第239話 クストディア=サーレンバー③


 ――その判断において正解だったことひとつ、真っ先に祖父を味方につけたこと。

 両親について行くことを諦め、大人しく医師の指示を聞いて二日も寝ていたのだから、次は大人が自分の言うことを聞く番だと祖父の部屋に入るなりクストディアは言い張った。

 歳のわりに口の達者な孫娘を猫可愛がりしており、退任をしてから暇を持て余すことの多かったブエナペントゥラは、愛しい孫から頼られたことを殊の外喜んだ。在任中は関係各所から恐れられたしわだらけの相好を崩し、快諾してしまう。

 そのまま使用人らが止めるのも聞かず、「両親を迎えに行きたい」と健気なことを言う孫娘のために、必要な人員と荷物を手配してあっという間に出発の準備をまとめてしまった。


 ――そして、その判断において失敗だったのはふたつ。

 ひとつは、自分が乗り物酔いをしやすい体質だとクストディア自身がまだ知らなかったこと。

 何度か街へ下りたことはあっても、馬車に乗ったまま領道まで出た経験はなかった。綺麗な石畳の敷かれた街中とは違い、小石が転がっていたり道が欠けている箇所もある郊外の道は、最新型の馬車をもってしてもそれなりの揺れがつきまとう。

 ガタガタと絶えず車輪から伝わる振動、クッションを敷いても居心地の悪いキャビンの座席。東側の領道を進み始めてからそう経たずに、クストディアはひどい乗り物酔いに見舞われ、風邪の熱なんかよりもっと苦しむ羽目になった。



「う、うぅぅぅぅ、ぎぼぢわるぃ……」


「穴掘ってありますから、吐けそうだったら吐いてもいいですよ。体勢変えて横になりますか? それとも座ってるほうが楽ですか?」


「……吐かない。このまま背中なでて。でもゆらさないで」


「えー、なんか難しいこと言われた……」


 木陰で座るシャムサレムの腰にしがみつき、背中を撫でてもらいながらクストディアはくの字の体勢で脱力していた。激しいえずきは治まってきたものの、まだしばらくは立てそうにない。

 涙の滲む薄目のまま、停めている馬車のほうに顔を向けると、御者や侍女たちが思い思いに休憩を取りながら談笑しているのが見えた。こちらを気にする素振りもなく、携帯用のカップを片手に楽しそうにしている。

 大人たちもはじめは布を扇いで風を送ってきたり、具合はどうかとたずねたり、水の入ったグラスを用意したりと世話を焼きに来たのだが、機嫌の悪いクストディアがみんな追い払ってしまったせいだ。

 以降、動けないでいる令嬢の世話はシャムサレムに任せきりで、誰も近寄ってはこない。

 仰がれると少し寒かったし、状態を答えるのは億劫で、今は水を飲みたい気分でもない。……でも、それらを言葉にして伝えるだけの余裕がなかった。

 きっと我が侭を言って出てきたくせに、あっけなく気分を悪くした自分を嘲笑っているのだろう。恨みがましい目を大人たちに向け、少女は歯噛みする。

 いつもそうだ、子どもだからわからないだろうと陰で笑っているのを、本当は何度も耳にしているし、言葉の意味はわからずとも馬鹿にされていることは伝わってくる。ただクストディアにも幼いなりの矜持があり、その不満をはっきり口に出すことはせず、両親に訴えたこともない。

 小さな体に吐き気も不満も全部飲み込んで、しがみつく腕に力を込める。


「うっ、そこ、脇腹は痛いです……」


「よわい。もっと鍛えて、つよくなりなさい」


 九つ上のシャムサレムは、今年で十四歳になった。背丈ばかり伸びて、腕も体も細いままだ。弱くて頼りなくて、ちょっとばかり手先が器用でも花や木の世話以外は大したこともできないのだから、やはり守衛なんてやめて庭師になればいいのに。そしてずっと自分の馬をしていればいい。

 クストディアは細い腹に頭を押し付けながら呼吸を繰り返し、胸のむかつきがいくらか楽になったのを確かめた。

 息を吸うたびに土と草の混じったシャムサレムの匂いがする。この匂いと、自分よりも低い体温を間近に感じていると、気分がとげとげしてどうしようもない時でもいくらか落ち着くのだ。


「少しは楽になりました?」


「……うん」


「良かった。昼食は町に着くまでやめておいて、休憩を挟みながら向かえば夕方までには何とか……」


「もう馬車やだ、のらない」


 いつも馬車で街へ下りる時は、両親が一緒だった。普段は忙しい父に話したいことは無限にあり、自分を理解してくれる母を交えての会話は何より楽しい。だから移動中もつまらないと感じたことなど一度もないのだが、この道中、侍女しかいないキャビンの中は退屈で仕方がなかった。

