第220話 おはなしのあとに


 手早く訊きたいことだけ聞き出したら帰るつもりでいたのに、意外な長居となってしまった。

 使っていたクッションやストールを元の位置に戻し、レオカディオと揃ってソファから立ち上がる。


「話に興が乗ったせいで、すっかり居座ってしまったな。そろそろ失礼しよう」


「全くね、図々しいったらないわ。次は面倒な置物は持ち込まないでちょうだい」


 それは、またここへ来ても良いという誘いの文言だろうか。だがそれを口に出して問えば、そんなことは言っていないと怒り出す気がしたので、素直にうなずくに留めた。


「うまい香茶を馳走になったからな、次の機会があれば、わたしの方から何か茶菓子でも持ってこよう」


「ふん、片田舎の泥臭いお菓子なんていらないわよ。私がそんなもの口にするわけないでしょう、余計なお世話だわ」


 気兼ねなく手ぶらで来るといい、と言っているような気がするけれど、再び黙ってうなずいておいた。

 扉まで案内するためか、シャムサレムがソファを回り込んで先導に立つ。相変わらず主の方は見送りなどをする気はないようだ。

 とはいえ、それに倣って作法を無視するほど礼儀知らずではない。香茶でもてなされた上、話にも付き合ってもらった手前、自分からはきちんとクストディアへ向けて退室の礼をした。そして黒い背の後について調度品や紙箱の間を進む。

 いくつものソファセットと出入り口を結ぶ経路は複数あっても、常日頃ここを歩いている黒鎧はちゃんと道筋を覚えているようだ。

 迷路じみた細い隙間を、かさ張る甲冑姿で歩くのは不便ではないかと最初は思っていたものの、部屋を使っている本人たちがこれで良いなら部外者である自分がとやかく言うつもりはない。

 せめて未開封品は中身を出してみれば良いのにと思いながら、居並ぶ木箱や紙包みを眺める。すると、すぐ後ろから間延びしたあくびが聞こえてきた。


「レオ兄、さっきは眠っているように見えたが、ずっと起きていたのか?」


「いや、リリアーナたちが本の話をしだしてから、しばらくうとうとしてたよ。まさかクストディアの部屋でうたた寝するなんて、自分でも信じらんない……」


「連日出かけていたようだし、疲れも溜まっていたのだろう。……もしかして、わたしがのぞき込んだ時にはもう起きていたのか?」


「まぁね。カラスがどうこうって言ってる辺りに目が覚めたんだけど、寝たふりは得意なんだ、わからなかったでしょ?」


 どこか得意げに声を潜めて笑うレオカディオを、歩きながらちらりと振り返る。そういえば街の路地裏で、カミロも同じようなことを言っていた気がする。習得しておくと役に立つ技術なのだろうか。


「寝たふりが得意だと、何か利点が?」


「別に便利ってわけでもないけど、小さい頃から練習してたんだ。もしも誘拐された時にさ、気を失ったふりして、油断した相手の会話を盗み聞いておけば、救出された後に犯人を捕まえる役に立つかなーとか思って」


「ずいぶんと限定的な……。まさか、誘拐されるような身の危険がこれまでに?」


「いや、今のとこ何もないよ。僕らみたいな立場の子どもは、身代金目当ての誘拐とかって定番でしょ。と言ってもリリアーナは攫われた時点でもうダメだから、寝たふりとか覚えても無駄だけど」


「だめ? 命がないということか?」


 一度足を止めて振り返ると、レオカディオは頭の後ろで手を組んでいた。わずかに目を丸くしてから、上半身ごと首をかしげて見せる。


「そういうんじゃなくって、女の子はダメなんだよ。どこかに攫われて、何があったかわからない状態に陥っただけで、たとえ無傷で救出されても『キズモノ』扱いされちゃうし。それがなくてもリリアーナは普段から危なっかしいんだから、もっと色々と気をつけてほしいんだけどねぇ」


「身の安全には気をつけているとも。自分に何かあれば、周囲に心配をかけると痛感したばかりだ」


「とか言いながら、出されたお茶をほいほい飲んだりして。あの場で毒なんて盛られるはずないとか、言ってることはもっともだけどさ。本でも飲食物でも易々と釣られちゃう妹の今後が、お兄ちゃんは心配でしょうがないよ……」


