第229話 それは来たりて扉をひらく①
公演の前日。朝食の席には全員揃っていたものの、ファラムンドもレオカディオもすぐに用事があるとかで、言葉数も少ないままに手早く食事を終え、食堂を出て行ってしまった。ブエナペントゥラも同様に、慌ただしくてすまないと苦笑しながら短い朝食を終える。
脅迫の件がどうなったのか訊いてみたくとも、大人たちはリリアーナの耳にまでその話が届いているとは思ってもいないだろう。朝食の場でもその話題が上ることはなく、まだ中止か延期かで揉めているのか、それともすでに片がついて明日は問題なく上演されるのか、何もわからないままだ。
昨日に続き、キンケードもリリアーナの護衛を外れてどこかへ行っている。もし脅迫の件が片づいておらず、そのまま行われる公演へ向かうのであれば、当日の体制について話し合いが持たれているのかもしれない。
万が一にも危険があるようなら、護衛の体制や出入りの経路など、検討することが余分に増える。レオカディオはどうか知らないが、ファラムンドまで朝から忙しそうにしているのはこの脅迫騒動が原因のように思えた。
「副長は午前中には戻って来るそうですから。それまでは俺とアージがついてます、物足りないかもしれないけどご安心ください」
「ちょ、物足りないって何だよお前。あ、いえ、精一杯務めますので!」
物思いに沈む表情が不安げに見えたのかもしれない。リリアーナがのろのろと席を立って食堂を出ると、自警団員のテオドゥロとアージが元気な声をかけてくれた。
別にキンケードがいなければ物足りないという訳ではないし、侍女たちがついているから不安もない。食堂と別邸を行き来するだけなのに、わざわざふたりも護衛についてもらうのは過剰だとすら思う。
もっとも、ふたりからすればこれも仕事の一環。たとえ相手が幼い子どもで、一緒に廊下をのんびり歩くだけだろうと、それは変わらない。
「……あの、おふたりは明日の公演にも、護衛としてついてきてくれるのですか?」
「何かシフトに変更が出るみたいで、副長はその最終確認に行ってるんですよ。詳しいことは戻ってから聞いてみないとですけど、多分俺らも同行させてもらうことになると思います」
「そうですか。父上たちもみんな揃って移動ですから、護衛は大変そうですね。明日もよろしくお願いします」
まだ本邸の中だから令嬢らしさを取り繕ったままそう言うと、テオドゥロは安心させるように胸を叩いて笑顔で請け負った。
彼の口振りから、おそらく脅迫の件も聞き及んでいるのはわかるが、訊ねたところで返答に困らせることになるのは容易に想像がつく。
大人たちは隠したまま終えるつもりなのだろうかと気にはなっても、それならそれで素直に公演を楽しみにしておくのが
朝食の後は自室へ戻り、さて今日は何をしようかと窓の外を眺めながら思案する。
昨日の失敗が後を引いて、いまいち読書を楽しもうという気分にはなれなかった。明日にはクストディアとも顔を合わせるだろうから、ふたりで話せるタイミングがあればちゃんと謝ろう。
見上げる空模様は薄曇りのままでも、雨の気配はない。
もう庭も乾いている頃だろうし、今日は外へ出てテッペイの強化作業の続きでもしようか。
「――――っ?」
不意に、ぞわりと、首筋が粟立つような悪寒が走った。
小さく身震いをして思わず両腕をさする。袖の下はおそらく鳥肌が立っている。身をすくませていてもそれ以上は特に何もなく、リリアーナはそっと細い息を吐き出した。
<今日は気温が低いようですし、窓辺は冷えるのでは?>
「いや、そういうのとは違う……けど、何だろうな、つい最近も同じことが……。寒気にしては嫌な感じだ。前に街へ出た時にも、こんな風に芯から震える悪寒があったのを覚えているが」
あれは結局、『勇者』が接近していたことと何か関係があったのだろうか。それともヒトは、心胆寒からしめる「怖い」という感情を予感すると、あんな風になるのか。
だが今はサーレンバー領主邸の中で守られているし、明日の公演までは外出の予定もない。狙われる可能性が高いイバニェスの屋敷とは違い、ここにいる限りは誰も手出しはできないはず。
万が一にも、あの『勇者』がサーレンバー領へ近づいているとしたって……
「アルト、もうエルシオンの接近は察知できるのだな?」
<ええ、お任せ下さい。探知不可ならそれを逆手に取り、走査可能範囲の中に精査できないヒトがいれば、それが奴だとすぐにわかります。常にこの敷地内は張っておりますから、何かあればすぐにお知らせいたします>
「うん、任せたぞ」
そこに存在し、体温を発したり呼吸をしている限り何らかの反応が出る。以前のようにエルシオンの肉体や持ち物の詳細を調べることができなくとも、逆にそれができない相手を炙れば、アルトならすぐに見つけ出してくれるだろう。
未だ奴への対抗策は揃っていないものの、いち早く接近を知ることが叶えば準備をするなり、逃げるなり、何がしかの対策が取れる。
前回あんな不覚を取ったのは、エルシオンが急にそばに現れたせいだ。害虫の類よりよっぽど忌々しい。巻き込むことになったカミロとノーアには、本当に悪いことをしてしまった。
窓から眺める光景はいつも通り、何も変わらない。広い中庭には、所々に屋敷の衛兵らしきが見えた。
炭色をした制服はイバニェスの自警団よりもやや装飾性が高く、その腰には細剣などを佩いている。上着がなくて寒くないのだろうかと観察していると、本邸側に立っている年嵩の衛兵が手を振り合わせていた。やはり外は寒いらしい。