 窓の外を眺めても変わり映えのしない丘陵地が続くし、反対側の窓を見ても岩場ばかりで何も面白いものがない。領道を進んで切り立った山が近くなると見通しも悪くなり、景色はさらにつまらなくなった。

 こんなことなら話し相手としてシャムサレムも馬車に乗せるべきだったと、少し離れて護衛とともに並走する少年を眺めているうちに、どんどん気分が悪くなっていったのだ。


 腰に抱き着く形で寝そべったまま、頭をさらに押し付けると、その腹がぐううと鳴った。予定通りならもうとっくに昼食をとる時間は過ぎている。自分の休憩が長引いたせいで、きっと他の皆も腹を空かしているのだろう。

 クストディアが顔を上げると、直に腹の音を聞かれたシャムサレムは気まずそうに視線を逸らした。


「おなかすいてるなら、食べてくればいいじゃない」


「いや、俺は町についたらでいいです」


「ディアはもうちょっとここで寝てるから、大人たちと食べてきなさい」


「クストディアお嬢様だけをひとりで置いて行けませんよ。ほんとに、町についてからでも大丈夫ですから。ただ、みんなには先にお弁当食べててもらいましょうか」


 手を振ってエリザを呼んだシャムサレムが、御者や護衛の皆と先に昼食をとっていてくれと話している。それを上の空で聞きながら、クストディアは停められている馬車と、そのそばで草を食む馬を眺めていた。

 馬車を引いてきた大きな黒い馬が二頭、護衛用の馬が二頭。それとシャムサレムが乗ってきた他よりもやや小柄な葦毛の馬が、刷毛のような尻尾をゆらしてくつろいでいる。体格の小さな馬は仔馬なのか、それともそういう種類なのかはクストディアにはわからなかった。

 視線でも感じたのか、葦毛の馬はこちらを振り向き、立てていた耳をぱたぱたと震わせている。体は灰色なのに、たてがみと尻尾だけは真っ黒だ。

 馬は怖いけれど、ほんの少しだけ、その艶やかな毛をさわってみたくなった。


「馬車はもうのらない。シャムと馬にのっていくわ」


「えっ?」


 そばでシャムサレムとエリザが同時に声を上げる。寝そべっていた体勢から体を持ち上げ、クストディアは木に寄り掛かる形で座り直した。吐き気は治まったし、泥が詰まったようだった胸の奥もだいぶ楽になっている。

 それでも、また馬車に乗ればそう進まないうちに気分が悪くなるのは、乗り物酔いが初めてのクストディアにも容易に想像がついた。それなら直に馬へ乗り、シャムサレムと話しながら風にあたっていたほうが気分よく進めそうだ。






「あははははっ、それでシャムと一緒に馬に乗ってきたのか、ディアはお転婆さんだなぁ。どうだった、初めての乗馬は?」


「おしりがいたかった」


「うん、二人乗り用の鞍じゃないだろうしねぇ、シャムはもっと痛かったはずだ。慣れない上に二人乗りなんて緊張しただろうに、ディアも後でちゃんとお礼を言うんだよ?」


「シャムは、ディアの護衛だもん。馬にのせるくらい、当然のことよ」


 そう言ってベッドの端に腰かけたクラウデオに横から抱き着くと、父は優しくクストディアの頭を撫でてくれた。

 薄い紳士用の香水と、母が愛用している香水の香りが混じっている。それと、鼻先をかすめる動物の匂いは、おそらく馬のものだろう。

 ……両親は馬車に乗っていたはずだし、この獣臭さはもしかしたら自分から漂っているのだろうか。ぱっと手を離したクストディアは体のあちこちを嗅いでみるが、よくわからなかった。


「どうした?」


「馬くさい……」


「ぷっ、ははは! 大丈夫だよ、ディアはいつも通りミルクとお花の香りがするから、きっと気のせいさ。それにしても、まさか馬に乗ってまで迎えに来てくれるとは思いもしなかったなぁ。この町は挨拶だけして通過するつもりだったんだけど、外門でディアたちが来ていると聞いて驚いたよ」


「私も驚いたわ、ディア、いつの間にお馬さんが平気になったの?」


「ずっとへいきよ、馬なんてこわくないもの」


 何とか夕方までに領道沿いの町へ到着できたものの、初めての乗馬によって腰を痛めたのと、馬車酔いの名残でクストディアは着いて早々宿のベッドへ運ばれることになった。

 軽いもので昼食を済ませると、幼い体はすぐに睡眠を欲する。しばらくうとうとしてからノックの音に目を覚ますと、そこには外出着姿の父と母。ふたりの顔を見るだけで、移動の疲れも馬車酔いの名残りも一瞬で吹き飛んだ。


