第226話 さがしものは何ですか


 書斎に並ぶ書架はいずれも背が高いため、上ばかり見上げていて首が痛くなってきた。

 少し離れて眺めれば首の角度も緩くて済むが、もうこのあたりまで来ると、年代も傾向も異なっていて探し物はありそうにない。

 見上げるのをやめて凝った首をぐるりと回し、深く息をつく。始めから期待は薄かったとはいえ、手掛かりがあまりに少なすぎた。

 リリアーナは本の捜索を諦め、辺りを見回して手伝いを頼んでいた女魔法師の姿を探す。


「カステルヘルミ、どこだ?」


「あ、お嬢様、もうそんなに先まで進んでいらしたのね。わたくしまだここですわ~」


 声を頼りに隣の列へ出ると、本棚ふたつ分ほど前に佇むカステルヘルミが手を挙げていた。


「もうこの辺になると年代も古いし、やはり書斎には置いてないのだろう。付き合わせて悪かったな」


 自分と同じように首の後ろを揉んでいる女を促し、読書用の机が置かれたスペースへ出る。ゆったりとした椅子に並んで腰掛け、頭の位置まである背もたれに楽な姿勢で寄りかかった。


「せめて題名だけでも聞き出しておくべきだったな、失敗した。名前も表装の特徴もわからないのでは、探すにしたって手掛かりがなさすぎだ」


「お嬢様が言っていらした、タイトルの書かれていない黒い本と手帳らしいものもありませんでしたわね。領主様へ訊ねにくいのでしたら、あの日、わたくしたちよりも後に書斎を利用した方を探してみるのはいかがかしら?」


「いや、ここは鍵もかけられていないし、人通りのないフロアだから屋敷に出入りすることさえ可能なら、誰でも人目を忍んで書斎へ入ることは可能だろう。まぁ、いずれも他人の本だ、わたしがどうこう言えるものでもないのだが……稀覯本にしろ手帳にしろ、目の前に餌をぶら下げてから取り上げられたようで、何だか気分が悪いな」


 皮張りの椅子は表面こそ硬めだが、体重をかけた分だけ体が沈み込む。なかなか居心地が良い。

 疲れた首を預けたまま、リリアーナは天井を仰いで目蓋を閉じた。


 今日の朝食に遅れてやってきたブエナペントゥラは、いつもに増して何やらせわしない様子で、食後すぐにも面会の約束があるという。それほどまでに多忙な中、老人は従者を背後に待たせたまま朝食後にリリアーナを呼び止めた。

 てっきり、例のエルシオンの伝記が見つかったという知らせかと思ったのだが、話を聞いてみれば実際はその逆だった。


「……というわけでな、期待を持たせておいてすまん。たしか懇意にしとる商人から譲ってもらったと喜んでおった覚えはあるんだが……もう二十年も昔のことだからな、儂の記憶違いか、もしくは部屋ではなく書斎の方に置いてるのかもしれん」


「あれはクラウデオ様が入手された当時から貴重な本だそうですから、あまり他人の手にふれる場所へ保管するとは……」


「まぁ、リリアーナも勤勉なのは結構だが、きっと先に読んでいないほうが楽しめるはずだ、うむ」


「え?」


「もう明後日だろう。今回の公演はクストディアも楽しみにしておったんだ、三年前は色々とあって観劇どころではなかったからなぁ。リリアーナもそこまで好きだと言うならなおさら、おかしな者に邪魔なんかさせてたまるものか。ちゃんと上演させるから、楽しみに待っておれ」


「え、あの、一体何の話で……」


 呼び止める声も間に合わず、従者に急かされたブエナベントゥラは言いたいことだけ言うと、「また夕飯の席で」と手を振りながら食堂を去って行った。

 サーレンバー領へ来た目的のひとつでもある、歌劇の公演が明後日に迫っていることは知っていたが、それがクラウデオの蔵書とどう関係するのか。せっかくブエナペントゥラと話せたなら小屋のことやアントニオとの面識、それと資料室で見つけた手帳の件も訊いてみたかったのに。あそこまで多忙なら日を改めるより他ない。

 立ち話をする間にファラムンドたちの姿もすでになく、どこか釈然としない気持ちを抱えたまま自室へ戻ることになった。


 その後、念のためと思って今日も書斎へ足を運び、カステルヘルミに手伝ってもらいながら目当ての本……と、ついでに隣の資料室から消えた手帳を探していたのだが、やはりここにはないようだ。クラウデオが手にした稀覯本まで、一体どこへ行ってしまったのだろう。


