第237話 クストディア=サーレンバー①


 鎧の尖った部分が体のあちこちに当たって、どこに体重をかけようとしてもちくちくと痛む。腰を抱えている腕だって力を込めすぎて痛いのだと文句を言いたいけれど、下手に緩められたら滑り落ちてしまいそうだし、こんなに揺れがひどいと不用意に口を開けば舌を噛みかねない。

 ただでさえずっと歯の根が合わなくて、見るに堪えない情けない顔をしているに違いないのだ。ここで震えた声なんて出して恥の上塗りをしたくはなかった。

 肩にしがみついた格好のまま動くことができず、視界には荒れた地面しか映らないが、一緒に抱えられている娘が弱音ひとつ漏らさずじっとしていることくらいはわかる。自分より五つも年下なくせに。悔しい。腹立たしい。――情けない。

 クストディアは今にも叫びだしたい衝動を内側へ押し込み、声も嗚咽も何も漏れないように奥歯を力いっぱい噛み締めた。


 真っ直ぐ伸びた木々も、眼下に見える小石だらけの地面も、どんどん後ろに流れていく。

 揺れる視界、震えの止まらない体、痛いほどの鼓動、土と汗の匂い。腰に回された幼馴染の少年の力強い腕。前にも見たことがある、知っている光景だ。

 ……シャムサレムの腕だけは、以前よりずっと太く立派になったけれど。

 見えているものが今なのか過去なのか、現実なのか夢なのか、境界がわからなくなっていく。


 目が回る。頭が痛い。吐き気がする。

 ひどく気分が悪い。

 叫ぶことも、癇癪に身を任せて暴れることもできないせいで、泥のようなものが体の中で発散を求めて渦を巻く。

 嫌なこと、嫌なもの、そして自分の嫌な部分を全部集めて固めた、ひどく醜いなにか。

 これ以上余計なものを見ないようクストディアは目蓋をきつく閉じて、物々しい鎧に回した手へ力を込めた。






      ◇◆◇






 目に映るものすべてが眩しい。


 光輝くシャンデリア、花瓶いっぱいに生けられた黄色い百合、磨きぬかれた乳白色の壁。新調されたばかりの花柄のカーテンは風に揺れ、柔らかな陽光が絨毯の上に窓枠を描く。

 冬の季は屋敷中を閉めきりでいる日が多いから、庭に望む窓も天窓もみんな開け放って明るくなる春が大好きだった。綿のような絨毯をつま先立ちで飛び跳ね、ソファをぐるりと回ってまた戻ってくる。

 新しいドレスに使われているものと同じレースが一足先に届き、母にねだって髪を結ってもらった。亜麻のリボンはなめらかなのに不思議なさわり心地がして、髪を揺らすと擦れて軽やかな音がするのが面白い。くるくる、くるくると部屋の中で飛び回ってその音を楽しみ、目が回ってふらついたところで父が優しく抱き留めてくれた。


「ほーら、ディア。そんなお転婆にしていると危ないぞ?」


「ふふふふー、お母さまにゆってもらったの。ディア、精霊さまみたい?」


「精霊様よりもずっと可愛いさ。本番にはもっと素敵になるんだから、そのリボンもドレスが届くまでとっておきなさい」


「はーい」


 採寸にも布選びにも時間をかけた新しいドレスは、父クラウデオが選ぶと言って聞かず半年も前からあれこれ思案した末、結局は祖父や侍女たちまで巻き込んで八点の案から選ばれた。

 光沢のある生地は機織伯に依頼して取り寄せた絹の最上級品、光のあたる具合で色の深みも変わる美しいもの。稀少なレースをふんだんにあしらい、要所には惜しみもなく輝石を散りばめている。

 子ども用でありながら贅を尽くしたそのドレスは、材料費から手技代まで全て込めれば家が建つほどの金額がかけられているが、サーレンバー領主家にとってはちょっと奮発した程度の感覚だった。何せ、可愛い一人娘の五歳記の祝いだ。財布の紐も際限なく緩むというもの。


 完成品のドレスが届くのは本番の十日前の予定であり、試着ができるその日と、祝いの当日をサーレンバー家の令嬢クストディアは毎晩指折り数えて心待ちにしていた。毎年誕生日は家族が盛大に祝ってくれるが、五歳の誕生日は特別だと聞いている。プレゼントもご馳走もパーティも、何もかも素晴らしい一日になるに違いない。

 祝いの日を控え、屋敷中のどこもかしこもピカピカに磨き上げられ、綺麗なものや好きなものがいっぱいに溢れている。家族も使用人たちも毎日にこにこ笑って自分の顔を見るのは、彼らもその日が楽しみで仕方ないのだと思っていた。