「じゃあ、ディアは帰りも馬に乗って行くかい?」


「やー、お父さまとお母さまと一緒に馬車にのる! もうへいき!」


「そうね、窓を大きく開けて風を入れるようにしましょう。三人で楽しくおしゃべりしていればきっと酔わないわ。さすがに帰りも任せたらシャムが大変だものね」


 血色の良い顔色と元気なその様子に、もう馬車酔いは残っていなそうだと両親は揃って安堵の息をついた。

 先に侍女たちから話を聞いていたのと、一度部屋を覗いたときはまだクストディアが眠っていて出直したこともあり、カーテンが半分引かれた窓の外はすでに夕焼け色を帯びている。

 今から出発しては途中で野宿を挟むか、強行して深夜の到着かになる。疲れているであろう守衛見習いの少年と、愛娘の体調を思い、クラウデオたちはこの町で一泊していくことを決めていた。予定外の宿泊と帰還の遅れについては、すでに護衛をひとり早馬の報せに出している。


「出発は明日の朝にしたから、ディアはゆっくり休んでいていいんだよ。夕飯は食べられそう?」


「うん、一緒にたべる。……お父さま、お仕事へいき?」


「大丈夫さ。今晩でも明日の昼でも大差ないし、おじいさまもいるから心配はいらないよ。むしろ、予定外に町長さんたちと話す時間を持てて、助かったくらいだ」


 クストディアが顔を上げると、笑みの気配を薄めた父親は窓の外に目を向けていた。同じ方向を見てみると、薄紅に染まりかける夕暮れの空が見えた。遠い岩山が影絵のようになっている。


「舗装点検を任せている業者が、今年はまだ一度も来ていないっていうのは気になるなぁ……」


「一日で終わる作業ではないから、泊まるならこの町でしょうしね。帰ってからお義父様にも確認してみる?」


「そうだね、施工関係は叔父さんたちが受け持ってるはずだし、もし日程やルートを変えたなら僕のほうにも教えてもらわないと。何かの行き違いで連絡が遅れてるだけなら良いんだけど」


 小さく息をつき、柔らかく微笑んだクラウデオは娘の頭を撫でた。


「思いがけない報せだけど、今日ここに寄れなかったら聞き出せなかっただろうから。ディアのお陰だな」


「ディア、来てよかった?」


「もちろんさ。でも今回だけだからね、次からはちゃんとエリザたちの言うことを聞くんだよ?」


「はーい!」


 明るい返事とともに飛びついてくる娘を、クラウデオは半身を捻って正面から受け止めた。抱き上げるたびに成長を感じる娘の重みに、愛しさと嬉しさがないまぜになった何とも言えない気持ちが胸を満たす。

 父に抱き着いているクストディアの寝乱れた髪を、横から母親が指で軽く梳き流した。そこで、高い位置でふたつに結った髪が、見慣れない革紐で結ばれていることに気づく。四つのループが作られた器用な結び方は、まるで小さな花のようだ。


「髪、かわいく結ってもらったのね」


「シャムがやったの」


「え、シャムが髪を? だからいつもと違う紐なのかしら?」


「……ディアのリボン、馬が噛んだの。よだれでベタベタ。シャムが洗ってくれるって言ってたけど、もういらない」


 ぷくりと頬を膨らませる娘に、その頭上で両親は顔を見合わせてから噴き出した。

 ふくれる娘の頬を撫で、髪を梳いて小さなお姫様のご機嫌を取る。顔中を揉まれるクストディアはそうやって両親に構われるのが嬉しくて、しばらくは不機嫌のふりを続けていた。


 珍しい屋敷外での宿泊、イバニェス領への遠出を断念したクストディアにとっては初めての旅行のようなもの。我が侭とお転婆から起きたハプニングではあるが、親子水入らずでゆっくり一晩過ごせることを三人は殊の外喜んでいた。

 イバニェスの土産話に、両親がいない間のことや馬に乗って見た風景。互いに話したいことはいくらでもあるし、環境が違う場所でのお泊りで大人も子どもも気分が高揚している。

 夕飯を終えたあとも、いつもの就寝時刻より少し遅くまで、クストディアたちは部屋でおしゃべりをして過ごした。




 ――その判断において失敗だった、ふたつ目。

 移動に慣れない自分が両親を足止めすることで、帰還予定日が遅れるなんてことは、その時のクストディアには想像もできないことだった。たとえそれが分かっていたところで、両親に会いたい気持ちが勝り、迎えに発っていただろう。


 後からどれだけ深く悔いても、やり直しを願っても、一度起きた出来事はもう変えられない。


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