第238話 クストディア=サーレンバー②


 医師の診察に従いしばらくの間は大人しく寝て過ごすと、咳も熱もすっかり治まってしまった。父の言うように五歳記の当日を風邪で迎えるのはさすがに嫌だったし、寝ている間は面倒なお稽古が免除されるので、ずっとこのまま寝て過ごしたいとすら思った。

 だが、窓の外は花の季らしい陽気でとても暖かく、庭の芝生も青々としてきたし、吹き込む風も心地よい。何もしなくて良いのは楽だが、何もしないでいるのは暇だ。


 二日目にして静養に飽きたクストディアは、侍女をせかして着替えを済ませ、常駐している医師から快癒の太鼓判をもぎ取るなり日の差す明るい庭へと飛び出した。

 指先ほどの小さな花をいっぱいに咲かせている裏手の庭は、手狭ではあるが来客などの目につかない、クストディアのお気に入りの場所だ。

 廊下で捕まえたシャムサレムの背に負ぶさり、東屋から庭までをぐるぐる駆け回るよう命じて走らせる。四周したところで少年は体力の限界を迎え、それこそ馬のように両手をついて首を垂れたまま息を切らせるので、つまらなくなったクストディアは細い背から飛び降りた。

 靴の下で芝生がさくさくと音をたてるのが小気味良い。白い花を一本引き抜き、未だ息を荒げている少年の頭に挿してみる。あまり手入れをしていない髪は鳥の巣のようで、小さな花がしっかりと収まった。もう一本を反対側に突き挿し、何だか楽しくなってきたので次々に花を摘んでは少年の頭に挿していく。


「え、えっ?  何してるんですかお嬢様、手が汚れてしまいますよ」


 ようやく顔を上げたシャムサレムにそう言われて自分の手を見ると、指先が葉の汁や土で汚れてどろどろだった。驚いてワンピースの裾で指を拭おうとすると、慌てた様子の少年に「拭くなら俺の服にしてください」と止められたので、差し出されたほつれかけの袖で汚れを拭う。草の汁は思いのほか頑固で、強く擦りつけてもあまり落ちなかった。


「一度中に戻って、手を洗ってきますか?」


「ううん。どうせ汚れるもの、あとでいいわ。それよりもシャム、次は馬よ!」


「はーい」


 慣れた様子で四つん這いになった背に跨ると、少年は芝生の上をのしのしと進み始める。ペースは馬というよりも羊並みだが、骨ばって座り心地の悪いその背中がクストディアは何より気に入っていた。


「最近は俺だって馬役ばかりじゃなく、乗馬の訓練もしてるんですよ」


「乗馬? シャムが馬にのるの?」


「そうです。外の見回りとか、今回みたいに旦那様の遠出に護衛として付き添ったりとか、正式に守衛になれたら馬に乗る機会も増えますから」


 たまに町へ出る際には馬車に乗ることもあるが、それを引く馬たちは見上げるほどの体躯のくせに脚が妙に細長く、大きな目でじっと見つめてくる不気味な動物。生き物全般が苦手なクストディアにとっては恐怖の対象だった。


「馬なんかにのらなくたって、屋敷のまわりをうろうろ歩いていればいいじゃない」


「うろうろって……。確かに、見回りの当番とかもあると思いますけど。俺はできれば屋敷の警護よりも、旦那様やお嬢様につく護衛係になりたいから」


「……?」


 どう違うのかわからず、クストディアは首をかしげた。そのわずかな間で察したのか、シャムサレムは背にいる少女を振り返ろうとして、そこまで首が回らず断念したようだ。

 仕方がないのでクストディアは自分から背中から降りてやり、花がたくさん刺さったままの頭を見下ろす。そろりと顔を上げた少年は不思議そうに瞬き、そのまま芝生の上に座り込んだ。


「ええと……お嬢様がよく俺で遊んで、いや、俺と遊んでいるから、旦那様が見習いに取り立ててくれたんだって、じいちゃんも言ってました。じゃなきゃ俺なんて何の取り得もないし、このまま庭師になるのかなって最近まで思ってたくらいで」


「シャムは、護衛になりたいの?」


「はい! ちゃんと役に立ってご恩をお返ししたいです。庭いじりも嫌いじゃないけど、もっとこう、体を張ってお仕えしたいっていうか」


 屋敷の内外にたくさんいる守衛たちは、みな無愛想であまり良い印象は持っていない。制服も堅苦しいし、シャムサレムには似合わないと思う。それに庭師のままでいたほうが、空き時間にたくさん遊べる。

