第233話 膠着


 息を飲んだまま呼吸を忘れていた。空気を揺らさないようゆっくり吐き出し、動悸を落ち着ける。

 驚きのあまり全身が痺れたように動かず、声も出なかった。思考と体の硬直は、戦闘中であれば致命的だが、今ばかりはこれで良かったのかもしれない。

 扉を開け、小屋の中に入ったまま佇む男の視線は自分ではなく、クストディアたちの方へ向いている。

 自分から注意が逸れていることに疑問を抱きつつも、下手に反応を示さなかったことで注意を引かずに済み、冷静さを取り戻す時間と、相手の出方を見る心構えが持てた。

 屋敷の守衛たちと同じ制服を身に着けた男は、髪と瞳が黒い。だが、色彩が異なるくらいで自分がこの男を見間違うはずはない。容姿も声も、間違いなく『勇者』エルシオンのものだ。


<衣服や装備品は守衛の物ですが、形而上外観データは以前コンティエラの街で遭遇した『勇者』と一致。身体の一部に光学的変換の魔法がかかっている模様。監視方法が偏り、ただのヒトと誤認しました、誠に申し訳ありません……!>


 まさか領主邸へ潜入するのに、持っているはずの探査妨害をわざわざ切ってくるなんて馬鹿げたこと、自分だって想像もしなかった。探査を弾かれる相手が『勇者』だという特定方法には納得をしたし、決してアルトだけを責めたりはしない。

 あまり気に病むなとポシェットの上から撫でてはみても、アルトの気質を考えれば責任を感じ、しばらくの間はこの失敗を引きずるだろう。

 ……この先、互いに無事であればの話だが。


「いやぁ、ここのお嬢サマは部屋に籠もりっぱなしだって聞いたから、会えるかどうか心配してたんだけど。外に出てきてくれて助かったよ。えーと、そっちのツーテールの子がクストディアちゃんで……」


 シャムサレムの背後に身を隠し、警戒を露にするクストディアを眺めていた男は、次にリリアーナへ目を向けて驚いたような顔をする。


「あれ? もしかしてキミ、こないだの仔猫ちゃん?」


「……」


 フードと前髪で、なるべく赤い目を見られないようにしながら、覚悟を決めて正面を向いた。

 この距離では一歩踏み込まれるだけでもう相手の間合いだ。あまりに近すぎる。

 こんな無防備な状態で、再びこの男と対峙する羽目になるだなんて想定外もいいところ。どうしてこう、毎度思ってもいない嫌なタイミングで姿を現すのだろう、心底忌々しい。


「そーいえば、家は遠いとか言ってたもんね。そっか、サーレンバーに住んでたのか、てっきりイバニェスの子だとばかり。いやぁ、奇遇だね。もっかい会いたいと思ってたから、ちょうど良かった」


 クストディアが横から怪訝そうな顔を向けてくるが、それを見返す自分も同じような顔をしているのではないだろうか。目線を交わしても、互いに言葉は出てこない。

 エルシオンの発言を素直に信じて良いのなら、ここに現れたのはクストディアに用があったからで、リリアーナとの再会は全くの偶然だということになる。

 デスタリオラの生まれ変わりである自身の正体も、イバニェス領主の娘だという身元も、まだ気取られてはいない。……本当にそう思って良いのだろうか?


「えーと、名前は……リリィちゃんだっけ?」


「どうして、その呼び名を」


「前に一緒にいた子がそう呼んでたろ? 今日は一緒じゃないの?」


 ノーアからそんな呼ばれ方をしただろうかと記憶を探り、転移前の別れ際、短く告げられた言葉を思い出す。

 あんな小さな囁き声を聞き取られているとは思わなかったが、やはり名前も何も知らないままのようだ。つまり、奴は転移で跳ばされた後、まだイバニェス領には行っていない。

 未だ正体を知られていないのであれば、油断を突いて打てる手も確実性を増す。リリアーナは意識して呼吸を落ち着け、相手の様子を注意深くうかがう。


 そんな中、小屋には他に誰もいないことを確かめるように見回すエルシオンに対し、背後を庇う格好でシャムサレムが一歩前に出る。


「おっと、荒事を起こすつもりで来たんじゃないんだってば。さっきも言った通り、ちょっとだけここのお嬢サマに用があってさ」


 危害を加えるつもりはないという意思表示のためか、シャムサレムが近づいた一歩分、男は扉の敷居近くまで後退して空の両手を振って見せる。

 こちらから離れるというよりも、むしろ唯一の出入口を塞がれたようにしか見えない。


「あんた、うちの衛兵じゃないわね? たとえヒラ兵士でも私に対してそんなふざけた態度取るはずがないもの。一体何だってのよ?」


「おお怖い、そんなに睨まないでくれよ。オレも困ってるんだわ実際。できるだけ穏便にと思って、劇団の方にも公演を中止するか演目を変更するように、お願いをしに行ったんだけど。団長さんってば「領主サマの命令だから」の一点張りでさぁ。聞けば、孫娘のキミがどーしても観たいって我侭言うせいで変更はムリだとかなんとか?」