「エーヴィさんにお願いして、こちらのお屋敷の使用人伝いに、いつ誰が書斎の掃除へ入ったのかを聞き出してもらうのはいかがでしょう?」


「うーん、あまり間諜紛いのことをさせるのも気が引けるが……。ブエナ氏に直接訊ねるよりは、そのほうが波風立てずに済むか」


 カステルヘルミの提案にそう応えて隣を見ると、物言いたげな視線と目が合った。


「何だ?」


「お嬢様って突然とんでもない事をしたり言ったりする割に、じゃなかった、そのお立場の割に、気遣いなさるタイプですわよねぇ」


「つまり、何が言いたいんだそれは」


「いえ、特にどうという訳では。ただ、貴公位の家のご息女ですのに、使用人とか身分が下の人間のこともきちんと考えて気遣うじゃありませんか。賢くいらっしゃいますし、もっと気位が高くてもおかしくないのに、何だか不思議だなと思いまして」


<リリアーナ様の気質というものでしょうなぁ。ご身分が高いからこそ、下々の者を目にかける義務があると思っていらっしゃる節が>


「なるほど、持ち得る者の義務とかそういう……ご立派ですわ~」


「別に、そこまで大それたことを考えているわけじゃないが。クストディアのように我が侭放題するよりはましだろう」


 度々、気を遣いすぎだというようなことを指摘されるのは、統治者でいた頃の感覚が抜けていないせいだろうか。

 口調や振る舞いなど、素のままの自分でいることを父や周囲の皆に許容してもらっているが、未だに境界はよくわからない。『デスタリオラ』の意識を持つ自分と、『リリアーナ』である自分。令嬢らしさの演技なら、だいぶ慣れてきたけれど――……


「あら? ノックの音かしら、ちょっと出てきますわね」


 考え事をしていたせいか、叩扉の音を聞き逃した。

 顔を上げたカステルヘルミは断ってから席を立ち、入口に歩み寄る。そして細く開けた扉の向こうと二、三言交わし、こちらを振り向いて扉を押し開けた。

 開いた隙間からのぞく丸い顔。その体は中央部分しか見えていないが、遠目にもわかる体形だけで、来訪者が誰なのかは明らかだ。


「何だ、アントニオではないか」


「お嬢様、中へお招きしてよろしいかしら?」


「ああ、ちょうど良い、少し訊きたいことがあるのだが……」


 カステルヘルミが開いた扉から転がるように入室すると、少年はそのまま小股に歩く足をもつれさせ、止める声をかける間もなく派手に転ぶ。真正面から腹を打ち付けるように倒れた、あれは相当痛いだろう。


「だ、大丈夫か……?」


「う、うぐ、ごめんなさいぃぃぃ!」


「謝る必要はない。立てるか、怪我は?」


 近寄ってそう声をかけると、アントニオは倒れたまま顔を上げ、涙声で謝りながら泣いてしゃくりあげるという器用なことをした。

 どうしたものかと顔を見合わせたカステルヘルミが、そばに屈み込んで背を撫でてやる。手を貸そうにも重量のあまり引き起こすのは無理らしい。なだめながら何とか上体を起こさせるが、アントニオは床に手をついて座り込んだまま泣き続けている。

 顔は打ち付けなかったのか、見たところ怪我はしていないようだ。ずっと鼻声で謝っているようだが、何に対しての謝罪なのかさっぱりわからない。


「そう泣いてばかりではわからん。どうしたんだ一体?」


「ううう、ずいまぜん、ごめんなざいぃぃ……」


「何かあったのか? ゆっくりでいい、話してみろ」


 少年はポケットから大判のハンカチを取り出すと、自分の顔に流れる水分へ当てるようにして丁寧に拭った。何だか妙なところで育ちの良さがうかがえるなと、リリアーナは感心しながらそれを眺める。


「ぼ、僕、約束、したのに……持ってこられなかったです、ごめんなさい……」


「約束、……というと。あぁ、公演のパンフレットか」


 そこまで待ち望んでいた品でもないし、入手できなかったなら別に構わないのだが。

 ただ、約束をしておきながら、まるで期待していなかったようにそう伝えるのもためらわれて、かける言葉を探す。


「あまり気にするな。公演自体を楽しむから、手に入らなかったなら構わない。お前には手間をかけたな」


「うっ、ううううう、ごめん……。買ってくるって、僕が言ったのに。いま、劇団の人みんな怖くて、声がかけられなかったんだ……」


「怖い?」


 ようやく落ち着いたのか、アントニオは座ったまま居住まいを正し――立ち上がる気はないようだ。――几帳面に畳んだハンカチをポケットにしまい込んで、こちらに顔を向けた。


「こっそり様子を見てたから、ちょっとだけ話が聞こえたんだよ。何だか、劇団の人たちがバタバタしてて。今も下に、団長さんが相談に来てるみたいだけど……明後日からの公演、中止しろって、脅迫受けてるんだって……」


「脅迫?」


 口元に手をあてたカステルヘルミが目を丸くする。確かに聞いたのだと何度もうなずいて見せるアントニオだが、それ以上詳しいことは知らないようだ。

 何にせよ、穏やかではない。有名な歌劇団らしいし、今は領外や中央からも公演目当ての旅行客が多く訪れていると聞く。もし中止になんてなったら、自分などが想像するより遥かに大ごとになるだろう。


