第200話 役目と回顧を。


 リリアーナはシーツを替えたばかりのベッドにもぐり込み、しばらくぼんやりと天蓋を眺めていた。ベッドのサイドテーブルには真新しい水差しと、人を呼ぶためのベル、その横にアルトが乗せられている。

 湿った息を吐き出し、自分で額をさわってみるが、手のひら自体が熱を持っているようでいまいち差がわからない。


「少し熱が出ているようなんだが、どうだ?」


<はい、平常よりも体温はやや高めですね。お食事の後だからというせいもあるかもしれませんが。それと、左手の患部も少々熱を持っております>


「ああ、そういえばこっちには治癒をかけていなかったな」


 冷たい軟膏を塗られたことで、すっかり治療は終わった気になっていた。そう濃い痣ではないし、二日もすれば消えるだろうが、念のため巻かれた包帯の上から治癒の魔法をかけておく。


「……はぁ。感情が昂るたびに、ろくなことをしない。ヒトの精神というのは皆、こんなに不便なものなんだろうか」


<ヒトに限らず、キヴィランタの者たちも何かと激昂したり落ち込んだりと忙しかったように思いますが>


「そういえばそうだったな。アリアや夜御前などもよくキィキィ叫んで喧嘩をしていた。『魔王』が普通とは違っただけか……」


 状態異常の無効化の他、様々な耐性を備えていた『魔王』の体は、今思い返しても感情の上下幅が極端に狭かった。激しく怒るとか、ひどく悲しむとか、そういった精神のゆらぎも状態異常にカウントされていたのだろう。

 役割ゆえの抑制がかかっていることには、薄々自覚も抱いていた。

 アリアの【魅了チャーム】などもちろん効かなかったし、夜御前から「欲が薄い」なんて評されたのもそこに原因があったのかもしれない。


 三年前の領道で激昂し、危うく自分の命まで投げ出してしまうところだったのを深く反省したばかりだというのに、また同じようなことを繰り返してしまった。

 喜怒哀楽のいずれが過ぎても泣き出してしまう、情緒の振れ幅が激しい幼い体。だからこそ感情をコントロールできるようにと自ら戒めたくせに、そこから何も成長していない。さすがに少し落ち込む。



<それにしても、とんでもない令嬢もいたものですな。リリアーナ様でなければ、あの甲冑に捕まってもっと酷い怪我を負われていたことでしょう>


「そうだな、手あたり次第に物を投げつけるのはどうかと思う。あそこにフェリバたちを連れて行かなくて正解だった」


 自分の足を負傷したのは失敗だったが、ひとまず魔法を使っていることは気取られなかった上、クストディアに危害を及ぼしてもいない。

 身ひとつだからそれで済んだものの、仮にふたりを連れていたら、彼女らを守るために黒鎧を無力化するなど目に見える形で魔法を行使せざるを得なかった。

 それに、もしフェリバやカステルヘルミが怪我を負わされたら、自分はきっと冷静ではいられなかっただろう。怒りに任せて何をしたか想像もつかない。


「あんなに怒りを覚えたのは、この前の栞の一件以来か。あの時は体調を崩していたから、寝込んでいる間に頭も冷えたのだが……。感情の揺れは体調にまで影響が出る、もう『魔王』の耐性は失っているのだから、今後はもっと気をつけないとな」


<左様ですね。カステルヘルミ殿の言うように、負の感情は健康にも悪影響を及ぼすそうですから。とはいえ、あの、無機物の私などがこんなことを申し上げるのもおこがましいのですが……>


「ん? 何だ、言ってみろ」


 角をもぞもぞと動かしながらためらうアルトに水を向けると、器用にその先端を擦り合わせながら言葉の先を続けた。


<その、『魔王』でいらした頃には味わえなかった感情の変化というものを、今のお体では得ることが叶うわけですから。今度は何にも邪魔されず、リリアーナ様が抱いたままの素の感情を大事にして頂けたらと、そう思うのです>