 実際のところは、楽しみなのを我慢できず顔に全部出ている無邪気な娘が、みな可愛くて仕方なかったのだが、幼いクストディアにはまだ大人の顔色や思惑を読むことはできなかった。




 楽しみな準備が着々と整っていく中、直近でもうひとつの楽しみごとがあったのだが、何もかもすべてが望み通りにいくとは限らない。そんな世の常を、令嬢は柔らかなベッドの中で痛感していた。


「……どうしても、だめ?」


「だめだよ、お医者様もあと二日は様子を見るようにって言ってたろう? 寂しくないようにシャムとエリザは残していくから、今はしっかり寝て早く治すんだ」


「だって、寝るなら馬車の中でも、寝られるもの」


「それで風邪を悪くして、楽しみにしている五歳記の日にも治らなかったら嫌だろう? あっちには一泊だけに留めてすぐ帰ってくるから、良い子にしているように。ちゃんとファラムンドからのプレゼントも預かってくるから」


 毛布を口元まで上げたクストディアは頬を膨らませて反対側に寝返ったが、すぐに根負けして父の方を向き直した。


「おじさま、五歳記のおいわいに来てくれないの?」


「赤ちゃんがいつ生まれるかわからないからね。あっちが落ち着いたら、また改めて一緒にお祝いに行こう」


 毛布の中で優しく手を握ってくれる父の向こうから、「男の子かしら、女の子かしら?」と楽し気な様子の母が顔を覗かせた。

 こちらの屋敷を訪れるたびにおかしなぬいぐるみをプレゼントしてくれる隣領の領主ファラムンドは、父の次に格好良くて優しくて、久しぶりに会えるのをクストディアは楽しみにしていた。

 近寄り難い雰囲気の長男や、はじめは女の子だと思っていた次男はどうにも苦手なのだが、ファラムンドに会いたい一心で隣領への遠出にうなずいたのだ。今度生まれる予定だという三人目の子どものことは、別にどうでも良かった。ただあの素敵な大人に、「おめでとう」と五歳の誕生日を祝ってもらい、頭を撫でて欲しかっただけなのに。


「おみやげに、ファラムンドおじさま連れてきて」


「そ、それは無理だなぁ、さすがに。冬までにはまた予定を空けられるようにするから、少しだけ延期しよう。それで赤ちゃんに、クストディアお姉さんですよーって挨拶に行こう、な?」


「おねえさん……?」


「そうだよ、ディアはもうすぐ五歳になるお姉さんなんだから、赤ちゃんに会ったら優しくしてあげようね。まぁそのうち、本当の弟か妹ができるかもしれないけど」


 弟も妹も欲しくない、ずっとずっと自分だけを見ていてほしい。でも、それを言うと両親は決まって困ったような顔をするので、クストディアは何も言わずにもぞもぞと体を反転させた。

 欲しいものは言えば何だって用意してもらえるのに、欲しくないものや、したくないことは、お願いしてもあまり聞き入れてもらえない。そういう時は顔いっぱいに不機嫌を表明して、部屋の隅やカーテンの中に丸まって隠れるのだが、布越しに頭を撫でられ、父の優しい声でなだめられるうちにいつもうやむやになってしまう。

 今回ばかりはその手はくわないと、クストディアは毛布を頭の上まで被った。しばらくじっとしているとだんだん息が苦しくなって、顔を出して、そうして一息つくとそのまま寝入ってしまった。



 次に目が覚めると、隙間から朝日の差していたカーテンも部屋もすっかり暗くなって、室内を見回しても薄ぼんやりとしか見えない。

 いつも控えている侍女はおらず、眠りに落ちるまですぐそばにいたはずの、外出着を纏った両親の姿もない。自分が寝ている間に遠くへ出発してしまったのだと思うと同時に、とてつもない心細さに襲われた。胸の中を虫喰われるような、体が欠けて粉になっていくような、言葉にできない不快感に苛まれる。叫びたくても喉が掠れて声にならない。

 枕を掴んで思い切り投げ飛ばしてみても、上手く力が入らなくてベッドの脇にぼとりと落ちる。サイドボードに手を伸ばすと、指先がふれた拍子に水差しが転がり落ち、パリンと音をたてて割れてしまった。そんなつもりはなかったのに。無性に腹が立って、上に載っている物を全て薙ぎ倒した。

