第230話 それは来たりて扉をひらく②


 普段から部屋へ籠もりきりな彼女のことだ、そう足は速くないだろうと見当をつけていたら、本当にあっさり後姿を捉えることができた。速度は緩くとも、このまま追っていては距離が縮まる前にこちらまで疲れてしまう。

 もたもたと走るクストディアが回廊を逸れ、庭へ続く石段を下りきったところで、リリアーナは一息に飛び降りてその行く手を遮った。


「なっ、何であんたが、こん、げほっ」


「この程度の距離で息を切らしているのか? 持病などの事情がないなら、少しは外へ出て体を動かしたほうがいいと思うぞ」


「う、うるさい……っ」


 膝に両手をついて息を荒げるクストディアは、元々外へ出るつもりなどなかったのだろう、室内着らしき襟元の開いたドレスのままだった。

 走ったばかりで今だけ体が火照っても、呼吸が整えばすぐに冷えてしまう。フェリバによって首にぐるぐると巻かれたストールを外し、その肩にかけてやる。要らないと言って払われるかもと思ったのだが、意外にもそれを素直に受け取り、胸の辺りで掻き合わせた。


「盗み聞きなんてするつもりはなかったんだが、揉めているのが見えてな。……にしても、先ほどの話は本当か? エルシオンの本以外にも、なくなっている物品が?」


「私は、嘘なんて、言ってないわよ……っ。お父様が大切に使っていた物ばかり、あのペンは使いやすいから気に入ってるんだと言って大切にしていたのに! あの几帳面なお父様が、筆記具を決まった場所にしまわずに放っておくわけないじゃない、盗まれたのよ!」


 悔し気に顔を歪め、吐き出すようにそう言ってからクストディアはまた咳き込んだ。急に走ったりするから、冷えた空気を吸った喉が驚いているのだろう。

 どこまで来たのかと思い辺りを見回してみると、裏庭に続く並木とそばに東屋があった。渡り廊下から続く通路を走って、建物の西側へ出たらしい。ここは前にシャムサレムが鍛錬をしていた場所だ。


「すぐそこの庭に、敷布やポットを持ってきてあるんだ。温かいお茶を飲んで、少し休むといい」


「いらない……」


「まぁそう言うな、こんな場所で座り込んだら余計に体を冷やす。侍女や護衛たちが気に食わないなら、距離を取らせておくから。ほら、ひとまずこっちに来い」


 ゆるく手首を掴んで引っ張ると、少女はしばらく抵抗を見せたがすぐにだらりと力を抜いて、諦めたように足を動かしはじめた。その後ろからシャムサレムもついてくる。

 疲れのせいか、文句を言う気力も残っていないのか、クストディアは手を引かれるに任せ無言のまま。未だ荒い呼吸音だけが耳に届く。


 しばらく歩いて別邸に臨む庭へ出ると、カステルヘルミがこちらへ駆け寄ろうとするのが見えた。

 手を挙げてそれを制止し、自分たちから離れているようにと身振りをする。きちんとその意図は通じたらしく、エーヴィや護衛たちもこちらを見ながら少しずつ後退し、庭の中央から離れていった。


「そこの敷布だ、ちゃんと座れるようにクッションも持ち込んであるんだぞ。お茶を出すから、少し待っていろ」


 さすがに目を離すわけにはいかないようで、エーヴィたちは距離を置いた場所からこちらを見守っているようだった。

 当のクストディアはそんな彼らを気にする様子もない。置かれているクッションの上に座り込み、そばにあったひざ掛けを広げて勝手に暖を取っている。

 持ち手のついていないカップへお茶を注いで渡してやると、礼もないままそれを受け取り、ちびちびと口をつけ始めた。

 カステルヘルミとリリアーナの分、カップは元々ふたつ用意されている。シャムサレムの分がなくて残念だが、どうせここで兜を脱ぐ気はないだろう。

 もうひとつのカップにもお茶を注ぎ、息を吹きかけながらそれを飲む。濃い目に煮出した香茶に、ミルクと砂糖がたっぷり入っていて心身ともに温まる。


「……はぁ。寒空の下で温かい香茶を飲むのも、なかなか良いものだな」


「…………」


「ブエナ氏は明日の準備で立て込んでいるのだろう。帰ってきたらもう一度、さっきの件について話してみたらどうだ。何ならわたしも一緒について行くから」


「あんたは関係ないでしょう」


 カップを両手で包んだまま、素っ気ない言葉が返される。

 何かつまむものはないだろうかと籠の中をあさってみても、元々作業をするつもりで来たから、飲食物はポットのお茶しか用意してもらっていない。こんなことなら乾燥果実くらい忍ばせておけば良かった。


「クラウデオ氏の私物を掠め取っている者がいたとして、それが常習ならば捨て置けん。例の本だって、価値を考えればそやつが持ち去った可能性が高いのだろう?」


「……何も高値がつくのは、あの本だけじゃないわ。カーマンの詩集は装丁に金箔が使ってあったりして元々高額だけど、最終巻だけ後から編纂されて愛人へ送った詩が消されたの。だからお父様が揃えていた初版本の最終巻なら、好事家であれば金貨二百枚は出すでしょうね」


「に、にひゃく?」


 読みたい本に対して出費を惜しまない気概は理解すれど、そこまでの大金を払うほどなのか。銀貨一枚で赤い林檎が十個、銅貨一枚で青い林檎が二個、……そんな物価の学習をしているところに急に桁が飛びすぎて、価値観がおかしくなりそうだ。

