第197話 子どもの礼儀、大人のお作法
浅慮から出た行動に自省をしていると、支えてもらったままの手が冷たい指に固く握り締められる。
顔を上げたすぐ目の前で、沈痛な面持ちのフェリバが眉根を寄せてこちらを見ていた。体調不良で寝込んだ時だってこんな顔をさせたことはなかったのに。
「フェリバ、あの、もう大丈夫だからそう心配は、」
「あちらの椅子でお怪我の様子を見てみましょう。お運びします、掴まってください」
珍しくリリアーナの言葉を遮るようにそう言い切ると、有無を言わさず抱き上げられる。言われた通り肩に掴まって盗み見た横顔は、何かを思い詰めているようでもあった。
怒っているという様子でもないが、いつものフェリバと違う。すでに足の治療は済んでいるものの、さすがにここは大人しく従っておいたほうが良いと察して抗弁を諦める。
抱えられたまま長い廊下を戻り、窓際に設置された長椅子にゆっくりと体を下ろされた。
「お靴、脱がせますね。痛かったらすぐに言ってください」
「もう痛みはないんだ、本当に」
街へ出た時のような革製のブーツならもっとダメージを軽減できたのだろうが、屋外に出るつもりがないため、今日履いているのは毛で織られた柔らかな靴だ。留めていた紐を丁寧に解いて、患部が擦れないよう慎重に靴を脱がされる。
膝上で結んでいた靴下も脱ぎ、裸足になったかかとを自分で横向きにしてみると、アルトの言う通りまだ薄っすらと紫色の痣が残っている。それを見たフェリバの眉がぎゅっと寄せられ、唇を引き結ぶ。
「すまない、わたしの不注意だった。蹴った自分のほうが怪我をするとは思っていなかったんだ。もう全く痛みはないし、数日もすれば痣は消える。だから、そんな顔をしないでくれ、フェリバ」
指を伸ばして今にも噛み切ってしまいそうな唇の上からふれると、顔を伏せられてしまった。
手探りで頬を辿り、そこが濡れていないことに安堵する。
以前ファラムンドがそうしてくれたのを思い出しながら動かない頭をそっと撫で、そのまま自分よりも余程ショックを受けているらしい侍女が落ち着くのを待った。
何となくさまよわせた視線がカステルヘルミの心配顔を捉えるが、こちらは「大丈夫だ」とうなずくと小さく微笑みを返した。先ほど見た魔法で、怪我自体は完治しているとわかるからだろう。
「お嬢様、さっき硬い物を蹴ったと仰っていましたけれど、あのお部屋で一体何があったんですの?」
「いや、うん……。ここではちょっと言いにくい」
「何か酷いことをされたとか、身の危険があったわけではありませんのね?」
「んー、……少し時間を置いて自分でも考えたい。お互いに冷静ではなかったと思うし」
あの部屋でクストディアに浴びせられた言葉は、一言一句違わず覚えている。
だが、なぜ彼女があんなことを言ったのか、どうしてそこまで自分たちを恨んでいるのか、皆目見当がつかなかった。
まだどんな人物か詳細に知るわけではないが、クストディアが何かに強く憎悪を向けるとしたら、彼女の両親の事故に関わることくらいしか思い当たるものはない。
しかしキンケードの話が正確なら八年前の件にファラムンドは関与しておらず、リリアーナに至っては生まれる前の出来事だ。「生まれてこなければ良かった」なんて言われるほど憎まれる覚えはないし、自分の生誕で彼女に一体どんな不利益が生じたというのか。
しばらくそんなことを考えているうちに、フェリバが顔を上げたので髪を撫でていた手を下ろした。
すぐ正面に屈んでいる侍女が浮かべる出来損ないの微笑みを見て、言葉にならない感情が湧きあがる。いつも変わらずそこにあったフェリバらしい笑顔を失わせるほど、自分の短慮が彼女を傷つけたのだ。
「お部屋に戻って、ちゃんと治療をしましょう。もう痛くないといっても痕が残っちゃうと大変ですから」
「あ、うん。フェリバ……」
「リリアーナ様が謝られる必要なんて全然ないんですよ。お伺いしないといけないこともありますけど、まずはお部屋に。お薬とか包帯はちゃんと持ってきてますから、任せてください」
