第214話 note


 閉じた本を左側に重ね、積み上げてある本からまた新たな一冊を手に取る。

 回転が速いなら本棚の前で立ったまま読んでしまう、生前のような読書スタイルのほうが効率は良いのだが、今の体では重みのある本を片手で支えていることが難しい。そのため一抱えずつ机に運び、ちゃんと座って目を通すことにした。

 今読んでいるのは比較的新しい本の詰まった棚だから、持ち運んでも表装から本文が抜けてしまう心配はない。ただ机までの往復が面倒なのと、力が弱いため一度に十冊も運べないのが難点だ。

 手にしていた一冊を読み終えると、右側に積んでいた未読の本がいつの間にか最後の一冊になっていた。


「そんなに早くお読みになられて、書いてある意味はおわかりになりますの?」


「まぁな。内容を頭に入れるだけなら一文字ずつ追う必要もない。普段だったら、もったいないからこんな読み方はしないが、ここに滞在できる時間が限られている以上、帰るまでになるべく多くの本へ目を通しておきたいんだ」


 アントニオが資料用の書斎と言っていた通り、一番手前の部屋には古い文献や近隣の土壌調査の歴史など、読み応えのある資料がたくさん揃っていた。いずれもサーレンバー領所縁の本だから、イバニェスの屋敷では読むことのできないものばかりだ。

 この機会に役立ちそうなものは粗方読んでしまおうと、気になった本を片っ端から机に積み上げて目を通している。

 一緒についてきたカステルヘルミは、隣の書斎から何か物語の本を持ってきたらしい。まだ読み終えた様子ではないから小休憩だろう、こちらが本を閉じるタイミングを待っていたように声をかけてきた。


「もったいない、ですか? でもそれだけ早く読めるなら、その方がよろしいのではなくて?」


「これは知識を得るだけの読み方だからな」


 残った一冊を手に取り、表紙と目次をめくる。様々な岩や砂について詳細に記した解説書のようだ。


「物語なら描写されている情景を脳裏に描くし、台詞から心情を推し測ろうと自分で考えてみたりもする。辞典や図鑑の類なら自身の知識と照らし合わせたり、挿絵の妙を楽しんだり。こういう解説書なら理解を深めるために前提との比較検証をしたりと、本を読む上での楽しみ方は色々あるだろう?」


「はぁ……」


 具体例を挙げてみたのだが、いまいち伝わりにくかったようでカステルヘルミは生返事を返した。噛み砕いた説明をするよりも、身近な例え話のほうがわかりやすいだろうか。


「例えば、食事だって同じだ。栄養を摂取するだけなら、口に入れて飲み込めばそれで済んでしまう」


「あぁ、せっかくのお料理なら、お味や香りも楽しみたいということですわね、なるほど!」


 手のひらを合わせて納得顔の弟子へうなずいて見せて、再び紙面に目を落とす。

 ぽつぽつと窓を叩く雨粒の音は止む気配がない。長雨の季節は過ぎたから、そう何日も続くことはないと思うのだが、晴れるまでは屋外での作業も見合わせだ。

 まだ動作テスト中だった甲冑……テッペイのことも気掛かりだが、最後に酸化防止の保護をかけてきたから湿気で錆びることはないだろう。

 せめてもう少しきりの良いところまで仕上げてしまいたかったけれど、突然の雨では仕方ない。また分解して部屋まで運ぶのが手間だったので、庭先の林に立っている物置小屋の中に、支柱と台座ごと置いてきた。雨が上がっても地面はぬかるんでいるから、作業の続きは数日先になってしまうだろうか。


「テッペイさんが気掛かりですの?」


「ん? ああ、もう少し作業を進めておきたかったと思って。あの物置小屋を借りていると、後でブエナ氏にも伝えておかねばな」


 窓の外へ向けた視線だけで、何を考えているのかは筒抜けだったのだろう。カステルヘルミの言葉に応えてから再びページをめくる。



 昼食を終えて庭で作業を再開した時、朝よりも雲が厚くなっていると気づいていた。

 だが、いざ手を動かし始めれば他のことは頭からすっぽ抜けるたちだ。キンケードの「こりゃあ、ひと雨くるな」という言葉に顔を上げた時にはすでに曇天に覆われ、間もなく頬にぽつりと水滴が落ちてきた。