 リリアーナはこめかみを指先でぐりぐりと揉んで、思考を一旦リセットする。


「額がとんでもないな。エルシオンの本にしても言えることだが、そうした希少品が高値で売れるという情報は、一般的なものなのか?」


「まさか。稀覯本と骨董文具ではジャンルも違うし、盗んだ奴もそれなりの知識を持っているってことよ。お父様の部屋にはもっと高価な品も置いてあるのに、わざわざ目につかなそうな物ばかり狙ってるんだから、室内の品定めも十分にしたんでしょうね。さっきは机回りしか見ていないけど、お母様の宝飾品も手を付けられてるかも……」


 カップを握る手に力が込められ、赤らんだ爪先が白くなる。

 亡くした両親の私室から、生前大切にしていた物品を盗まれたことが本当なら、クストディアが怒りに震えるのも当然だ。我が身に置き換えて想像しなくとも、許しがたい気持ちは痛いほどわかる。


「先ほど、掃除を指示していると言っていたな。現在は使われていない部屋でも埃が積もらないよう、定期的に清掃をさせていたのだろうが……」


「ただの使用人に鑑定眼なんてあるわけないじゃない」


「部屋に入れる人間が限られている以上、そこから疑ってみるのが定石だろう。その上でひとつ、実はわたしの方でも最近似たようなことがあってな」


 屋敷の人間しか入れない部屋、不自然なタイミングでの掃除、それと共になくなった品。……資料用の書斎から消えた、聖堂の本と手帳の話を手短に説明すると、クストディアは目を見開いて上体を乗り出してきた。


「何よそれ、手前の書斎なんて今はほとんど使われていないのよ。なのに急に本が抜き取られたってことは、偶然なんかじゃなく、あんたがそれを手にしたのが原因でしょう。何なのそれ、どういうことよ」


「だよなぁ。あの時、書斎内にはわたしと家庭教師のカステルヘルミしかいなかった。他の誰にも見られていないのは確かだし、栞など目印を挟んだわけでもない。あれは稀覯本とは違って、持ち去ったところで金に換えられるわけでもないと思うんだが……」


 カップを膝の上に下ろしたクストディアは、難しい顔をしたままじっと何か考えている。指先で丸い縁をなぞり、それが三周したところで再び顔を上げた。


「次に書斎へ入った時には、本棚が掃除されていたのよね?」


「ああ、清掃ならわたしが利用する前にするべきではないかと思ったものだが」


「あんたがどの本に興味を示したのか、後から棚の埃を見ればわかったんじゃない?」


「それは、まぁ。新しめの資料は棚ごと乱読したからともかく、あの手帳のあたりは三冊しか手に取っていないし、埃を擦った跡はついていたと思う」


 棚の見える部分しか拭かれておらず、本やその境には埃がずいぶんと積もっていた。

 奥の方の棚は古い本ばかりだから、不用意にさわって崩さないようにしていたのかもしれない。それでも手入れの行き届いていない書斎は、普段から利用している人間が少ないことを物語っていて残念な思いがした。


「それなら、あんたがどんな本を読んだのか確かめようとした誰かが、埃の痕跡を頼りに、そのなくなった本を見たんでしょう。何で持ち去ったのかまでは知らないけど、自身も興味があったか、それとも内容がまずかったのか」


「ああ……その二択なら、おそらく後者だな」


 聖堂の行いに対し疑問を持っている自分ならともかく、普遍的な価値観を持っているヒトが、あの手帳の中身を見たら驚くのではないだろうか。

 他の二冊までなくなっていた理由は想像がつかないけれど、あれらを持ち去って、その後どうしたのだろう。印刷された本とは違い、手書きの手帳は一点物だ。処分などされていなければ良いのだが……


「うーん、となると、クラウデオ氏の部屋を荒らした奴とは別件か……?」


「どちらにせよ、掃除に当たった使用人を締め上げればはっきりするわ。後で侍女頭に話をつけに行かないと」


「それと、犯人がすでに換金している可能性を考えて、市井で買い取りをしている店を当たる必要があるな。希少な物なら足もつきやすかろう。クラウデオ氏の遺品なのだから、散逸する前に全て取り返さねば」


「当然よ」


 空になったカップを突き返してきたクストディアは、ひざ掛けを捲ると勇ましく立ち上がった。屋敷の方を振り向き、そして再びその場にしゃがみ込む。


「どうした? 立ちくらみでも起こしたか?」


「違う」


 膝を抱えて丸くなっている少女の声は気丈なまま、しっかりしている。貧血を起こしているわけではないなら、一体何だろう。

 そばにいるシャムサレムを見上げると、どうしたものかという様子で両手をさまよわせていた。ふれるべきか、そっとしておくべきか、長い付き合いでもわからないことはあるようだ。

 リリアーナは座ったまま膝を突き合わせるように近づき、もう一度問いかけてみる。


「どうした?」


「……。……お父様とお母様がいなくなって、何度かあの部屋には入ったわ。でも、誰も帰ってこないし、何も変わらないから、そのうち行かなくなった。もう最後に入ってから五年は経ってるもの。その間、いつ本や物がなくなったかなんて、わからないじゃない……」


「そうだな。もしかしたら、売り払われて既に何年も経っているかもしれない」


「今さら探したって、もう戻ってこないかも」


「うん、そうだな。……まぁ、お前が追及をやめたところで、わたしは本の行方や犯人が気になるから勝手に調査を進めるが」


 がばりと勢いよくクストディアが顔を上げた。危うく顎をぶつけるところだったシャムサレムが頭を逸らし、慌てて後退する。


「あんたね、よくもそんな……っ、あんたの、そういうデリカシーのないとこが、本当に嫌いよ!」


「何度も聞いて知ってる」


 置かれていたカップを持ち上げ、香茶のおかわりはいるかと訊ねると、クストディアは威嚇するように歯を軋ませ悔し気な表情のまま、小さくうなずいて見せた。


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