「……あぁ、だからブエナ氏も、公演を邪魔なんてさせないと言っていたのか。朝から妙に慌ただしかったのもそのせいかもしれんな」


「お嬢様、でも、危険があるようでしたら……」


「うん。もちろん無理に公演へ向かうようなことはしない。ブエナ氏も対応をしているようだし、当日どうするかは父上の判断に任せよう」


 問題は、自分よりもずっと公演を楽しみにしていたらしい、クストディアがどう出るかだ。

 もし彼女がどうしても観劇したいと言って聞かなければ、ブエナペントゥラは無理を通してでも上演させるのではないだろうか。危険性は脅迫の内容と、その相手にもよるだろうが……。


「領の産業として大勢が関わっているようだから、さっさと犯人が捕まって、無事に公演できるのが一番だな。アントニオもご苦労だった、パンフレットのことは気にするな」


「う、うん……」


「それで、この件はもうクストディアへ伝えたのか?」


「ま、まだ……言えないよ、パンフレット持ってこられなかっただけでも、怒られるのに、脅迫受けてて、公演が中止になるかもなんて……っ、ヒィ!」


 苛烈な少女の怒りを想像したのか、少年は大きな体をぶるりと震わせた。


「脅迫の件は不確定だ、何もお前が伝える必要はなかろう。……そうだな、ちょうどクストディアとまた話したいと思っていた所だし、パンフレットのこともわたしが代わりに伝えておいてやる」


「えっ!」


 そう申し出ると、アントニオは床に座ったまま飛び上がるように縦に動いた。慣性によって全身の肉がたぷりと揺れる。


「部屋に行く口実ができたから、わたしにとっても都合が良い。安心しろ、上手いこと伝えておいてやる」


「あ、あり、ありがとう……ごめんなさい」


「そういう時は、礼だけでいい。わざわざ伝えに来てくれた分のお返しだ」


 こうしてアントニオから話を聞かなければ、おそらく自分の耳には入らなかった類の情報だから、伝えてくれたのは素直にありがたい。もうすでに事のあらましを知っているとなれば、もしかしたらファラムンドたちも何か教えてくれるかもしれないし。

 まずは外の話に明るいレオカディオに訊いてみるべきだろうか、それともキンケードに話をつけるのが先か。リリアーナがそう思案していると、アントニオが上着の内ポケットから別のハンカチを取り出し、恭しく差し出した。


「あ、あの、これ……。前に借りたハンカチ、あの、ちゃんと洗ってもらったし、アイロンもかけたから、綺麗だから」


「ん? あぁ、そういえば貸していたな」


 額の怪我を手当てした時に、持っていたハンカチで血を拭ったのだった。アルトの入っているポシェットにそれをしまうと、アントニオはまた謝りかけた言葉を途中で飲み込み、「ありがとう」と礼だけを呟いた。


「転んでばかりでは生傷も絶えまい。お前は巨躯のわりに足の筋肉が弱いようだから、もう少し足腰を鍛えたほうが転びにくくなると思うぞ。……っと、それとは全く関係ない話だが、この書斎で『勇者』エルシオンにまつわる本を見かけたことはないか?」


「え、あ、足……え、エルシオン? ううん、彼の冒険の本は、なんか、出しちゃいけないって、王室からお達しが出てるそうだから……いくらこの書斎でも、置いてないと思う」


「そうか……。うん、ならばいいんだ。色々と手間をかけたな」


 労いの言葉には首を振り、自力でゆっくりと立ち上がったアントニオは何度か頭を下げると、今度は慎重さを感じさせる足取りで書斎を出て行った。

 何かと謝ってばかりの慌ただしい少年だが、ああして気をつけて歩いていれば妙な貫禄がある。やはり体の大きさは重要なのだなと、リリアーナは丸い後ろ姿をしみじみと見送った。

 隣ではカステルヘルミが頬に手をあて、物憂げなため息を吐いている。


「劇団を脅迫だなんて、嫌ですわねぇ。何が目的なのかしら?」


「さあなぁ、一体どんな利害が絡んでいるのやら、迷惑この上ないことだ。ひとまず、このあと先触れを出したら午後はまたクストディアの部屋へ向かうとして……」


 そこでひとつ思い出したことがあり、ちらりとカステルヘルミの顔をうかがい見る。


「……実は、次に訪問する時は手土産を持参すると言ってあるのに、まだ何も用意していないんだ」


「まぁ、そうでしたの。急に決めたことですものね。今から用立てるにしても、生半可な物では逆に怒らせてしまいそうですし」


「ああ。だから代わりに、彼女が会いたがっていた人物を連れていこうかなと、今、思いついたわけなんだが」


 それだけでリリアーナが何を言いたいか察したのだろう。カステルヘルミは一度目を丸くしてから小さく噴き出し、快く同行の了承をしてくれた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る