第167話 跳ばされた男①


 痺れた手足、呻きも出ない喉に気を取られる。

 自分の体を思い通りに動かせないという、これまでの人生で一度も体験したことのない事態への対処に集中しすぎて、それ以外が疎かになっていた。

 ほんの一瞬の出来事。


 足の下に地面がなくなった。


「っ、お、お、おぁぁぁぁぁぁぁ――っ!??」


 胃が浮く、内臓が浮く、突然落下を始めた体。

 目の前は一面、薄暮れの空だ。

 叫びが霧散し、手が宙を掻く。


 空から、落ちてる。


 そう認識した直後、それまで描いていた解毒やら解呪やらの構成を全てキャンセル、まず状況把握よりも身の安全を優先し、思考を切り替える。

 体勢は背面が下、地面までの距離は不明。

 詰まる気管に喘ぐ中、いつの間にか痺れた四肢は動かせるようになっていた。


「浮遊、は間に合わねぇ、もういい、風……で……っ!」


 工夫も何もない素描のような構成を浮かべ、圧縮した空気を下方に向けて想い切り撃ち出す。

 すぐ下の地面に何があるか確認するなんて到底無理。もしかしたら人や建物が巻き込まれているかもしれないが、この際構っていられない。

 落下速度が弱まったところで、それを維持したまま体の周囲に空気の膜を作り出した。


 ――――ゴッ


 頭を守って何とか受け身を間に合わせたが、それでもギリギリ勢いを殺し切れず、強い衝撃に呼吸が止まる。

 強打した背にはすぐ治癒をかけ、逆流しかけるものは吐き気ごと飲み込んだ。

 意識は飛んでない。

 骨も折れていない。

 久しぶりに感じた強い痛みに、脳がぐらぐらする。肺が引き絞られて呻き声も出ない。

 ともあれ、強く打ち付けた部分はすぐに癒える。衝撃のわりに、体へのダメージそのものは大したことないようで結構。

 それまで詰めていた息をまとめて吐き出し、エルシオンは全身の力を抜いて仰向けのまま手足を伸ばした。


「……やっべ、今のは、久しぶりに死ぬかと思った……痛ぇ……」


<そ、そ、そうね、私もこれは死ぬかもって思ったわ、よくあの高さから落ちて無事だったもんよ、ビックリした! ビックリしたわ驚かせんじゃないわよーっ! ちょっと、いくらアンタでもあの高さから落ちたらタダじゃ済まないんだから!>


