第240話 クストディア=サーレンバー④


 暖かな日差し、時おり吹き込む風。連日に渡り行楽日和に恵まれた領境、緩やかに進む馬車の中は幼い子どもを含めた家族の笑い声が絶えなかった。

 往路ではすぐに気分が悪くなってしまったクストディアも、両親と話していれば馬車の揺れも気にならない様子で、行儀よく座席についている。その隣には父である領主クラウデオ、向かいには長椅子をひとりで使う形で、楽な体勢になった領主夫人がふたりの話に相槌を打っていた。


「お土産にファラムンドを連れてくるのは無理だったけど、ディアへの誕生日プレゼントは屋敷の方に届くよう手配してあるって。何か大物なのかな、僕もまだ中身は聞いていないんだけど、楽しみにしているといいよ」


「大きいの? すごい、楽しみ!」


「ディア宛てだから、そうおかしなものは送ってこないはずだ、うん。たぶんね」


 もし自分宛てだったら、楽しみな気持ちよりも心配と不安感が勝る。本人の性格を考えると油断はできないけれど、まさか五歳記を迎える娘に常識外れなものを送りつけてくることはないだろう。クラウデオは自分を安心させるようにうんうんと繰り返しうなずいた。


「奥様の顔色も良かったわね、病気がちであまり外にも出られないと聞いているから心配だったけれど。臨月でも元気そうで安心したわ。男の子が続いたから、次は女の子かしら?」


「そうだね、お兄ちゃんはふたりとも大人しい子だから、男が三人になってもやんちゃで困ることはなさそうだけど。奥方そっくりの娘なんて生まれたらファラムンドの親馬鹿が加速しそうだ」


 幼い頃からの親友であり、傍若無人なその人となりを間近で見てきたからこそ、親となってからの彼の変わりようは驚くばかりだった。

 元々能力の高い男ではあったが、領主を継いですぐの頃よりも、第一子が生まれてからのほうが精力的に仕事に当たっているように思える。先代の急死から色々とあったが、隣で支える夫人と、侍従たちを束ねて補佐をこなすカミロがいるからこそここまでやってこられたのだろう。

 恵まれた境遇にある自分とは違い、身近なものを削ぎ落しながら何もかも背負い込んできた彼が、ちゃんと幸せな家庭を築けていることがクラウデオは友として純粋に嬉しかった。


「あのファラムンドが奥さんと子どもにはデレデレなんだもの、未だに信じられないよ。早くに結婚した時も驚いたけど、もう三人目か。家庭を持つと人は変わるもんだなぁ」


「本人のいない所でそんなこと言っていると、またつつき回されるわよ?」


「勘弁してくれ、家族のいないとこじゃ昔のまんまなんだからあいつは……」


 おどけて渋面を浮かべる父を見上げていたクストディアは、逃さないとでもいうように隣にあるその腕を取った。愛娘に視線を下ろしたクラウデオは首をかたむけ、クストディアの両手を片手で包み込む。


「ん? どうした、飽きちゃったかい?」


「ディアがいるのに、お父さまは、男の子のほうがよかった?」


「いいや、そんなことはないよ。ディアが生まれてきてくれたお陰で、お父さんもお母さんも毎日幸せだ。ディアが僕たちの娘で良かったーっていつも思っているよ。ディアはどうだい、僕たちの娘で良かった?」


「うん!」


 クストディアが満面の笑顔で返事をすると、珍しく父の方から抱きついてきた。痛くはない程度にぎゅうと抱きしめられて、包み込まれる全身でその体温と愛情を感じ取る。

 大好きな両親に、優しい祖父、シャムサレムとエリザ、たまにしか会えないが隣領のファラムンドも自分を気にかけてくれる。幼い少女が抱く、自分が「愛されている」という実感。小さな胸にあふれそうなほどの多幸感から、クストディアは普段よりもほんの少しだけ気が大らかになっていた。

 自分はこれだけ愛されているのだから、別にもうひとりくらい増えても、受ける愛情が目減りするとは思えない。……そんなことを思う余裕が芽生える。


「お父さまは、ディアのおとうとがほしい?」


「そうだね、ディアがお姉さんになっても良いって、自分で思えるようになったら安心して……」


「いいよ、お姉さんできる。ディア、おとうとも、いもうともいいよ」


 数日前にむくれていた時とは正反対の言葉に、両親は揃って顔を見合わせた。


「驚いた、急にお姉さんみたいなことを言ってくれるから。うん、家族が増えて賑やかになったら、お父さんも嬉しいし、きっとディアも遊び相手ができて楽しくなるよ」


 そう言って自分の方へ肩を抱き寄せる父を見上げ、クストディアはやっぱりもうひとり子どもが欲しかったのだということと、自分の発言が喜ばれていることを噛みしめた。こんな風に喜んでくれるなら言ってみて良かった。

