第196話 悪の花蕾③


 クストディアに命じられ、両手を伸ばして迫る黒鎧はリリアーナからすれば見上げるほどの上背だが、関節部の干渉によりその動きはひどく緩慢だ。全身を覆うほどの鋼鉄、重量も相当のものだろう。

 魔法を扱わず、武器も持たない相手。どう動くのかが目視で追えるなら、幼い体でも対処は容易い。

 捕獲に広げられた腕を半身でかわし、すれ違い様に膝の裏を押し込むようにして、かかとで思い切り蹴りつける。

 がくんと膝が折れ、支えを片方失った体は自重でその場に崩れ落ちた。


「何してんのよ!」


 蹲った黒鎧は主の叱咤に体を揺らし、床に両手をついて懸命に立ち上がろうとする。だが一度体勢を崩してしまえばあの重量だ、自力で立ち上がるのは難しいだろう。

 今のうちに退室しようと背を向け、歩き出す。通ってきた道順はだいたい覚えているし、別に正確でなくともおかしな方向に進まなければ扉まではたどり着けるはず。


<リリアーナ様、お気をつけを、甲冑が立ち上がります!>


 アルトからの警告の声に、跳び退くようにして一歩下がり様に振り向く。

 黒鎧はそばにあった上半身の置物に手をかけ、すでに両足で立ち上がったところだった。全身がひどく重いだろうに、大した胆力だ。

 そのまま金属の擦れる耳障りな音をたて、再度こちらに近寄ってくる。

 重量を物ともしない体力と筋力には驚嘆するところだが、やはり甲冑は歩きにくいようで鈍足は変わらない。この緩い速度なら駆け足で振り切ることはできるだろう。

 しかし、部屋の外まで追ってこられて、それを誰かに目撃されでもしたら後々面倒なことになる。

 同様に、この部屋の中で揉め事を起こし、そのせいで数ある物品を壊したり傷つけてしまうとクストディアに難癖をつけられる可能性が大きい。


 再び伸ばされた腕を避け、チェストの並んだ狭い通路に誘い込む。

 このまま掴まったところで怪我をさせられることはないと思うのだが、あの侍女のように憂さ晴らしに香茶をかけられたりして、せっかく仕立てられた衣服を汚されるのは業腹だ。

 甲冑の関節部を癒着させて動きを止めるか、それとも内部に干渉して脚の神経を痺れさせようか。痕跡を残すことなく、周りの物にも被害を出さず、黒鎧が自分で追跡を止めたように見える方法が望ましい。


「ネズミみたいな子ね。さっさと捕まえて痛い目を見せてやりなさい、首から下、服に隠れる部分なら多少の怪我をさせても構わないわ」


「は?」


 さすがに、その言葉には耳を疑った。

 声のした方を振り返っても、大きなチェストと鎧に遮られてクストディアの姿はもう見えない。

 八歳の子どもをいたぶる趣味もどうかと思うが、相手は隣領から家族ぐるみの付き合いで訪れたイバニェス領主の娘だということが、本当にわかっているのだろうか。

 もし本当にここで自分が手傷を負ったりすれば、問題は家族間の謝罪だけで済むとは思えない。言葉で脅しているだけ、本気ではないとしたってあんまりだ。


 横向きでチェストの間に入ってきた黒鎧の手をかわし、階段状に積まれた木箱を駆け上がる。

 こっそり【浮遊レビト】をかけて補助としながら隣のキャビネットの天板へ移り、追ってきた黒鎧の頭上を一息に飛び越えて、反対側の箪笥の上へ。

 視点が高くなったことで室内を一望できたが、本当に隅々まで物でいっぱいだ。窓側には観葉植物の鉢植えらしき茂みの一角があり、反対の壁側には置物の甲冑が何体も並べられている。

 分別無しに置かれているのかと思いきや、こうして眺めてみれば一応大まかなジャンル分けはされているらしい。


 乗っていた箪笥からさらに向かいの木箱へ移る途中、伸ばされた黒い腕が足をかすめる。もう少し高い場所でないと手が届いてしまう。ぐるりと見回しても、先ほど乗ったキャビネットより大きなものは付近に見当たらない。