 本降りになる前に急いで片付けて、小屋にテッペイと道具をしまい込み、別棟へ駆け込んだ時にはみんな肩が濡れてしまっていた。

 好天が続いた中に、よりにもよって今日。そんなぼやきを漏らしたくもなるが仕方ない。通り雨という様子でもないため作業の続きは諦め、一度着替えてから午後は読書をすることにした。

 朝はあれだけ晴れていたというのに、空模様とヒトの感情だけはどうにも読めないものだ。

 すべらかな紙の質感を指先に感じながら、次々と頁をめくる。

 読書の環境音としては、雨音は嫌いではない。さぁさぁと降り注ぐ水の音を耳に入れながら、解説書の内容を目に映す。



 他よりも少し厚みのある本で読み終わるのにしばらくかかったが、内容は既知の事柄ばかりだった。

 魔王城の地下書庫でそれなりに知識を蓄えた身だ、そういうことはままある。未読の本はまだたくさんあるのだから、次の本に期待しよう。

 本を閉じて顔を上げると、カステルヘルミは食い入るようにして持ち込んだ本を読んでいた。ここまで夢中になるなら余程面白いのだろう、後で自分も借りて読んでみよう。そんなことを考えつつリリアーナは音をたてないよう椅子から腰を上げ、積み上げていた読了済みの本を抱えた。


 元の棚に本を戻し、一歩引いて眺める。採石場関連の本には、粗方目を通しただろうか。

 石材加工に関する技術書や指南書、乾いた土地に向いた耕作や農作物などについての本も色々なものが揃っている。そうした実用書の他にも多様な資料が並び、有益だと思えるものには大抵何度も開いた痕跡が見られた。

 歴代のサーレンバー領主たちが何に興味を持ち、どんな知識を欲したのかがこの書架を見ているとよくわかる。

 これだけ豊富な蔵書を取り揃えながら、最近は利用者があまりないというのは本当に残念でならない。分類別に整頓された棚を前に、横歩きをして居並ぶ本の背表紙を眺めていた。


「……ん?」


 重厚な歴史書の並ぶ棚の一角、掠れたその文字がふと目についた。

 ぎっしり詰まっているせいで本の間から引き抜くのに苦労した一冊の本。他のものに比べると頁数が薄く、表装も必要最低限のシンプルなものだ。


<『精霊考察』ですか。所詮ヒトの書いた本ですから、あまり内容は期待できませんな>


「まぁ、今さら聖王国こちら側で精霊に関する未知の情報が出てくるとは思っていないさ。ただ、聖堂関係に秘密が多いから、何となく精霊についても詳細なことは本に記してはいけないのかと思っていた」


 薄めの本だから片手でも持てる。その場で開いて、本文に軽く目を通す。

 題名通り、著者の個人的な見解を述べただけの内容らしい。正解や真実を求めるでもなく、こういう現象が起きるから自分はこう思う、というようなことを様々な例を挙げながら並べている。視点が多角的であり、個人による思考実験の読み物としてはなかなか面白い。

 奥付を開いてみると、今から五十年ほど前に出版されたものらしい。内容的にはどちらかというと、ひとつ隣の物語を集めた書斎に置くべき本のような気もする。

 元の場所に戻そうとして、その隣の本には背表紙にタイトルが書かれていないことに気がついた。『〇三一』と刻印された数字だけが見える。剥げたり掠れたりしたのではなく、元から題名はないようだ。