 対面の席では嬉しそうな母がそっと自身の腹を撫で、父と目を合わせて微笑む。抱き着く腕にもたれ、温かな手を握りしめたまま、クストディアはその仕草に瞬いた。


「お母さま、おなかいたい?」


「ううん、そうではないの。でも帰ったら一度お医者様に診ていただいて……それではっきりしたら、お義父様とディアにもちゃんと報告をするわ」


「?」


 クストディアが首をかしげても、両親は何も言わず微笑むだけだった。

 何だかわからないが、大好きなふたりが嬉しそうにしているだけでクストディアも幸せな気持ちになってくる。手を繋いでいる父の腕へ頬をすりつけるように甘えると、頭を撫で、細く節くれだった指で結っている髪を梳いてくれた。

 釣り目がちな顔があまり両親に似ていないため、普段から鏡を見るのは好きではないクストディアだが、父親譲りの艶やかなブルネットの髪は自分の中で一番のお気に入りだった。お揃いの深い色合いの髪を指で梳いたり、手で頭を撫でてもらえるのが心地良くて何度もねだってしまう。


「お姉さんらしくなったと思ったら、やっぱりディアはまだまだ甘えたさんだなぁ」


「でも、女の子はすぐに大きくなって親の手元を離れてしまうから。そうして甘えてくれるのは今の内だけかもしれないわね」


「うう、入り婿とかでもいいんじゃないか? 将来ディアが望むなら、僕はシャムが相手だって構わないと思ってるんだから」


「あなた、娘が可愛いのはよーくわかるけれど、ディアが年頃になる前にシャム君にだって良い相手ができているかもしれないじゃないの」


 両親が何の話をしているのかは理解していないが、知っている名前が出たことでクストディアは顔を上げた。


「シャムはね、ディアの護衛で、馬なのよ!」


「「……」」


 何やら期待に満ちた顔を固まらせたクラウデオは、「うん、そうか」と深くうなずくと、開け放っている車窓から顔を出した。

 馬車のすぐ横には、馬に跨って併走する少年がいる。背筋を伸ばし、手綱を取るその姿は守衛見習いとはいえすでに堂に入ったものだった。


「シャム、いつも苦労をかけるね……」


「えっ! いいえ、とんでもない!」


 馬車内の会話など知らない少年は、突如かけられた領主からの労いに飛び上がるほど驚き、それを見た後続の護衛たちは揃って笑い声を上げた。

 あまり速度を出すと馬車が揺れるため、帰路の足並みは緩やかなもの。先導にクストディアの乗ってきた馬車が進み、その後ろを護衛たちで囲んだ領主用の馬車が続く。

 一日遅くなってしまったが、朝の早いうちに出発したため、ゆっくり進んでも日中には屋敷へ着くだろうというクラウデオの判断だった。


「ディアはわがまま盛りな年頃だから、色々と無茶を言って迷惑をかけているだろう?」


「大丈夫です、慣れました」


  護衛や従者たちの「ぷすーっ」というこらえきれていない笑い声を聞きながら、若き領主は自分の額を押さえる。


「うん……僕も、俺様気質の親友がいるから、その感覚はちょっとわかるよ……。何かと大変な目に遭わせるだろうけど、これからもディアのことよろしく頼むね」


「はい、もちろんです!  ……っ」


 声を張り上げ、威勢良くそう返した少年だったが、不意に言葉尻を詰まらせて目元をこすった。何度も瞬きを繰り返し、頭を振る。


「どうした?」


「あ、すいません、なんか砂が顔に当たって……」


「最近長く雨が降らないから、この辺もちょっと乾燥しているのかもしれないね」


 そう言って窓から見上げるのは、防護柵を張り巡らせた高い岩壁。イバニェス領との境にこの岩山が鎮座しているせいで、馬車での行き来はどうしても大回りになる。

 道中退屈しないようにと見晴らしの良い南側を娘に譲り、クラウデオは藪と山がしばらく続く北側に座っていた。関所町などを囲むこの岩場を過ぎれば、あとはサーレンバー側の街まで平坦な道が続いている。

 午前中のピークを過ぎたせいだろう、しばらく前にすれ違ったきり商隊や荷馬車を見かけない。

 この領道は他地域とイバニェス領を繋ぐ、南側の大動脈だ。しばらく北側と揉めているだけに、この領道にかかる意味合いは大きい。何か事故が起きてたった一日塞がってしまうだけで、隣領に及ぶ被害は相当大きなものになるだろう。

 だからこそ定期的な保守点検と補修は欠かさずにきたのに、その業者が長らく姿を見せていないという報せはクラウデオにとって気掛かりなものだった。

 去年も今年も変わらず、工員分の給金や資材費、滞在費などの施工予算は計上されている。宿泊先や手をつけるルートを変えただけならまだ良いが、もし点検が止まっているようであれば頭の痛い問題だ。施工関係を任せてある親戚と、もしかしたらひと悶着起きるかもしれない。