「……うん、そうだな。怒りの感情に振り回されるのはごめんだが、喜んだり驚いたり、精神の動きがせわしないのは、生きている実感があって楽しいものだ」


 以前は心臓が引き絞られるような絶望を得ることも、思考が真っ白に塗りつぶされるような怒りを抱くことも、顔面が熱を持つほど喜び浮かれることもなかった。

 『魔王』という役目を全うするためには、それらはきっと利点であったのだろう。

 どちらが良いとか、優れているとかいう話でもない。心を抑えつけられることへの不愉快さも、今となっては遠い過去のこと。


 上掛けの中から手を伸ばし、水差しに沿えてあるグラスを上向け、水を注いで一口飲んだ。

 少し物足りなくて、グラスの中に氷の欠片を浮かべてもう一口。冷たい水が熱を持ちはじめた喉に心地よい。

 水差しからはねた水滴がアルトの角にかかり、小動物のように体を震わせて水の粒を飛ばしている。ぬいぐるみを構成する素材全て支配下に置いたと自負する通り、もう角だけでなく尻尾まで自在に操作できるようだ。

 青灰色の体を左右に揺すりながら、つぶらな丸ボタンの目がこちらを見上げる。


<そういえば、あのご令嬢。とんでもない性格と態度ではございましたが、役割的にはこの先、リリアーナ様もああいった感じを目指されるのでしょうか?>


「目指す? 一体何の話だ?」


 グラスを持ったまま首をかしげると、尻尾をぴんと立てたアルトも同じ方向に傾いた。


<え? あ、あの、私の記憶が確かであれば、デスタリオラ様にて『魔王』のお役目を終えられ、此度のリリアーナ様では『悪徳令嬢』とやらの役目を押しつけられたと、仰っていたような……>


 傾きすぎて角がテーブルについている。指先でつつくと、アルトは振り子のように前後にぐらぐら揺れてから止まった。

 半ばまで飲んだグラスをテーブルに置き、ベッドの上で膝を抱える。


「あんなものを目指してたまるか。今生での役目のことはちゃんと覚えているが、わたしはあんな風に家族や周囲に迷惑をかけるつもりはない」


<そっ、そうですよね! 悪徳なんて現在のリリアーナ様から対極にあるような概念ですし。いや、以前のデスタリオラ様からもだいぶ程遠い感じですが。……となりますと、お役目のことはどうされるので?>


「どうも何も、以前だって好きに振舞っていたら、『歴代でヒトに最も嫌われた魔王』とか『悪辣魔王デスタリオラ』とか何とか呼称されたくらいだ。今のところ枷も感じないし、特に役目に関して不安視はしていないぞ?」


<な、なるほどー……?>


 生得の役目から大きく外れれば、その行動や思考に対して『枷』が発動するのは実体験をもって良く知っている。

 リリアーナとしてこれまで生きて、そういった阻害は特に感じたことがないから、おそらく自分はこのままでも構わないのだろう。

 『魔王』でいた頃そうだったように、もし与えられた役割から逸脱しているなら、強引にでも道を正そうとするような抗いがたい矯正力が働くはずだ。


「まだ幼い八歳の子どもだからという理由も、あるかもしれないな。以前も幼体の頃は『魔王』の自覚などなく過ごしていたし」


<それは魔王城に着く以前、我々を収蔵空間インベントリから引き出すよりも前のことでしょうか?>


「うむ、そうだ。昔のことは記憶が朧気なのだが、どこか暗い場所で、大きなモノに育てられていたことだけ覚えている。自分とは違う形をしていたから、あれらはきっと生みの親ではなかったのだろう」