「公演の中止って……じゃあ、あんたが劇団を脅してるっていう脅迫犯ね? よくもおめおめとこんな場所へ顔を出せたものね、覚悟なさい、領兵に突き出してやるわ!」


 シャムサレムの背後に隠れたまま息巻くクストディアに、「まぁまぁ」と軽い調子で手を振る男は、真意の読めない軽薄な笑いを貼り付けたまま。

 だが、変装をしてまでこんな場所へ現れた理由については、リリアーナも気になるところだった。


「脅してるだなんて人聞き悪いなぁ、ルールを破ったのはあっちが先じゃないか。『勇者エルシオン』の伝記は回収されて以降、それを原題とした創作色の濃い演劇や歌も禁止されてるはずだ。いくら題名をちょっと変えたところで、あれはないわー。何なら中央へ通報してもいいんだよ、困るのは警告を無視して強行しようとした領主サマや劇団の方だ」


「べらべらと偉そうに……あんたは何なのよ! 王室や聖堂からの間諜だとでも?」


「いや、全然そんなんじゃないけど。まぁ確かに不審者に見えるかもなぁ。んー、オレの身元は中央近衛騎士団のオーゲンってオッサンが保証してくれるから、何なら問い合わせて確かめてくれてもいいよ」


 半ば身を隠しながらも気丈に振る舞い、厳しい言葉を投げかけているクストディアだが、間近で見る顔色は酷い。この狭い空間で、得体の知れない男と会話をするのは少女にとって耐え難い苦痛なのかもしれない。

 小刻みに震える肩からも怯えているのは明確だが、あと少しだけ我慢してくれと念じ、リリアーナは奥歯を噛んで集中を続ける。


「だから、脅迫とか手荒なことをするつもりはないんだ。団長サンだって、捕まるよりは中止か演目の変更をした方が傷は浅いってわかってるんだから。ちょーっとキミの方からおじいちゃんに、違法な上演はやめてねって伝えてくれれば話は丸く収まるんだよ」


「なんでそんなこと、あんたに指図されなきゃならないの! 嫌っ、絶対に嫌よ、明日の公演は中止になんてさせないから!」


「えー。キミがうなずいてくれないと、おじいちゃんの方にお願い・・・しに行かなくちゃいけないんだけどー」


「そんな脅し、無駄よ。やれるもんならやってみなさい。人質にされるくらいなら、今この場で首を掻き切って死んでやるわ!」


 クストディアは縋る黒鎧の肘を掴みながら、精一杯の威嚇を込めて喚く。

 本気の度合いは知れないが、この恐慌状態では勢い余って自身を傷つけかねない。過ぎる時間がいやに長く感じ、額にじわりと汗が浮かぶ。


「おっかない子だなぁ、そこまですることないって。劇なんて他にいくらでもあるんだからさ、演目の変更で納得してもらえない? まぁ、明日の封切りには間に合わないかもしれないし、チケット払い戻しとか何か色々お金かかるかもしれないけど、そこはルール破って儲けようとした劇団側の責任だよね」


「劇団がどうなろうと知るもんですか、何を上演しようとあんたには関係ないでしょう! 私のやろうとすることを、誰にも邪魔なんて……させ、ないわ!」


「関係なくもないんだなぁ、これが。せめて本人の死後まで待ってくれれば、文句はなかったんだけど」


 震えのあまり語尾を掠れさせる少女の姿が、男にはどう映っているのだろう。薄い笑みを浮かべたまま目を細め、他人事のようにそう呟く。

 そんな表情が癇に障ったのか、主人の危機に耐えかねとうとうシャムサレムが動いた。視線を遮るようにクストディアを隠し、歩幅を開いて剣の柄に手をかけ、戦闘態勢を取った。


 エルシオンの意識は完全にそちらへ向いている。

 距離、角度とも目測での指定に問題なし。

 隠していた最後の一画を描ききり、隣からクストディアの腕を掴んだ。



 刹那。


 背後に立っていた甲冑が予備動作もなく、ヒトの骨格では到底不可能な動きで真横へ大きく跳んだ。

 両足で壁を蹴り、空気を裂いて鋭くエルシオンへと踊りかかる。


「は? なに、」


 横手から体当たりした勢いで両者ともそのまま吹き飛び、置いてあった木箱や棚の粉砕される轟音が、男の戸惑う声をも掻き消した。

 注意が逸れているように見えるのは偽装で、こちらの出方をうかがっているだけだったらどうしようという不安もあったが、無事に策がはまって安堵する。


 隠蔽の魔法を上塗りしていた構成は、テッペイの起動と動作設定、それと表面処理に使っていた素材を変質させ、無機質の接着剤に変えてある。対象にしがみつくよう命じたテッペイと、吹き飛ばされた先の壁や木材が全身に絡みつき、しばらくは身動きひとつ取れないはず。


 だが、問題はこの後どうするかだ。

 相手は他でもないあの『勇者』、これしきのことで稼げる時間はたかが知れている。その間に限られた手数と方法で、この状況を何とかする手立てを考えなくては。


「今のうちだ、行くぞ!」


 まずは移動とクストディアたちの安全確保、それから戦力の補充。

 何が起きたのかと目を丸くしている少女の手を強く引き、シャムサレムを促して小屋の中から駆け出した。


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