗚咽と声が喉の奥で詰まって、苦しくて、布だらけの体を何度も叩いた。

 押して、引っ掻いて、殴りつけて。それでも頭と体を抱える力は緩まない。

 包帯が巻かれた右腕が小刻みに震えている。傷口が開いたのか、布の奥に薄っすらと赤い色が滲んでいた。


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