第202話 お隣さんちの家庭の事情①


 よく食べて、よく眠った、翌日の早朝。リリアーナはベッドの中でひとり狼狽していた。


 昨日は昼寝をした分、何となくいつもより早くに目が覚めてしまい、アルトと朝の挨拶を交わしながら寝ころんだままぼんやり。そして痣の様子はどうだろうかと思い、頭上に明りの魔法を灯して袖をめくった。

 左腕についていた手形は、もうその形がほとんどわからないほど薄くなっている。強く握られてついた程度の痕だから、この分ならもう一晩眠れば綺麗さっぱりなくなるだろう。

 そして、寝間着をめくって右足を出し、かかとのほうを見た。


「な、な、な……っ?」


<リリアーナ様、どうなさいましたか?>


「あ、あし、足の痣が……おおおかしな色をしてるんだがっ?」


 かかとの上、赤紫の痣のあった辺りが、薄い青緑色になっているのを見て激しく動揺する。

 青。緑。ヒトの体内にこんな色を持つ要素があっただろうか。まさか皮膚の下にカビでも生えたのか? ちゃんと治癒が効いておらず壊死したとか? このままでは足が腐り落ちるのでは? え? いやいやいやいや……


<ええと、内出血はもう広がってはいないようで。ご安心を、ちゃんと快方に向かって、……ああ、視覚的に青みがかって見えるのは皮膚を通しているためですな。手首の血管が青く見えるとかいう、それです>


「見えるとかいう、それ……」


 アルトの軽い口調から、痣の変色は特に重篤なものではなく、ちゃんと癒えているのだということが伝わってきた。

 心を落ち着け、もう一度まじまじと自分の脚をのぞき込んでみる。

 薄い緑と青と紫を雑に混ぜたような、何とも毒々しい色だ。恐る恐るさわってみても、昨日のような鈍い痛みはもう感じない。本当に、治ってはいるらしい。


「そういう、あれなのか。なるほど? この色は後々消えるんだな?」


<あと二日もすればすっかり薄くなるかと思われます。内出血の痣をご覧になるのは初めてでしたか?>


「うむ、『魔王』であった頃には皆が負った怪我も目の当たりにしたが、大抵はすぐ修復をしてやったからな。打撲痕は日を置くとこんな色になるのか……驚いた、目立たない場所でまだよかった」


 何とも心臓に悪い色だ。フェリバがこんなものを見たらまた顔色を悪くするのではないだろうか。

 今の力では自前で修復の魔法を扱うのは難しいけれど、せめて痣をすぐに消せる程度には治癒の構成を磨いておこう。この先、重傷を負うようなことはそうそうなくとも、どこかにぶつけたりして痣くらいは作りそうだし。

 気休めにもういちど治癒をかけて右足をしまうと、タイミングを見計らったように寝室の扉が小さくノックされた。「もう起床している」と声をかければ、起こしに来たフェリバがそっと顔をのぞかせる。


「わぁ、今日は早起きですねリリアーナ様。おはようございます!」


「おはようフェリバ。少し前に目が覚めたばかりなんだ、夢も見ずよく眠れた。昨日は色々あったが、お前もちゃんと寝られたか?」


「はい、もちろん。私、枕が変わってもいつでもどこでも眠れるのが取り柄なんですよー。お屋敷での採用試験の時もそう言って見事合格しました! ほら、使用人はみんな住み込みですからね」


「そうか、……うん」


 もしかしたら本当にそういう採用条件があるかもしれないし、いやないとは思うのだが、フェリバが得意そうにしているので神妙にうなずいておいた。

 毒の入った水だと言って出されたものを飲み干したことと、一体どちらが採用の決め手になったのかは知る由もない。





 ファラムンドから言い渡された通り、今朝の朝食は本邸側のダイニングルームではなく、自室に運ばれたものをとることになっている。

 ひとりきりの朝食はイバニェスの屋敷でも慣れているが、今はカステルヘルミが共にいるから食事の席が少しだけ賑やかだ。

 最初は遠慮していたカステルヘルミも、一度に済ませたほうがフェリバたちの手間も少なく済むと言えば、ころりと態度を変えた。「わたくしもひとりで食べるのは味気なくて」とは言うが、こちらがもの寂しかったのを思い遣ってくれたことくらいは、察しの悪い自分でも何となくわかる。


 ふたりで会話を挟みながら朝食をとり、その後は定位置となった窓際のソファでお茶を飲みながら適当にくつろぐ。

 今日の夜までは安静にと言われているから、部屋の外には出られない。レース編みの道具は持ってきているし、弟子の特訓でも見守りながら余暇を潰そうか。

 本当は自分も治癒の構成をもう少し練りたいところだが、実践するには対象となる怪我人がいなければ練習にならない。さすがに自傷してそれを治す、なんていう練習法を今の体でやる気にはなれなかった。


「……ん?」


 小さなノック音が聞こえた気がして、カップから顔を上げる。

 素早く二回と、間を置いて一回。この叩き方は廊下にいる警備係と取り決めていた、来客を知らせるための叩扉だ。

 対応に出たエーヴィが扉を開け、いくらも言葉を交わさないうちにすぐ戻って来る。


「リリアーナお嬢様、ブエナペントゥラ様が訪ねておいでです。このままお通しいたしますか、それともお仕度が整うまで隣室でしばしお待ち頂きますか?」


「ずいぶん急な来訪だな、そんな予定は聞いていなかったが……。まぁいい、着替えは済んでいるしこのまま会おう」


 今着ているのは普段のワンピースに、肩からかけた毛編みのストール。客対応にはあまり相応しくはないかもしれないが、そうかしこまった格好でなくとも自室内なのだから構うまい。