 何となく興味を惹かれて本棚から引き抜こうとすると、その拍子に薄い冊子が棚から抜け落ちた。床へ落ちる前に慌てて空いているほうの手で受け止める。


「っと、危ない。……やけに薄いな、これも本なのか?」


<中身は印刷されたものではないようですね、手で書かれた文字が並んでいます。誰かの手記でしょうか?>


「ふぅん、書き写していたノートか何かが紛れ込んだのかもしれんな」


 紐の栞が綴じ込まれた、少し大きめの手帳のようだ。市販品らしいが表紙には何の記載もない。

 ほんの興味本位で中程を開いてみると、几帳面な細い字が並んでいる。何となく、その筆致にはどこかで見覚えがあるような気がした。

 止めに少しだけ力が入る、繊細で流れるような筆記。一体誰の字だったろう。個人の書き文字などそう目にする機会はない、となると相手は限られるはずだが……


「――……」


<リリアーナ様?>


「……あぁ、うん。これは、」


 記された文章に気を取られるあまり、空返事になる。目にした内容を反芻し、一度閉じてちゃんと表紙側から開き直す。

 内容は飛び飛びになっているし、全く関係ない用件のメモなども散見するから、その時思いついたものを書き留める用途で使われた個人の手帳なのだろう。

 おそらく他人の目にふれさせるつもりもなかったはず。どこにも持ち主の名前は見当たらない。

 最初の方は何気なく綴った手記にも見えるが、途中から記される内容がひとつのテーマに絞られていく。


「これは、もしかして、精霊教の研究……なのか?」


 交易で訪れた中央の商人の噂話、聖堂の官吏から世間話交じりに聞き出した話、人伝てに入手した古い文献からの考察。そういった部品のような情報が、項目ごとに細かく書き留められている。


「一体誰が、こんな……」


 内容を頭に入れるのもそこそこに、ページを飛ばして一番最後に書かれた部分を開く。

 まだ後ろに白紙は残っている、次の手帳に移るためそこで中断したのではないはず。

 したためられた最後の記載は、聖堂で行われる五歳記の祈念と、そこで子どもに唄わせている聖句についての考察。


『大精霊の像に向かって唱える、生誕と無事の成長の感謝を捧げるための聖句。五歳、十歳、十五歳の区切りに聖堂で行われる祈念式。貧しい家の子も貴公位も、王族すらも一律にこの行事が義務付けられているが、ほんの百年も遡ると、こんな決まりはどこにもなかったことがわかる。あるとき突然普及しだして、今では何の疑いもなく、アグストリア聖王国内ではそれを行うのが当然になってしまった。一体誰の思惑で、何のために?』


 手記はそこで終わっていた。

 不意に背中を柔布で撫でられたような、寒気を伴う震えが走る。

 聖堂と聖句について、自分以外にも疑問を覚え、調べている者がいた。同士の見解をこうして読むことができるのは喜ばしいはずなのに、何だろう、この妙な不安感は。期待や嬉しさを上塗るように、仄暗い靄のような嫌な感じがべたりと貼り付く。


 もう一度表紙からぱらぱらとめくって、どこにも持ち主の名前がないことを確かめ、元あった場所に差し込んだ。

 そして先に引き抜こうとした、タイトルの記載のない本を手に取ってみる。表紙を開いた部分に題名が記載されていた。

『中央聖堂便覧〇三一』

 開いてみると、中身は過去に聖堂内で回覧された連絡文書などをまとめたものらしい。当時の要職者たちの名簿まで載っている。ざっと目を通してもそこに知っている名前はなかった。

 流し読みする限り、さほど重要と思える記載は見当たらないが、これが市販されている本ではないことくらい自分にもわかる。なぜこんな場所に収められているのだろう。


 何となく落ち着かない気分を抱えたまま、便覧も元の位置へと戻す。

 雨雲のせいで日の傾きは計れないが、書斎へ入ってしばらく経つ。もうそろそろ廊下に控える護衛たちから、部屋に戻るための声がかかる頃だろう。また後日、落ち着いて読むために手記のある棚の場所を覚えて机まで戻った。


 窓の外では雨が強まったのか、ざああと激しい水音が聞こえてくる。

 季節外れの大雨など、別に珍しいことではない。明日には止んでいれば良いなと思いながら、リリアーナは冷えきった指先を握りしめた。


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