第235話 交渉
かつて見た姿、目にした光景、あの広間での邂逅が視界に被る。
風に揺れる真っ赤な髪。
以前『勇者』として『魔王』を殺しに来た時よりもずっと軽装になった男は、腰にコンティエラでも見たシンプルな短剣を差している。愛用の聖剣は
軽薄な笑みを浮かべ、自分よりも幾分、色味の明るい赤の瞳がこちらを見下ろす。前は玉座を見上げていたくせに、位置も力量もすっかり逆転してしまった。
あの時の緊張感を孕んだ顔つきとはまるで違う、余裕の滲む笑み。絶対的有利を確信しているためだろう。その通りなのだが無性に腹が立つ。
……脳裏にちらつく記憶の欠片たちを振り払い、近距離で顔を見られすぎないようにフードの端を掴んで引き下げた。
「サーレンバーはビックリ箱だなぁ、あんなヤバい動きする
「あの鎧は……っ」
自分の持ち物ではないと、そう主張しようとしたのだろう。声を上げかけたクストディアが途中で口を噤んだ。視線だけで横を見れば、抱き上げているシャムサレムが器用に篭手の先で少女の口を塞いでいる。
そこでエルシオンの足元に横たわるテオドゥロが、伏せたまま小さなうめき声を漏らした。……良かった、どうやら気絶させられているだけのようだ。
<エーヴィ殿と護衛ふたり、いずれも気を失っているのみで、大きな外傷はありません。依然、屋敷の守衛たちはこちらに気づいてはいない模様、庭に接近するヒトはおりませんが……、これからどうなさいますか?>
まだ正体を知られていないことと、アルトから情報を得られるのはこちらの有利でも、あまりに力の差がありすぎる。この距離だって、たった二歩分を踏み込まれるだけで簡単に奴の手が届く。
目の前で護衛を落とされ、驚愕に詰めていた息を細く吐き出す。こちらの視線を追って、倒れたままの護衛を心配していると見たのだろう。エルシオンは眉尻を下げて後頭部を掻くような動作をした。
「あ、いやぁ、荒事を起こすつもりはないって言ったばっかで何なんだけど。ここで応援とか呼ばれるとオレとしても面倒なんでね。できればサクッと話し合いで解決できたら嬉しいなって」
「穏便な交渉で済ませられるなら、こちらも望むところです」
声に震えが混じらないよう、一言一句をしっかり言い切る。
自分の斜め前には腰の引けたカステルヘルミと、右隣にクストディアを抱えたままのシャムサレム。そして目の前の敷布を挟み、十歩分ほど先にエルシオンが立っていた。
位置が悪いし、近すぎる。
このままでは何かあって逃れるにしても背後は針葉樹林。奇襲を受ける、またはかける場合もカステルヘルミたちが邪魔になる。もっとも、位置が逆だったとして、林道にエーヴィが倒れている限りは大きな魔法は使えない。
まずは、自分に関する混み入った話――戦闘行為が混じる可能性のある交渉をする前に、クストディアたちを屋敷へ帰せるようにするべきだ。
「明日から上演される歌劇の、内容に問題があるということですが……」
「うん。でっちあげも甚だしい、嘘ばっかの作り話なんだよ。そんなものに実在の人名を使うのはやめてもらいたいモンだよねまったく……。いくら題名を変えてても、あの内容をやる限り公演は許せないよ」
おどけて両手を広げ、困ったというポーズを取りながら、一歩も退く気はないと断言する。
原典となった本の内容も脚本も知らないままだから、一体どんな話なのかはわからないが、本人がここまで言う以上、やはり真実からかけ離れた創作話なのだろう。途端に明日の観劇に対する興味が薄れてしまった。
とはいえ、上演をやめるのはクストディアが納得せず、強行しようとすればエルシオンが何をしでかすかわからない。自分の興味の度合いは端に置き、何とか擦り合わせをしなくては。
エルシオンの主張と、クストディアの強情。互いの叶えたい部分と譲れない点を勘案し、現実的な妥協案をひとつ出してみる。
「……実在する人物の風評に関わることが問題なら、主人公の名前と、髪の色を変えての上演ならいかがでしょう?」
「お? なるほど、そういう折衷案できたか。うーん、『勇者』エルシオンの名前を一切出さないと約束するなら、オレは別にそれでもいいかなー?」
顎に手を当てて思案顔の男から、隣のクストディアへと視線を向ける。眉間にたっぷりとしわを寄せ、いかにも「不服だ」と言わんばかりの表情をしていた。
「演目の変更も中止もだめだと言い張るなら、これくらい飲んだらどうだ。主演の様相が変わるくらい、どうということはないだろう?」
「そこを変えたら作り話の部分しか残らないじゃないの! ……あーあ、なんかもう面倒臭くなったわ。いいわよ、脚本の本筋さえ変えないなら、あとは好きになさい」
クストディアは手をひらひらと振って見せ、もうどうでも良いとばかりに顔を背ける。
頑固な令嬢は折れた。あとはエルシオンの了承を得て、劇団側に上演許可と引き換えの変更を要請すれば、ひとまずこの件は落着だ。公演中止を迫るために領主邸への侵入までした男だが、もうこれ以上クストディアやブエナペントゥラに用はないだろう。
シャムサレムに声をかけて屋敷まで戻ってもらおう。安堵からリリアーナの緊張が少しだけ緩んだその隙に、クストディアは鎧の腕にしがみついたまま顔を上げた。