 ローテーブルに新たな茶器を用意するフェリバと、応対に出るエーヴィ。カステルヘルミは飲みかけのカップを手に立ち上がってそわそわしているので、自分の隣のソファを指しておいた。



「おお、リリアーナおはよう。朝から突然訪ねてすまんな」


「おはようございます、ブエナおじいさま。何か急ぎのご用でしょうか?」


 ソファから立って迎えの挨拶をすると、ブエナペントゥラは目尻を垂らしながら部屋中の空気を震わせる声量で笑った。


「そうかしこまる必要はない。昨日のうちに来るべきだったんだがなぁ、いや、とにかく座っとくれ。魔法師の先生も。くつろいでいるところに悪かった」


 昨日の、という言葉で何のために訪れたのかはおおよその見当がついた。

 他領から訪れた相手の部屋なのに、従者も侍女も連れていないのは、そういうことなのだろう。

 それぞれソファに腰かけ、新しいお茶が運ばれてきたところで、対面に座るブエナペントゥラが両膝に手を置いて首を垂れる。


「昨日のことはファラムンドから聞いとるよ。すまなかったね、リリアーナ。もう怪我の具合は良いのかい?」


「はい。魔法師の先生もついておりますから、もう何ともありません。どうかお気になさらないでください」


「痛まないのなら良かった。だが、気にせんわけにもいくまい。女の子同士なら話相手にも良かろうと、お前さんをサーレンバーへ招いたのはこの儂だ。歌劇の公演など口実に過ぎん。だというのに、怪我をさせてしまうとは……」


 自分がクストディアから乱暴な扱いを受けることは、ブエナペントゥラにも予想外のことだったらしい。

 一度廊下で香茶を浴びせられた侍女を目撃しているが、ああした使用人への暴行は領主の耳に入っていないのだろうか。

 ともあれ、昨日の件に関してブエナペントゥラを責める気は全くない。気にするなと言っても無駄なら、せめて謝意だけ素直に受け取っておこう。


「ブエナおじいさまのお気持ちは、よくわかりました。幸い、大事ありませんでしたし、わたしのほうは大丈夫です。ご安心ください」


「そうか……」


「それに謝罪なら本人の口からというのが筋だと思います。クストディア様とはもう一度お話をしたいので、日を置いて改めて場を持てたらと、父上にもお伝えしてあります」


「そ、そう、か……」


 ブエナペントゥラは懐からハンカチを取り出し、額の汗を拭う。

 見たところずいぶん緊張しているようだ。別に責めているつもりはないのだが、笑顔が足りなかっただろうか。そう思って作っている笑みの口元にもう少し力を入れ、唇を引き上げてみたり。

 そうして表情を微修正したところで、隣から腕をつつかれる。何かあるのかと顔を向けると、「お嬢様、笑顔がこわ……硬いですわ」とカステルヘルミから小声で注意を受けてしまった。

 まだまだレオカディオのように上手くはいかないらしい。両手で頬をこねて柔らかくしてから、正面に向き直る。


「あの、ブエナおじいさまにも、お訊ねしてみたかったことがあるのですが」


「おお、何だい、何でも訊いておくれ?」


「昨日お会いした時、クストディア様には相当嫌われているようだと感じました。わたしには全く覚えはないのですが、何か原因に心当たりはおありですか?」


 ファラムンドとも同様のことを話したが、自分には彼女から恨まれる覚えがまるでない。祖父であれば何かわかるだろうかと訊ねてみれば、ぐっと顔中のしわを深めて難しい表情をする。


「あれは、早くに両親を亡くしていてな。それ以来すっかり臆病になってしまった。……八年前の事故について、リリアーナはもう聞いておるかい?」


「はい。領主ご夫妻の乗られた馬車が、落石事故に遭ったと」


「うむ……。お前さんらは顔も合わせたことがないのだから、何かあるとしたら、やはりあの事故のことだろう。あの時クストディアは五歳記を控えて、リリアーナは生まれる寸前……いや、うむ、まぁとにかく、あの件くらいしか儂には思い当たらん」


「わたしの母の懐妊祝いにご両親がイバニェス領を訪れて、その後に事故に遭ったから恨みに思っている、と?」


「それもあるだろう。あとは、そうだな、父親だけでも健在なお前さんが羨ましいのかもしれんのう」


「……」


 ファラムンドの話も、ブエナペントゥラの言うことも、いまいちぴんとこなかった。

 誰が何を憎もうと個人が抱く感情は自由だ。それぞれに原因も事情もあるだろう。だが目の当たりにした怒りの眼差し、少女から向けられたあの苛烈な憎悪と、話に聞く理由がどうにも結び付かない。

 大人たちに訊いてもわからないなら、あとは本人に直接確かめるより他ないだろう。

 もう一度クストディアと面会が叶うかどうかはファラムンドに任せるとして、身内であるブエナペントゥラとこうして話す場が持てたのは好都合だ。食堂と違って他者の耳もないことだし、今のうちに聞けるだけのことを聞いておくとしよう。

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