 尤もらしく心配を見せるレオカディオだが、その顔は仕方ないなと言うように笑っていた。半ば冗談なのだとわかってはいるが、この次兄の物言いはどこまでが冗談なのかわかりにくい。


「……わたしは別に、物に釣られたわけではない。あの時は、お茶に手をつけないと上手く話が進まないような気がしたんだ。口に合ったのは事実だが」


「リリアーナのそういう素直なとこは美点だと思うけど、今後は屋敷の外で他人と接触する機会も増えるんだからさ。誰にでも気を許しすぎるのは、もう少しどうにかしたほうがいいよ。クストディアの親族の子とも仲良くしてるらしいじゃない?」


「兄としての忠告というやつか」


「どっちかっていうと、領主の子として何年か長く生きてる先輩としての助言だよ」


 レオカディオはすれ違い様にそう言いながら、少し先で足を止めて待っているシャムサレムの元へ歩いて行く。

 親族の子というのは、書斎へ向かう途中で遭遇したアントニオのことを言っているのだろう。あの場には信頼できる侍女や護衛ばかりだったし、付近にヒトの気配もなかった。一体誰から話を聞いたのか、思い当たるところがない。

 ふたりの後について廊下へ出ると、扉を閉める間際、シャムサレムが軽く頭を下げた。振り返った自分しかそれを目にしていないだろう。隣のレオカディオは肩や首を回しながら「座ってただけなのに疲れたー」とぼやいている。

 サーレンバー領へ来てから毎日予定を詰め込んでいる様子だが、今日も午後からどこかへ出かけるのだろうか。

 ……それを訊こうとして顔を上げると、ちょうどレオカディオと目が合った。口元を緩めるだけの静かな笑み。珍しい顔をしている。


「一度ちゃんと訊いてみたかったんだけど、リリアーナはどっち派なの?」


「どっちとは何のことだ」


「アダル兄と僕、どっちが父上の後を継げばいいと思ってる?」


 ふたりの兄が試されている期間だということは知っていたが、アダルベルトと違って普段あまり仕事の話を口にしないレオカディオが、直截にそんなことを訊いてくるのは意外だった。

 さきほどクストディアに言ったことを聞かれていたようだし、何か思うところでもあったのだろうか。


「跡継ぎを決めるのは父上で、」


「僕はリリアーナに訊いてるんだよ。君自身がどう思ってるのか」


 廊下を歩きだそうとしないのは、この問いに答えるまで戻らないという意思表示にも見えた。いつも真面目な話は煙に巻いてなあなあで済ませてしまうレオカディオにしては珍しい。末娘で未だ幼く、何の権限も持たない自分にそれを訊いたところで、何の足しにもならないだろうに。


「……個人の所感で言えば、どちらが継いでも優れた領主になるだろうなと常々思っている。だからどちらが良いとか、片方を応援するとか、そういうのはないな。ふたりは得意な分野が異なるようだから、結局は父上が何を重要視するかという、判断基準の置きどころ次第ではないか?」


「ふぅん。本当にどっちでもいいの?」


「ああ。能力や素質ならどちらも向いていると思うから、あとはやる気次第というか。父上やブエナ氏を見ていても、領主の職務は重圧が大きく、己の存在そのものが『領主』という肩書と結びついてしまう大変なものだというのがわかる。本人に務め上げようという強い意志がなければ、とても続かないだろう」


「ふーん、リリアーナも意外とちゃんと見てるんだね」


 思うことをそのまま告げただけだが、こちらの回答に満足したのか、レオカディオは軽い足取りで廊下を歩きはじめた。

 その後ろ姿を追いながら、気になっていたことを投げかけてみる。


「わたしからもひとつ訊きたい。先ほどは、わざとクストディアを怒らせるようなことばかり言っていたのはどういうつもりだ? レオ兄は対話に慣れているのだから、何を言えばどう思われるかの判断は、わたしなどよりよほど熟達しているだろうに」