 とりあえず、これだけ離れればクストディアからは見えないだろう。

 荷物や銅像の上を飛び移り、少しだけひらけた場所へ黒鎧を誘い込む。ちゃんとついてきているのを確かめ、【浮遊レビト】を効かせたままその中央へ降り立った。

 追っている側からは、とうとう飛び移れる物がなくなって降りてきたようにも見えるだろう。捕まえやすい位置まで追い詰めた獲物めがけて、黒鎧が足を速める。

 逃げる素振りのない無力な子ども、手を伸ばせばすぐ届くという慢心は注意を疎かにする。

 そもそもあんな視認性を捨てたような兜では、自分の足元すらろくに見えていないだろうに。


 一瞥で描く構成陣。

 細い通路から抜ける直前、その靴裏が絨毯へ接したタイミングで床ごと局所凍結させる。

 片足がつんのめり、前屈みになったところで凍結を解除。


「――っ!」


 耳を覆いたくなるような重い音をたて、黒鎧はそのまま受け身も取らず正面へ倒れ込んだ。

 ひらけた場所だから両手を広げて転んでも周りの物品に被害はない。いくらか金属片が飛び散ることも危惧したけれど、甲冑は相当頑丈な作りらしく倒れただけで済んだ。

 腹も顔面も打ちつけて、あれは相当痛いはずだ。肋骨が無事なら良いが。

 それにこのまま獲物を逃せば、この黒鎧は主であるクストディアに叱られるのだろう。自分の代わりに少女の鬱憤を引き受けることになる男へいくらかの憐憫が湧く。


「……まぁ、いとけない子どもを追い回して苛めた罰だ。自業自得として受け止めるがいい」


 倒れ伏したまま、今度こそ自力では起き上がれないでいる黒鎧にそう言い捨て、上から確認した最短ルートを通り扉まで戻る。

 退室前の挨拶をするか迷ったが、この部屋には礼を向けるべき相手など誰もいない。

 自分でドアノブを掴み、体重をかけながら大きな扉を開く。わずかな隙間から廊下へ出て、背中で押して扉を閉め


 ――たところで、その場にがくりと膝が落ちた。


 床に両手をついて危うく転倒は免れたが、自分でも何が起きたのかわからず混乱する。

 転んだというより、突然走った足の痛みに驚いて全身の力が抜けてしまったようだ。


「い、痛っ……、何だ?」


 ずきずきと熱を伴う痛みを発するのは、右足の末端。かかとの辺りがひどく痛む。

 見下ろしてみても靴越しでは何もわからず、あまりの痛みに伸ばしかけた手を引っ込める。廊下まで出てこられたのが不思議なくらいだ、歩くどころか立ち上がれそうもない。


 なぜこんな痛みが? いつ負傷をした?

 ……そう考えて、鎧の膝裏を蹴ったときに痛めたのだと思い当たった。

 クストディアの暴言や追跡から逃れることに頭がいっぱいで、その緊張感から一時だけ痛みが麻痺していたらしい。


<右脚の踝を打撲をしているようです。骨に異常はありませんが、皮下出血が広がる前にどうか治癒を!>


 アルトからの声が届いて、ようやく治療という手段を思い出す。慣れない激痛に気を取られる余り、魔法も忘れるほど混乱していたようだ。

 

「あんまり治癒は得意ではないのだが……、い、痛っ!」


 治癒の構成を描こうとしても、ひどい痛みに集中が散ってしまう。

 一気に完治まで持って行きたいところだが、慎重な描画をする余裕もないので、ひとまず応急処置として破れた血管の修復と鎮痛に努める。

 同時に冷やすこともできれば良いのだが、今は本当に最低限の魔法で手一杯だ。わかっているはずの構成が全く思い浮かべられない。


「……はっ、ぁ、もうちょっとか」


 やっと和らいだ痛みに息をつき、患部を注視していた視線を上げると、廊下のすぐそこまでカステルヘルミとフェリバが駆け寄ってきているのにようやく気がついた。

 額に汗が滲んでいるじっとりした感触。顔を上げるまでふたりの足音も耳に入っていなかった。


「リリアーナ様っ、どうされましたか!」


「ああ、もう少しで収まるから、ちょっと待っててくれ……」


「な、何かされたんですの? まさかお怪我を?」


「いや、その……少しばかり硬い物を蹴りつけてな。履き物越しだし、かかとを使ったから平気だと思ったのに、想定外のダメージだ。大した負傷ではないんだが……」


 だんだんと痛みが引いて余裕が生まれたため、先ほどは省いた冷気を追加しながら腫れの治癒に取り掛かる。

 ここがイバニェスの屋敷の裏庭や、先日通った花畑であれば『領地』の精霊たちに修復を任せられたのだが、今は自力で治癒をかけるしかない。

 生前は修復頼りで治癒のほうはあまり使用することがなかったから、不得手なままここまできてしまった。ヒトとして生まれた以上、今後も負傷する機会はあるだろうし、もっと効率良く描画できるよう研鑽が必要だ。


「け、蹴っ……そんなか弱いお体で何てことなさってるんですかーっ!」


「大丈夫ですの? それ、今なさっているのは癒しの魔法かしら?」


 慌てるふたりにうなずきだけを返し、集中して一息に怪我を治してしまう。すでに鈍痛は消えており、念のため指先でそっと押してみても、もう何ともなかった。


<毛細血管及び筋繊維の治癒は完了。内出血痕がまだ薄く残っておりますね、痛みはありませんか?>


「もう痛みはない、大丈夫だ」


 負傷前の状態へ戻す修復と異なり、治癒の魔法は傷ついた箇所を癒すだけ。すでに広がった皮下出血痕までは消せないから、こればかりは数日置いて自然に薄まるのを待つしかない。

 フェリバの手を借りながらゆっくりと立ち上がり、右足を何度か踏みしめて確かめる。

 患部が狭く、軽度だったから今の力でもすぐに治すことができたが、もし重傷であれば治癒が追いつかなかっただろう。痛みによる集中力の低下も想定外だ。


「はぁ、驚いた……。そういえば怪我らしい怪我をしたのは、生まれて初めてかもしれないな」


 自分で足を打ちつけただけなのに、こんなに痛いとは思わなかった。

 ヒトの肉体、それも幼い子どもの体が脆弱なのは身に染みてわかっていたつもりでも、耐性を備えていない体で痛みを受けるとどう感じるかまでは考慮の外だ。

 かつて、『勇者』との戦闘で腕を切り飛ばされたり腹を裂かれたりしたものだが、肉体及び精神的苦痛への耐性を備えていてもかなり痛かったのを覚えている。『魔王』としての各種耐性がなければ、あの状態で修復をかけながら戦闘継続なんてとても無理だったかもしれない。


 今の体で怪我をすると、とても、ものすごく、耐えがたく痛いということがよくわかった。

 これからはもっと慎重に生きよう……。そう、すでに何度目かになる反省をした。


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