 ……内心でそんなことを考えたものの、いつも控えめな少年が自身の望みを口にしたのはこれが初めてのことだ。きっと自分だけに打ち明けたのだろう。

 何だか嬉しくなったクストディアは胸の前で腕を組み、鷹揚にうなずいて見せた。


「いいわよ、あんたをディアの護衛にしてあげる。ちゃんと言うこときくのよ?」


「馬になれとか?」


「そうよ。護衛なんだから、馬もやりなさい」


「あははは。……はぁ。わかりました、俺はクストディア様の護衛で、馬です」


 わかればよろしい、と馬役の続きをやらせようとしたところで、屋敷の方から侍女のエリザが近づいてくるのに気がつく。

 母より少し年下で、嫁入りの際に向こうの家からついてきたそばかす顔の侍女は、クストディアが物心ついた頃から何かと身の回りの世話を焼いていた。他にお付きの侍女たちもいるのだが、人見知りの激しいクストディアがなつくのは母とも仲の良いエリザだけだった。

 小走りに近寄ってきた侍女は、座り込んだシャムサレムの方を見るなり口元を覆って笑いだす。


「まぁ、ふふふふっ。その頭は、お嬢様にやられたんですか?」


「え?」


 こんなに何本も花を挿したのに、何をされているのか全く気付いていなかったのだろうか。少年は呆れ顔のクストディアを見上げてから、不思議そうに自分の頭をさわった。しっかりと挿さった花はそれくらいではひとつも落ちない。

 その様子がさらに琴線にふれたようで、エリザはおかしそうに笑いながらぼさぼさの黒髪へと手を伸ばす。

 何となく、それが面白くなかったクストディアは、侍女の手がふれるよりも先にシャムサレムの頭をかき混ぜ、挿していた白い花を全部払い落としてしまった。ただでさえまとまりのなかった髪が、枯れ草を積んだようなひどい有様になったけれど、令嬢は満足げに鼻を鳴らす。

 幼さゆえの乱暴な仕草、それを目の当たりにしても慣れた様子で軽く笑うだけのエリザは、持ってきた鮮やかな毛織物を差し出した。


「クストディアお嬢様、少し風が出てきましたから、もう一枚上にお召しになってください」


「平気よ、寒くないもの」


「そんなことを仰って、また風邪をひかれたらどうするんです? 明後日には旦那様たちもお戻りになられますから、ちゃんと元気な姿でお出迎えしませんと」


 そう言ってエリザが広げるのは、毛糸がちくちくしてあまり肌触りが好みではない肩掛けだ。クストディアは少年の後ろに回り込み、体の半分だけ隠したまま頬を膨らませた。


「それきらいー。もっと他の持ってこないと、着ない!」


「この色が良いと仰って新調したばかりではないですか。では、お部屋へ戻って他の上着にお着換えしましょう?」


「戻らない! まだ遊んでるの!」


 エリザのその手にはもう乗らない。以前も同じことを言って庭で遊んでいるのを中断させ、部屋に戻ったらお稽古の教師が待ち構えていたことがあるのだ。せめて父と母が戻るまでは、病み上がりの稽古免除期間をもたせたい。

 クラウデオたちが帰ってくるのは明後日の予定、まだあと二日もある。イバニェス邸には一泊で済ませると言っていたから、今頃はこちらへ向かって領境の道を進んでいる頃だろうか。

 ……そう考えたクストディアの脳裏に、あるひらめきが舞い降りた。


「エリザ、着替えるわ」


「ええ、そうなさってください。お外で遊ばれるのでしたらもう少し温かい服の、」


「馬車のしたくもして。すぐ出発するわよ!」


「……は? 馬車?」


 自分だけでなく、シャムサレムにもちゃんと外へ出る格好をさせなければならない。草の汁で汚れた袖口を引っぱり、屋敷へと歩き出す。少年は腕を引かれるまま、何が何だかという顔をしながらも抵抗を見せずについてきた。


「お待ちくださいお嬢様、なぜ馬車の支度など? 街へお出かけでしたら、旦那様方がお帰りになられてからでも」


「関所町まで、お父さまとお母さまをむかえにいくわ。エリザもついてくるなら着替えなさい」


「またそんな無茶を仰って。迎えに行かずともあと二日すればお戻りになられますから、大人しく……って、お待ちくださいー!」


 素直についてくるシャムサレムとは違い、エリザはあれこれと文句ばかり口にする。先にこれを封じて言うことをきかせる必要があると判断したクストディアは、屋敷へ戻るなり真っ先に祖父の部屋へと駆け込んだ。


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