 小さな人形は吹き飛び、グラスは割れずに転がった。人を呼ぶためのベルも転がり落ち、チリンチリンと耳障りな甲高い音をたてた。


「……クストディアお嬢様?」


 ベルの音が隣室まで届いたのだろう、すぐに扉が開き、侍女のエリザが近寄ってきた。

 なぜ目覚めた時にいてくれないのか。どうして両親はそばにいないのか。見たこともない赤ん坊より自分の方が大切なはずなのに。自分だって一緒に行きたかった。本当は生まれる子も見てみたかった。ファラムンドに会いたかった。イバニェスに行ってみたかった。置いて行かれた。寂しい。心細い。悲しい。

 押さえきれない感情と溢れる言葉がないまぜになり、それら全部が涙とうめき声になって噴出した。泣きたいわけじゃないのに、嗚咽と涙が止まらない。

 泣きわめきながらエリザに抱き着くと、若い侍女はいつものように「大丈夫ですよ」と繰り返しながら、背中や頭を撫でてくれた。柔らかな胸に顔を埋め、どうにもならない激情を水と声に換えて体から出し切る。


「大丈夫ですよ、旦那様も奥様もすぐに戻ってきますから。待っている間は一緒に祈念式の練習をしていましょう。聖句をきちんと覚えられたら、お二方が戻られた時、きっとびっくりなさいますよ?」


「う、ううううっ……!」


「そのためにも、まずは風邪をきちんと治さないといけませんね。喉がお渇きでしょう、すぐに果実水をお持ちいたしますね。それと召し上がれそうでしたらお夕食は、スープにしておきましょうか?」


「……う、ぅ……」


 嗚咽はおさまりきらないけれど、何とかうなずくことはできた。ぐちゃぐちゃになった顔を拭かれ、鼻をかんで、息が整ってくるとエリザはゆっくりと体を離した。クストディアが落ち着いたのを見て取り、乗り上げていたベッドから立ち上がる。


「あ、こらっ、シャム君! レディの寝室を覗くだなんてマナー違反よ!」


「ええっ、いや、別に覗いたわけじゃなくて、お嬢様は大丈夫かなって……」


「大丈夫ですとも。手が空いているなら下まで行って水を……いえ、いいわ。私が行くから少しだけお嬢様についていて」


「えーっ! いやいや、それこそまずいでしょう、俺は扉の外にいるから誰か他の、」


 慌てふためいて顔を引っ込める少年だが、大股で近づく侍女のほうが早かった。その首根っこを捕らえると、「俺はただの護衛なんでー!」「ふたりだけにしないでー!」など喚くのも構わず、引きずるようにしてクストディアのいるベッド脇まで連れてくる。観念したらしい少年は放り出されるなり、その場で膝を抱えて座り込む。

 その神妙な様子に満足したのだろう、エリザはすぐ戻ると言い置いてクストディアの寝室を出て行った。

 扉は開いたままだから、灯りのついていない暗い部屋でも互いの顔くらいは視認できる。無理矢理に連れてこられたシャムサレムが膝を抱えて打ちひしがれている間に、クストディアは自分の顔を擦って水気の名残を拭き取った。


 庭師の老人が引き取ったという少年は、クストディアが物心ついた頃から庭木の手入れなどを手伝っていた。老人とは血が繋がっておらず、両親はすでに亡いのだとか侍女が話しているのを耳にしたが、あまり詳しいことは知らない。

 最近はどうも領兵見習いとして守衛の手伝いもしているそうだが、もっぱら侍女たちに良いようにこき使われる、屋敷内の小間使いと化している。実直な性格やすっきりした見目が気に入られている様子だが、クストディアはそれがあまり面白くなかった。庭で自分の馬代わりになっていれば良いのに、近頃は庭へ出ても姿を見かけないことの方が多い。

 父はシャムを残して行くと言っていたが、わざわざそんなことを言わなくとも、領主の旅路に同行できるような身分ではないことくらいクストディアも知っていた。彼は、きっと同行したかったのだろうけれど。


「……あんたも、置いて行かれたのね」


 頭頂部よりも少し右に傾いたつむじ。馬役を命じて何度もその背に乗っている自分だけが知っているそれに向かって声をかけると、丸くなっていた少年はのそりと顔を上げた。


「俺は、置いて行かれたわけじゃないです」


「じゃあ何なのよ。お父さまたちを守るのが、あんたの仕事でしょう」


「俺の仕事は、クストディアお嬢様を守ることです。だから、置いて行かれたわけじゃないです。ちゃんと、旦那様に任されました、お嬢様をよろしく頼むって」


 父に声をかけられたのは、きっと嘘ではないのだろう。子ども相手でも下手なごまかしやおべっかを使う人間ではないと、自分は知っている。

 だからその言葉も、表情にも、何の嘘も含まれていない。全て本物なのだ。

 ベッドの上のクストディアを見上げるシャムサレムには、一切の不満の色が見えない。ややはにかみながらも誇らしげで、そして、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていた。


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