 だから、親として接してくれたのは、二回の生の中でファラムンドが初めての相手だ。

 父親という存在に対する信頼や安心感を、ヒトに生まれ直してから得るなんて思ってもみなかった。

 父親同様、きょうだいを持ったのも初めてのこと。血の繋がった家族。侍女、友人、臣下に類されない大切な者たち。


「今の家族も、周りの者たちも、大切にしたい。生きている以上きちんと役目は全うするが、わたしはクストディアのようにはならないからな?」


<ええ、もちろんですとも。リリアーナ様を取り囲むすべての幸せが続くよう、私も引き続き全力でお手伝い致しますぞー!>


 リリアーナの「大切なもの」の中に自分も入っていることがわかっているのかどうか、ぶんぶんと角を振る風圧で水差しの結露が飛び散り、アルトがまた水滴を浴びている。

 イバニェスの屋敷にぬいぐるみの替えはあっても、同じボアーグルのぬいぐるみは手に入るかどうかわからないのだから、綿の体も大事にしてほしいものだ。


「まぁ、そういったわけで目指しはしないが。そのクストディアの部屋には、ファラムンドの言うように日を置いてもう一度向かう必要がある。手を煩わせて申し訳ないが、上手いこと橋渡しをしてもらわないとな……」


<な、なんですとー? 本当に再訪を? 忌々しいあの礼儀知らずの娘っ子、何をされるかわかりませんし、もう関わり合いにならない方がよろしいのでは?>


「あまり関わりたくないのは同感でも、そうも言っていられん。先ほど話をしたいと言ったのは嘘ではないけれど、あの部屋にはもうひとつ大事な用が残っている」


<脚本の写しとやらが気になるので?>


「……それもないとは言わんが。ほら、例の栞だ。構成の刻まれた栞が本当にサーレンバー邸へは届いてないのか、この機にちゃんと調べておきたい」


 抱えたひざに頬を乗せてそう言えば、アルトは<あぁ~>と間延びした念話を返してくる。頭に血が上ったせいですっかり忘れたままあの部屋を出てしまったが、アルトのほうも念頭から抜け落ちていたようだ。


 効果は確かでも、刻まれている構成はあまりに微細なもの。それにこれだけ大きな屋敷なら、魔法の刻まれた品くらいはそこかしこに置いてある。以前に屋敷で小動物を探したように、階層ごとアルトに精査させて栞を探し出すのは難しいだろう。

 ……となればやはり、直接部屋に足を踏み入れるしかない。


<あの部屋にはさらに奥へ続く扉がございました。書庫や物置となっているようですから、そちらを調べるなら廊下の壁沿いに近づいて頂ければ、私の探査でも何とか……>


「なるほど、もっと奥に書庫があるのか。たしかに室内には本棚が見当たらなかったな、手近に本があるなら飲み物を投げつけたりはしないだろうし……いや、あやつならするかもしれんが」


 アルトの言うように、部屋の中や書庫を調べさせてもらうのが難しいようなら、廊下沿いに探査を用いて探すというのもひとつの手ではある。

 無断で調べるのはいささか気が引けるが、もし何も見つからなければそれで済む。


 問題があるとすれば、あの栞が見つかった場合だ。

 ブエナペントゥラにも事情を説明しなくてはならないし、入手ルートなど詳細に聞き出す必要が生じる。もう一度話す機会を設けられるようにとファラムンドは言っていたが、果たしてクストディアは憎んでいる相手の言葉など聞き入れてくれるだろうか。


「うーん、……まぁ、栞があったらあったで、その時に考えるか。手掛かりは少しでも欲しいからな」


<今のところ、発見例はイバニェス領内のみですから。もし他領でも見つかったら、話はもう少し大ごとになりそうですね>


「現段階でも十分に大ごとだ。精神に作用する構成が、人命にも危険を及ぼしたわけだからな……。原因が栞にあると見抜くのは困難だし、やはりカミロの言うように、発覚しないまま水面下で出回っている可能性が高いのかもしれない」


 置いていてグラスを手に取り、残りの水を飲み干す。

 冷たいものを飲んだおかげで喉の熱さは落ち着いたから、少し眠れば熱は下がるような気がした。侍女たちに気取られる前に、さっさと治してしまおう。

 膝を抱えたままの体勢で深く息をつき、出発の二日前に交わしたカミロとの会話を思い返す。


 ――悪意の種は、見えないところに埋まっている。



 まだ冷たいグラスを手のひらで包むと、熱が吸われて心地よい。中に残った小さな氷が、からんと涼やかな音をたてた。


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