第243話 覚悟


 リリアーナの眼前は広い更地が広がり、その向こうには仰ぐほどの岩山が聳える。別邸の窓からも見えた、かつての採掘場跡だ。

 まばらに雑草が生える荒れた地面には目立った障害物もなく、裏庭よりずっと広い。横手に古びた木材が積まれていたり、何かを壊した痕跡があるから、あの辺が昔は資材置き場だったのだろう。

 クストディアたちと別れて以降、薄暗い林の中をここまで走って来てさすがに息が切れている。朝よりも風は強くなっているのに、寒いどころか背中や額は薄く汗ばむほどだった。間近に迫る対峙に備え、意識して深い呼吸を繰り返す。

 シャムサレムもだいぶ疲弊している様子だったが、果たして無事に屋敷まで戻れただろうか。カステルヘルミやエーヴィたちのことも心配だ。置き去りにしたエルシオンはちゃんとこちらを追ってきているのか、あとどれくらいでこの場所にたどり着くのか。

 気がかりは多く、それを埋める声がないことに疑問を覚える。先ほどからアルトが全く念話を寄越してこないなと不思議に思いながら、リリアーナは提げているポシェットを見下ろした。


「……え?」


 思わず声が出る。腰の右側、ついさっきまで確かにそこにあったはずなのに、肩にかけていた紐ごとポシェットがなくなっている。シャムサレムに抱えられて移動する最中、木の枝にでも引っ掛けたのかもしれない。

 足を止められる状況ではないのを見て、紐が切れた時にあえて報せてこなかったのだろう。林の中のどの辺で落としたのか、全く覚えがなかった。


 アルトの探査範囲は以前よりずっと広くなっているから、自分が林を抜けたことはもう察知しているはず。それなのに話しかけてこないということは、念話の届く範囲から外れてしまった……もしくは、落ちた先で何か不都合が生じているのか。

 アルトの補佐を当てにしていただけに、手痛い失敗だ。とはいえ、今から探しに戻るわけにはいかないし、どうにかアルトのサポートなしでこの場を切り抜けなくてはならない。

 後を追ってくるエルシオンが、落ちているポシェットには気づかず通り過ぎてくれれば良いのだが。


 ……そもそも、あの男は本当に自分を追ってきているのだろうか?

 まさか途中で別れたクストディアたちの方へ向かったりなんてことは……。


(いや、それはない)


 荒地に歩みを進めながら、余計な不安を振り払う。

 あの男はコンティエラの複雑な裏道の中ですら、迷わずこちらを追ってきた。何らかの探知手段を持っているのなら、サーレンバー領主の孫娘だと素性が知れているクストディアよりも、今はその人生を賭けているとまで言う『デスタリオラの手掛かり』を優先して追跡するはず。

 呼吸を整え、踏む土の感触を確かめながら早足で荒地の奥へと進む。

 他者に見られる心配がなく、多少派手な魔法を使っても支障のない場所まで誘導できたのは自分にとって好都合。だが、問題はここからだ。


 こちらの最たる目的は、身の安全を確保した上で交渉し、生まれ直したデスタリオラにはもう『魔王』としての権能も、キヴィランタを統率する意思もないと理解してもらうこと。『勇者』の敵たりえないとわかってもらえれば、この先も命を狙われる心配がなくなる。

 もしも、『勇者』としての役割上それは不可能だというなら仕方ない。互いに譲れないものがある以上、以前のように命を賭して戦うことになるだろう。


 ……自身で目標設定をしておきながら、実のところ、要望が通る可能性は低いのではないかと思っていたりもする。

 何せ、生得の役割・・というのは生きている意味にも等しい。『魔王』デスタリオラがそうであったように、奴が『勇者』として生きている限り、その役目からは逃れられない。


(交渉も戦闘もこちらが不利なのは、前々からわかっていたことだ。やるだけやってみよう)


 まだリリアーナが『魔王』デスタリオラの記憶を継いでいるということは、エルシオンに知られていない。力量差が歴然としている中で、これは得難い優位性だ。

 コンティエラや先ほどの足止めで並ならぬ魔法を扱えることはバレていても、まさかこんな幼い少女がデスタリオラと同等の手数と知識を備えているなんて思わないはず。それなりの警戒はしても、ヒトの子どもだと油断する限りはつけ入る隙もあるはずだ。

 真正面からやりあって勝てる相手ではないのだから、正体を感付かれるまでが好機。卑怯だろうが何だろうが構うものか。埋めようのない力の差を覆すには、小屋の中のように奴の不意を突くしかない。

 だだっ広い更地には隠れる場所などどこにもないが、できるだけ距離を取るため足を進めていると、背筋に覚えのある悪寒が走った。


「……っ!」


 素早く振り返るのと、木々の切れ目から鮮やかな赤毛が姿を現すのは同時だった。

 さすがと言うべきか、全く息を切らした様子もない。軽い足取りで藪を越え、荒れ地に足を踏み入れる。

 これだけ離れていれば、ひとまず目を見て話してもすぐに精霊眼の紋様まで気づかれることはないだろう。リリアーナは右手を前に出し、林を抜けて近づいて来ようとする男に制止をかけた。