「だからと言って、あんたの罪が帳消しになるわけじゃないんだからね! おまけにこんな子どもをつけ回してるだなんて、幼児趣味の変態っ! 生きる価値もないゴミクズカス男、私の邪魔をしたこと一生かけて償わせてやるわ、カビ臭い牢の中で湿った床でも舐めてなさい!」
「流れるように罵倒が出てくるなぁ……」
「だからその口の悪さをもう少しだな……」
エーヴィとの立ち回りも、護衛のふたりが一瞬でやられたことも見えていなかったのだろうか。この口振りではサーレンバー邸の守衛が束になっても敵わないという自分の言葉すら、信じていない可能性が大きいのでは。
これ以上まずいことを言われる前に、早く屋敷へ戻ってもらおう。……そんな思いはまたもクストディアの舌鋒に出遅れた。
「ちょっと、そこの女魔法師! あんたこの子の教師なんでしょう、何ぼさっと突っ立ってんのよ! 凄腕の魔法師なら、さっさと魔法でも何でも使ってこの不埒者を痛めつけてやりなさい!」
「ぅえっ! いえあの、わ、わたくしはっ、」
突然の指名に動揺し、慌てふためくカステルヘルミを赤い眼が捉えた。
「へぇ……? リリィちゃんの、魔法のセンセイ?」
「中央で鳴らした腕前なんでしょう、家庭教師なんだったら給料分は働きなさいよ!」
都合の良い誤解をそのままにしていたことが、こんなところで裏目に出るとは思わなかった。カステルヘルミへ向き直る男の注意を逸らすため、リリアーナも声を上げる。
「待て! 違う、カステルヘルミは関係ない、別に実技などを教わっているわけではなくて」
今にも腰を抜かしそうな有様は、どこをどう取ったって凄腕魔法師には見えないというのに、エルシオンは興味深そうに首を横へかたむけた。
「リリィちゃんが魔法を使えるってのは見当ついてたんだけど、それを一体誰から教わったのか、知りたかったんだよねー」
「誰からって……」
「ねぇキミ、身近な知り合いにさ、ツヤツヤの黒い髪に赤い眼をした、やたら顔のいい男がいるでしょ?」
「……?」
一瞬、誰のことを言っているのかわからなくて、ぽかんとしてしまう。
黒い髪で見目の良い男と言えば、まず父であるファラムンドと長兄のアダルベルトが浮かぶが、瞳の色はふたりとも深い藍色だ。揃いの色彩が正直羨ましい。
……そんな思考を挟んだせいで、デスタリオラのことを指しているのでは、と気づくまでに少し間が空いた。
「あれ? 反応薄い? おっかしいなぁ、確かにイバニェス領の方向だったんだけど。相方とはぐれちゃったのが堪えるな……。こないだの転移や痺れの魔法って、リリィちゃんかもう片方の子の仕業だろ、あんなすごい魔法誰に教わったの?」
男が一歩近づく分、二歩下がる。
「その辺の話を聞かせてもらいたくってさ、またイバニェスに戻る途中だったんだけど。いやぁ、サーレンバー経由にして大正解だったわ、まさかキミがこっちにいるとは思わなかったから」
「話には、応じます。だからもうクストディアたちは屋敷へ戻しても、」
「うん、ちょっと立て込んだ話になるから、部外者にいられると色々マズいし。ふたりっきりで話せるとこに移動しようか」
「「<はぁっ???>」」
クストディアとカステルヘルミ、それとアルトの上げる声が見事に重なった。
「ばっ、馬鹿じゃないの、頭沸いてるわ、この変態っ、あんたとこの子をふたりきりになんてさせるわけないでしょ、何言ってんのふざけんのも大概にしなさいよ恥知らずの犯罪者!」
こちらが何か言う前に、横から豪雨のような罵倒が突き刺さり、エルシオンが情けない顔で「えー」と呻いている。
その隙にもう一歩、距離を取っておいた。男の向こう側、別邸の渡り廊下にはまだ待ち人の影は見えない。
「さすがに、ふたりだけで話すのは……。もうすぐ護衛がひとり戻ってくるはずなので、彼に同席してもらわないと。ええと、『キズモノ』になるって兄に言われてますから」
「キ、キズモノ? やっぱりその手の趣味なのね、真性の変質者なんでしょう、こんな年端もいかない子どもを連れ去って何をするつもりなのよっ、いやだわ気持ち悪い! 私と同じ空気吸わないでちょうだい、今すぐ穴に埋まって窒息なさい変態!」
「女の子の罵倒はわりと心にダメージ食らうから、その辺にしておいてね……」
こちらが下がった分だけエルシオンは歩みを進める。籠やクッションの置かれた敷布を軽く飛び越え、もうあと数歩という距離にまで迫っていた。
「なーんにも酷いことはしないから、リリィちゃんにはちょっとだけ付き合ってもらうよ。悪いけど、こっちも人生賭けてる大事な用なんでね」
「……っ!」
赤い髪を風に揺らし、緩い笑みを浮かべた男が近づいてくる。
後退の足がもつれ、危うく転ぶ前に踏みとどまった。いくら話し合いを望んでいようと、身の安全も確保できないまま大人しく連れ去られるわけにはいかない。
せめて何か足止めになる魔法を――。
精霊眼を見られることも覚悟して顔を上げた、その視界を、華奢な背中が遮った。
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