 そんなことを考えながら、藪が広がる向こう側、切り立った岩山をぼんやりと見上げていたクラウデオは車窓から身を乗り出した。


「……何か、砂が落ちてないか?」


「え?」


 クラウデオの言葉を聞いた少年が北側の岩山を見上げると同時に、その一角が滑るようにずれた。

 目を疑うような光景だった。

 重力のままに落下する山の一部は、途中の岩肌にぶつかって粉々に砕け、その破片が無数に降り注ぐ。


 激しい破砕音と耳を裂くような馬の嘶き、人の怒号、車体にぶつかる石の音、全てが一瞬のことだった。

 目の前があっという間に砂煙で覆われる。

 石礫が全身にぶつかり、乗っている馬も痛みに前脚を上げようとするのをシャムサレムは手綱を引いて必死に宥めた。

 激しい足踏みをする馬上から振り返ると、後続の護衛たちは落馬しているか、自分と同じように暴れる馬を宥めるのに必死だ。

 領主らの乗る馬車は車輪がやられたらしく、向こう側を下にして傾いている。御者は、と振り仰ぐとすでに動かない馬に鞭を振るっていた。たとえ馬が無事でも、先導するクストディアの乗ってきた馬車が道を塞ぎ、先には進めない。


「シャム!」


 止まったままの馬車の様子を見に行こうとした少年は、自分を呼ぶ叫び声に引き止められる。

 振り向くと傾いた車体の扉を蹴り開け、娘を片腕に抱えたクラウデオが上体を見せた。どこかにぶつけたのか、それとも石礫が当たったのか、頭からひどい出血をしている。


「ディアを頼む! 行け!」


「領主様もっ、」


 馬上のシャムサレムに向かって、半ば投げるようにして幼い少女が託された。シャムサレムは何とかそれを抱き留め、また暴れそうになる馬の手綱を引く。

 砂煙と止まない石の雨、その中で馬上のふたりは、立ち上がろうとしたクストディアの母が口元を押さえてえずくように蹲るのを見た。動けない夫人を庇い、クラウデオも馬車から脱出することができない。

 誰かの手を借りねばと慌てて周囲を見回した少年は、そこで、再び岩の擦れる音を耳にした。


「――――っ!」


 決断は一瞬。

 迷いは全部切り捨てた。

 命じられたことと、託されたもの、自分のやるべきことを何よりも最優先する。

 シャムサレムは小さな少女を小脇に抱えたまま、手綱を打ち、前方へ向かって馬を走らせた。


「まって、シャム、まってよ、お父さまとお母さまが! やだ、まって!」


 岩山の上から、先ほどよりもずっと大きな音が響く。

 もうそちらを振り仰ぐ余裕もない。

 転倒した馬、怪我をしたらしく動けない守衛たち、御者が逃げ出して空になった先導の馬車、倒れ伏した従者。それらを全て無視し、シャムサレムが駆る馬は降ってくる石を掻い潜るように道の先へとひた奔る。


 止まれと命じても言うことを聞かない少年に、クストディアは大声を出して喚き、その腹を叩いて馬を止めさせようとした。だがいくら言っても殴りつけても、足をばたつかせても止まろうとしない。いつもなら何でも言うことを聞く少年が、まるで何も聞こえていないかのように自分の言いつけを無視するのだ。

 

「まっ、……まって、やだ、やだやだやだっ!」


「っぐ、ぅ、クストディア様、頭引っ込めて!」


 そうする間に、どんどん両親の乗った馬車が遠ざかる。

 細い腕に抱えられたままそれを見ていると、馬車よりもずっと大きな岩が落ちてきた。クストディアには、それが岩だということすら理解できなかった。


 腹膜を震わせる轟音。

 巨大なものが傾いていた車体を半ばまで潰し、その勢いで残った部分が反対側へ弾き飛ばされる。

 車輪が転がり飛んでいった。

 砕けた窓から赤いものが見えた。

 馬の死体を引きずったまま、残骸は防護柵を突き破って崖下へと落ちていった。


「やだ! もどって、シャム、もどってよーっ!」


「だめだ!」


 地面に落ちた巨岩が砕け、無数の石礫が周囲に弾け飛んだ。少年の胸の中に抱き込まれたクストディアの全身にも石がぶつかり、もうどこが痛いのかもわからなくなる。

 顔面を硬い胸に押し付けられていて息が苦しい。でも、どれだけ暴れても自分を抱える腕が緩むことはなかった。

 隙間から見える地面がどんどん流れていく。

 鼓膜が痺れて聞こえる鼓動が、自分のものか少年のものか区別がつかない。

 馬の匂い、土と砂の匂い、顔にかかる赤い液体、鉄くさい匂いの中で、自分を抱える少年がずっと何かに謝っている。

 一体何が起きたのか全くわからない。両親と楽しくおしゃべりをしていて、握った手が温かくて、ふたりとも幸せそうに笑っていた。まだこの手に、父のぬくもりが残っているのに。

 わからない。

 わからない。



 何か、取り返しのつかない、とても、嫌なことが、


「うっ、う、ああ、ああっぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……!!!」




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