慎重な手つきで脱がせた靴下と靴を履かせ、再び抱き上げようと手が伸ばされたが、それを断って自分の足で立ち上がる。
言葉で大丈夫と言うだけでは足りないなら、もう歩行に支障はなく痛みはないのだということを見せたかった。
その代わりに、開いた右手を差し出す。フェリバは瞬きを二回ほど繰り返してから、くしゃりと笑って冷たい手でそれを握り返してくれた。
サーレンバー領主邸は広大な屋敷だが、クストディアの私室へ続く階段から別棟に続く渡り廊下は、そう離れてはいない。手を繋いだまま一階に下りて、たまに行き交う使用人らの礼を受けながら元来た通路を戻る。
部屋に戻ったら、やはり怪我を負った原因を詳しく話さなければならないだろうか。
クストディアとの諍いは、発端が何なのか、どうしてあんなことになったのか未だに飲み込めておらず、起きたことを主観だけで語るのは些か気が引けた。
それにフェリバは立場上、聞き出した話を全てファラムンドへ報告しなければならない。喪った友人の娘と自分の娘がさっそく喧嘩したなんて知ったら、父はどう思うだろう。
旧知の間柄であるブエナペントゥラと久方ぶりの再会を果たし、気心知れた相手と楽しそうにしているところへ水を差すことにならないだろうか。貴公位間における傷害問題よりも、むしろそのことが心配だった。
やや気落ちを覚えて下がっていた目線、その視界の中に小さな足が映り込む。
よく磨かれた子ども用の黒い靴。それに気がついて足を止めると、同じ靴がもうひと揃い隣に並ぶ。
「……?」
フェリバが足を止めたのに合わせて視線を上げる。廊下の進行方向、その少し先ではそっくりな顔をした子どもふたりが並んで行く手を阻んでいた。
年の頃はレオカディオと同じくらいに見える。肩のあたりまで伸ばした焦色の髪に、揃いの衣服。片方は広がったスカートを履いているから、少年と少女なのだろう。
次兄と年の近い、男女の双子。……そういえば昨日、キンケードからそんな話を聞いたばかりだ。
たしかブエナペントゥラの弟の、孫だったろうか。昨日押しかけてきたという親族の中に、子どもを三人見かけたと言っていた。
まだこの屋敷に滞在していたのか、それとも改めて訪れたのか。周囲をそれとなく見回してみても、保護者や付き添いの姿は見当たらない。
「お前がリリアーナ?」「リリアーナ?」
「え?」
相手の正体についてあたりをつけたところで、ふたりから唐突に声をかけられた。
初対面の挨拶を交わすべきだったのかもしれないが、立場を考えればこちらから挨拶を切り出す必要はない。むしろ不躾に名前を呼ばれたことに対し、警戒心が先立つ。
先ほどのクストディアとの一件がなければ、子ども相手だからとあまり気にせず応えていたかもしれない。
だが、十歳記前の身の上でも、自分は紛れもなくイバニェス領主の娘だ。屋敷の外へ出たならその名に相応しい振る舞いをしなくては、父であるファラムンドの顔に泥を塗ることになる。
「そういうあなたはどなた? 訊ねる前に、先に名乗るべきではないかしら?」
なるべく毅然とした態度でそう返せば、双子は互いに顔を寄せ合いこそこそと小声を交わしだした。「やっぱりこの子だよ」「お父様が言ってた通りだよ」「生意気な子だよ」、そんな言葉がここまで漏れ聞こえる。
足を止めたままのフェリバは出方に困っているようだ。
サーレンバー家の生活区域にいるだけでも、この双子が領主の関係者だと察しがつく。身なりも良いし、親族だという事情を知らなくても、相手がブエナペントゥラと何らかの関わりがあることがわかるのだろう。
「……ご用がないなら、道を空けて下さらない?」
イバニェス家の使用人であるフェリバの立場では、逗留先の領主の身内に物申すことはできない。だから先んじて自分からそう声をかけると、小声を交わしていた双子はぴたりと止まり、同じタイミングでこちらを向いた。
感情の読めない二対の目にじっと見つめられ、妙に居心地の悪い間が空く。