「エーヴィ、保温ポットにお茶を入れて持ち出すことはできるか?」
「はい、すぐにご準備いたします。本日は冷えますし、庭でお過ごしになられるのでしたら、甘めのお茶がよろしいでしょうか?」
「ああ、そのほうが温まりそうだな」
「わぁ、ガーデンパーティみたいでちょっと楽しそうですね。でも、エーヴィさんの言う通り今日は風があって寒いですから、しっかりコートも着て温かくして行ってくださいね!」
そう言ってさっそく毛編みのストールや外套を持ってきたフェリバに、いくつも防寒具を着せつけられた。
手袋がミトンの形になっていて細かな作業には向かないが、構成を編む分には関係ないから構うまい。柔らかな手袋をはめられ、何となく手のひら側を見ると、大きさの異なる丸い布が四つばかり縫い付けられている。
「何だ、この丸は? すべり止めの刺繍か?」
「まぁフェリバさん、まさかこれ、肉球ですの……?」
「ふっふっふ、リリアーナ様の猫ちゃんコートの完成度をより高めるべく、縫い付けておきました! 自信作ですよー!」
「肉球? 邪魔になるわけではないから、別に構わないが……」
丸の縫い目はアルトの宝玉入れを任せた時より均一になっていて、裁縫の腕が上がっているのがわかる。
刺繍が足されたところで防寒に支障はないのだし、フェリバたちが楽しそうにしているなら、まぁいいかとリリアーナは肉球つきの手を開閉して感触を確かめた。
敷布にクッションにひざ掛け、それとポットや何やらを詰めた大きめの藤籠。それらを携えたエーヴィ、カステルヘルミと、護衛のふたりを伴って再び庭へ出る。
薄く曇った空は太陽の位置がぼんやりと見て取れる程度で、晴れる気配はない。しっかり着込んでいるため、露出している顔以外は寒さを感じないが、吐き出す呼気は白い。
こういう時、全身くまなく覆われているシャムサレムは温かくて良さそうだなと思いながら、手袋の両手で自分の頬を包んだ。
「……ん? あれは、」
庭へ続くポーチから出る手前、渡り廊下の方から声が聞こえた気がしてそちらを向くと、遠目にブエナペントゥラの後ろ姿が見えた。
何か揉めているようだ、と感じたそばから耳に入る金切り声。相手に有無を言わさぬ強さを持ったその声には、何度も聞き覚えがある。
敷布を広げて支度を始めているエーヴィたちに一声かけて、リリアーナは渡り廊下を駆け出した。
「だからっ、ないわけがないのよ!」
「そうは言ってもな……」
近づくにつれ、何か詰問するような言葉が聞き取れる。重厚な外出着を纏ったブエナペントゥラと、食って掛かるような勢いで言い募るクストディア。その後ろにはシャムサレムの黒鎧も見える。
「あの本だけじゃないわ、お気に入りだったカーマンの詩集だって抜けているし、あんなに大事にしていたジャマン・カティンのペンもインク壷も! かさ張らなくて高価な物ばかりなくなっているのよ、どう考えたっておかしいでしょう!」
「いや、どこか別の場所へしまってあるのかも知れんし、あの本に関しては儂の記憶違いだという、」
「それだけじゃないって私は言っているの! エルシオンの本が最初からなかったとしても、お父様の私物がいくつもなくなっているのは事実でしょう? どうして、わからないの、掃除だけ指示しておいて、何で。……どうせ、なくなったなら買い直せばいいと思っているんでしょう、おじいさまはいつもそう!」
「いや待て、クストディア、儂が悪かった。もう一度ちゃんと探してみよう」
「だから違うのよ、なくしたんじゃなくて、なくなってるの! 小金欲しさに誰かが持ち出したに決まってるわ!」
聞こえてきた会話のあまりの内容に足を止めてしまったが、どう考えてもこんな場所で喚き散らす話ではない。
虚実がどちらであれ、下手をすれば領主家の醜聞だ。見かねて大きな背に向け声をかける。
「ブエナおじい様。それ以上は場所を変えた方がよろしいかと」
「おお、リリアーナか。だが儂は、これからすぐに出なくてはならん用事があっての……」
「え? ですが、あの、漏れ聞こえたお話からすると、調査なり追跡なり、なるべく早急に手を打った方が良いのでは?」
「そうは言ってもなぁ、本当に持ち出されたのかもわからん状態では」
「こんな……、こんな物を知らない子どもでもわかるようなことが、どうして……っ! もういい、おじい様には何も期待していないわ。どこにだって行けばいいじゃない!」
そう言い捨てて、髪と長い裾を翻したクストディアは廊下を駆けていく。
「待ちなさい、クストディア!」
それを引き留めようと手を伸ばした老人が杖をつき損ない、踏み出した一歩目でよろめいた。慌てて体を支えようとしたが、体格が違いすぎて役には立たない。
結局自分の足で姿勢を持ち直したブエナペントゥラは、上体を屈めたまま苦しげに息をついた。
「お体に障ります。彼女のことはわたしが追いますから、どうぞお仕事へ向かって下さい」
「すまんなぁ、リリアーナ……。こんなはずでは……」
背を撫でてやると、掠れた声が返る。大柄な老人が一回り小さくなったように思えた。
ブエナペントゥラにも言いたいことはいくつかあるけれど、落ち込む彼に追い打ちをかけるようで躊躇われるし、今は何よりクストディアを追う方が先だ。
少し離れた場所に佇んだまま手を出しあぐねていた様子の従者に後のことを任せ、リリアーナは少女が駆けていった方向へ走り出した。
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