「話し合いには応じます、それ以上近づかないで下さい」


「いやぁ、逃げるから追いかけてきたけどさ、別にキミへ危害を加えようなんて思っちゃいないよ。ただ、」


「無為に距離を詰めるなら、もう何も話しません」


「それは困るなー。まぁ、リリィちゃんもいいとこのお嬢サマみたいだし、得体の知れない男とはあんまりそばで話せないってのもあるか。わかった、ちょっと遠いけどお話ししよう」


 その場で足を止めたエルシオンは、徒手であると示すためか両手をひらひら振って見せた。

 上下とも簡素な衣服に、皮製の胸当てとブーツ。鞘に収めた短剣以外は武器の類も見当たらないが、必要とあらば収蔵空間インベントリを開いていくらでも取り出すことができるだろう。

 正面から観察するのは生前の魔王城以来。こうして一見する限り、記憶を消去するような構成の気配は何も感じ取れない。常時纏うタイプではないのか、それとも魔法ではなく暗示によるものなのか。

 今は探査妨害がかかっていないらしいから、アルトがいればもっと詳しいことが分かっただろう。

 足取りを追えなくなる厄介な術だけに、できれば直接対面できたこの場で解明しておきたかったが、仕方ない。優先順位としては交渉よりもずっと下だ。今は忘れておこう。


「それで、さっきの質問の続きなんだけどさ。キミに魔法を教えた相手のことを聞かせてもらえないかな?  今どこにいるの、この近くにはいないみたいだけど、リリィちゃんのおうちにいる?」


「居場所は答えられません。あなたはそれを知って、どうするつもりなのですか?」


「えー、答えてくれないのに質問を返すの? ひどいなー。でもオレってば小さい子には優しいから答えちゃう。キミに魔法を教えた相手とオレは、古~い知り合いなんだよ。だから久し振りに会って色々と話したいことがあるんだ」


「話す、だけ……? 他には何もしない?」


 一度死んだ相手に危害を加えるつもりはなく、本当に話すだけでエルシオンの気が済むと言うのであれば、別にここで正体を明かしても――

 リリアーナがそんなことを考えかけると、男はおどけるように手の平を上向けて肩を竦めた。


「あー、オレも目的があるから何もしないって訳にいかないけど、まぁここから先はオトナの話だ。本人同士の問題だから。さぁ、オレは答えたんだから次はキミも答えてくれよ、さっき交渉は望むところだって言ってたじゃん?」


「……! 害する可能性がある相手に、素直に居場所を教えるとでも?」


 一瞬でも甘い考えがよぎったことを後悔する。

 やはり相容れない存在なのだ。すでに一度役目を終えた後なのだから、今なら敵対することなく話ができるんじゃないかなんて、都合の良い幻想だった。

 一度滅んだ敵が蘇ったなら、再び討つ必要がある。……だから、エルシオンは年老いていないのか? 『勇者』と相対する『魔王』が再び蘇る、もしくは完全に死滅していないせいで、加齢が止まっている?


「そこを何とか頼むよ、もし人違いだったら大人しく帰るし。でも、キミの使う麻痺の魔法は明らかにこっち・・・側の技じゃない。今は聖王国の魔法師がみんな弱くなってるから、あんな構成を編み出せるヤツがいたとしたら天性の才能か……もしくは、元々扱えていたかだ」


「……」


「あ、リリィちゃんも天才だと思うよ、教えられたからって誰でも扱えるモンじゃない、その年で大したもんだ。どこでこんな才能発掘したのやら。三年前に起きた領道事故ってのに関わってるぽいから、もしかしたらイバニェス領主サンの知り合いかなって思うんだけど。どう?」


 再び背中にじっとりといやな汗が浮かび、動悸も速まっている。もはや話し合いでデスタリオラの所在を諦めさせるのは不可能と思ったほうがいい。元より細い綱を手放し、リリアーナは思考を切り替える。

 エルシオンは何としても情報を聞き出すつもりでいる様子だが、仮にもヒト側の守護者たる『勇者』が、目的を達するために幼い子どもへ無体を働くだろうか?

 ……いや、物理的に痛めつけるような拷問でなくとも、精神に働きかけて秘密を聞き出す魔法も存在する。相手の記憶を部分的に消去するような術を持っている相手だ、まだ他に自分も知らないような構成を隠し持っている可能性は高い。

 捕まったらそこで終わり――それなら戦闘で敗北しても同じこと。大層分の悪い賭けになるが、ここでの対決は避けられないか。


(余力を全部出し切って、上手くいったとして五分ごぶにも満たない)


 足に痣をひとつ作っただけでひどく心を傷つけた侍女を想う。

 臆病なくせに身を張って庇ってくれた家庭教師を想う。

 五歳記の日に初めて抱きしめてくれた優しい父、繊細な長兄、皮肉屋な次兄、何かにつけ気遣い助けてくれる侍従長。愛しい家族たちを想う。

 万が一自分に何かあれば、この身を大事にしてくれる周囲の皆を悲しませてしまう。これから先の人生を楽しめないことよりも、そちらの方がよほど気掛かりだった。

 せめて力が十全であれば。

 悔いばかり渦巻き顔色を悪くするリリアーナをよそに、離れて立つ赤毛の青年は楽しげな笑みを一層深めた。


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