何か言ってくるのを待っていると、ふたりは無言のまま同時に駆け寄って腕を掴んでくる。予想外の動きに対処が遅れた。フェリバと繋いでいないほうの腕を取られ、双子に引っ張られる。
「ちょっと、お嬢様に何するんですあなた方、乱暴はいけませんわ!」
「お父様が言ってた」「用があるって言ってた」
「わたしにはありません。ご用があるならブエナおじいさまか、父のイバニェス公を通してください」
「昨日顔を出さなかった」「会いに来たのに隠れた」
「や、やめてください、放して、リリアーナ様はお怪我をなさってるんです!」
フェリバがそう叫ぶと、双子は同時に掴んでいた腕を手放した。同じ力で引っ張って抵抗していたため、反動で後ろに転びそうになるのをカステルヘルミに支えられる。
掴まれていた腕をさすりながら体勢を立て直し、油断なく対峙する。行動の読めない双子を前に目が離せない。
庇うように前に出ようとするフェリバには目もくれず、双子はじっとリリアーナだけを見ていた。
「怪我をしたの?」「怪我をしてるの?」
「……」
「いじめられた?」「クストディアに?」
並んで立ちながらくすくすと笑いだす双子。その断定には答えずにいると、ふたりの背後での扉が開き、そこから見知らぬ夫婦らしき男女と使用人が出てきた。
こんな場所で向かい合っているのを見て驚いたのだろう、大人たちは目を見開いて双子とリリアーナたちへ交互に視線を向ける。その男のほう、口髭をたくわえた細身の紳士はリリアーナと目が合うなり、離れていてもわかるほどの笑みを浮かべた。
「これはこれは、噂に違わぬ……」
「お父様、リリアーナがいた」「リリアーナがいた」
「お前たち、そんな失礼な言い方はいけないよ、ちゃんと仲良くしなさいと言っただろう?」
「怪我をしてるんだって」「いじめられたんだって」
「何? いじめられたって、まさかクストディアに?」
こちらはまだ何も言っていないのに、どうしてそう決めつけるのだろう。その勝手さに呆れもするが、クストディアに香茶をかけられて項垂れていた侍女の様子から、この屋敷ではあんなことが日常茶飯事なのかもしれないとも思えた。
双子の両親らしい男女の登場に、膠着しかけた場が何とかなったと息をつきかけたのも束の間、夫婦は笑みを浮かべたまま双子を伴って近づいてくる。
何となく嫌な感じがして、そばに立つフェリバのスカートを引いて一歩下がる。
この親族と自分を会わせないために、昨晩は予定を変更してまで晩餐会から遠ざけられた。そうするべきとファラムンドが判断するような相手と、こんな助勢のない場所で言葉を交わすのは得策ではない。
「そう警戒なさらなくても大丈夫ですよ、私はサーレンバー領主ブエナペントゥラの甥にあたりまして……、あぁ、立ち話も何ですのでそちらの談話室へどうぞ、すぐにお茶の用意もさせましょう」
「いいえ、ご遠慮しておきます」
部屋に囲い込まれるのは以ての外だ、何とかこの場を切り抜けなくてはならない。
だが、先ほどクストディアの部屋でやらかしたばかりで、強硬に出るのが憚られた。もうこれ以上サーレンバー側の親族と揉め事を起こしたくないという思いから、続く言葉も取るべき行動もすぐには浮かばない。
ここはどうするのが正しいのか、自分はどうするべきか、迷う間に口髭の男が近づいてくる。二対の笑みもこちらを見ている。逃げるわけにはいかない、魔法を使うことはできない、フェリバとカステルヘルミは立場が弱い。自分が守らなくては。
迷い、焦り、頭の中が白くなったのはほんの瞬きの間のこと。
「レディには道を譲るのが大人の作法ってものだろう?」
背後から聞こえた、その朗々たる声に、渦巻いていた惑いも何もかもが吹き飛ばされた。
振り向き、安堵のあまり表情を作るのも忘れて声を上げてしまう。
「父上……!」
「こんな冷える場所に長居はよくない。一緒に部屋へ戻って、お茶の時間にしようか、リリアーナ」
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