「別に、そのまんまだよ。怒らせて遊んでただけ。ふたりの話を邪魔して悪かったよ」


「……レオ兄のその口の悪さと人を食ったような態度で、誰かから無駄な恨みを買いはしないかとわたしも心配だ」


「あははは、だーいじょうぶだって。相手はちゃんと選んでるから」


 悪びれた様子もなくそんなことを言いながら、レオカディオは振り返りもせずのんびりと歩く。少し横になったお陰か、もう頭痛は治まったようだ。

 長い廊下の先では、このフロアまでついてきた護衛たちがこちらを向いて立っている。滞在時間はクストディア次第とは思っていたが、想像よりずっと長く待たせてしまい悪いことをした。フェリバたちの話し相手になるように、またカステルヘルミも連れてくれば良かったかもしれない。

 何もなかったことを示すために軽く手を振って見せると、フェリバが両手を大きく振り返して隣のテオドゥロにぶつかっていた。


「……さっきの、母上の話だけど」


「え?」


 不意に、歩きながら聞こえた声に問い返し、足を速めてレオカディオの横に並ぶ。


「さっきクストディアと話してたでしょ、母上のこと。……昔、僕が生まれてすぐに描かれた絵があるんだ。以前は食堂の正面の一番いい場所に飾られてたんだけど、五年くらい前かな、急に外されちゃって。きっと父上が自分の部屋に置いてるんだと思う」


「そうだったのか。屋敷のどこかにはあるだろうなと思っていた。そのうち機会があれば見せてもらおう」


「それだけ? まさか姿絵も見たことないなんて知らなかったから、さっきは驚いたよ。普通は顔ぐらい見たいでしょ。母上のこと、全然気にならないの?」


 口調はいつも通り軽いものの、こちらに向けられるレオカディオの目は真摯なものだ。「普通」と言われても自分の状態があまり普通ではないため答えに窮するが、正直に言えば母親のことはあまり気にならない。

 最近、サンルームにいると皆が懐かしそうな目をするから、どんな女性だったのだろうと思うことくらいあるけれど。

 生まれて間もない、視界も言葉も覚束ないような頃から記憶がはっきりしているのに、母の顔は一度も見たことがない。そのことに気づいたのは、わりと最近のことだった。状況把握に必死だった赤子の頃、自分のそばにいたのは乳母と侍女だけ。

 出産直後の母体はとても遠出できるような体調でないことを知っている。……だから、つまり、「いなくなった」というのは、そういうことなのだろう。誰も何も言わないけれど。


「……そうは言っても、会ったこともない相手だからな。産んでくれたことには感謝しているが。何というか、……不足を感じないから。わたしには父上がいて、兄がいて、カミロや侍女たちも良くしてくれるし。だから今まで母恋しさというものを感じたことがないんだ。これは不幸なことではなく、とても幸福なことだと認識している」


「いや、そう言われると、僕なんかもう何も言えないけど……」


「おそらく、母を知らないからこんな風に思うのだろう。幼い頃に別れたレオ兄は、やはり寂しいか?」


「……そうだね。背が伸びて顔立ちもどんどん似てきたから、朝の支度で鏡を見るたびに母上を思い出すよ」


「では成長したレオ兄を見れば、絵がなくとも母がどんな顔をしていたかわかるな」


 冗談めかして言った言葉に兄が噴き出し、破顔する。

 顔立ちがレオカディオに、雰囲気が自分に似ていたという女性。頭の中だけで何となく想像するその面影は、既知の相手と少しだけ似ていた。


「じゃあ晴れて十五歳になった暁には、お化粧してドレスでも着て見せようか。とびっきりの美人に仕上がることを約束するよ、何ならリリアーナよりも綺麗になっちゃうかも」


「うん、レオ兄ならきっと誰より麗しい姿になるだろう」


「……。リリアーナ、男に生まれなくてよかったね、ほんとに。女心とか駆け引きの機微とかさっぱり理解しない、人たらしのろくでなしタイプだ、絶対」


 唐突にすとんと笑みを消した兄から、何だかよくわからない罵られ方をした。


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