「いや、オレのせいじゃねーし……。ビックリしたのはこっちもだ。多少油断してたのは認めるけどさ、いきなり空に飛ばされるとか思わないだろ。何だ今の、転移か?」


<転移には間違いない、でもヒトの術じゃないわね、たぶん……>


 エルシオンは次第にトーンダウンする相方の声に眉を顰め、それから寝そべったまま周囲を見回す。

 辺りに人の気配はなく、こちらを覗き込むようにして生える深緑色の針葉樹しか視界に入らない。

 だが上体を起こして視点がわずかに高くなると、その木々の向こう側によく知っている建物が見えた。

 真っ直ぐに、空を突くようにして伸びる白い塔。


「なぁおい、ここってもしかして、王都だったりするか?」


<え? ……うわほんとだ、ずいぶん座標が動いたわね。ここは王都の裏手にある森よ、少し東に行くと城下の外塀があるわ>


「だな、来たことあるから知ってる」


 首を傾けて見上げる先、中途半端な色に染まった空を背景に、何にも染まらない白い塔が聳える。

 聖堂の象徴でもある『白い塔』は主要な街の聖堂に必ず併設されているが、ここまでの巨塔は他に類を見ない。

 自分が最後に見た時よりもまっさらな白さをしているから、ここ十年ほどの間にまた塗り直されたようだ。


 木立に半ば隠れている太陽の位置は変わっていない。

 ならばこの時間帯は午後の祈祷節のため、ほぼ全員が中央の間に集まっているはず。

 落下中に風を起こして派手に木々を薙ぎ倒したけれど、気配を探る限り付近には誰もいないようだ。

 裏手の森は曲りなりにも王家の私有地、この時間に祈祷をサボってこんな場所をふらふらしているような不届き者はいないだろう。

 もし目撃者がいたら面倒なことになっていた。やられたことはともかく、落ちた場所はまだ運がよかったと言える。


<乱暴な着地だったから、街の中じゃなくてよかったわね>


「まあそれはいいんだけど、人の術じゃないってどういうこった。屋根から降りてきた女が何もしてないのはわかる、だけど他にいたのは子どもと伸びた男だけだろ。まさかアイツ起きてたのか?」


<だからヒトじゃないってば。でもそこらの汎精霊がこんなコトするわけないし、となると大精霊クラスの何かがちょっかいかけてきたとしか……。やだわ、アンタまた変な恨みでも買ってるんじゃないでしょうね?>


「うげ、大精霊かよ。オレあいつら嫌いなんだよなぁ」


<そーいうのやめなさいよ、聞かれてるからね。私も嫌いだけど!>


「聞かせてんだよ」


 今さら何を取り繕ったところで無駄なだけ。彼らに好かれていないのは知っているし、エルシオンの中でだって好悪と優先順位は揺るがない。

 自我のある精霊なんてロクなものではない。

 『勇者』であることを捨てた男は、その場に座り込んだまま乱れた髪をかき上げる。


「何だお前、オレが飛ばされる時に何があったのかって、ちゃんと見てなかったのか?」


<アンタが! おかしな魔法にかかるから、その解析をしてあげてたんじゃないのっ!>


 ということは、人ならざる力によって転移させられた件以外、あの時起きたことは把握しきれていないのか。

 ……と、後頭部についていた土を払いながら、エルシオンは思惑を表に出さないようにそっと息をつく。


 今にして思えば、短刀を投げてきた女は素振りから見ても陽動だったのだろう。まんまとそちらに気を取られ、注意の大半が逸れた。

 守るつもりで向けたその背に、軽くふれる感触があったことはハッキリと覚えている。

 あの時、背後にいた三人のうち誰かが、自分にふれて何かをした。相方の言うことが正しければ、大精霊クラスの存在に何らかの手段でコンタクトを取ったらしい。

 それはあの少女か、少年か、倒れていた男か。


 背中の打撲が癒えているのを確認し、立ち上がって服やマントについた土を軽く払う。

 荷物は走るのに邪魔だから、先に収蔵空間インベントリへ放り込んでおいて正解だった。旅人を装うための小道具だから大したものが入っているわけではないが、記憶を抜いている以上、持ち物を残すのは得策とは言えない。

 跳ばされることを予見していたわけではなくとも、下手に手掛かりを残さずに済んでよかった。

 もしかしたら、自分を転移させた相手には、記憶の消去が上手く働いていない可能性だってあるのだ。


「ドンピシャだな。間違いない、イバニェス領かその付近に潜伏してる」


 拳を、強く握る。

 伸ばした手に掴みかけた手掛かりが、また指の間をすり抜けていった。それでも、そこにあると判明しただけ収穫は大きい。

 ここからまたイバニェス領へ戻るまで、馬で駆け続けても十日以上。こうして生かしておいたなら、戻ってくることも予見している……ということは、その間に何らかの対策を取るつもりなのかもしれない。

 自分との遭遇が相手にとって予想外だったのなら、単純な時間稼ぎこそ最も効果的だ。

 だから下手にぶつからず、あの場からの除去を最優先にした。その潔さに舌を巻く。

 背にふれられて即、跳ばされた。

 せっかく未知の魔法で体の自由を奪ったのだから、そのまま一息に刃物で突けばよかったのに。

 もっとも、そうされた場合は対処のしようがいくらでもあった。手足は動かなくても魔法は使えたのだから、ちょっとでも敵愾心を向けられれば反射で殺せる。


 相手はこちらの力量を正確に読んでいた。

 ――いや、やり口から見て、こちらが名乗る前にすでに正体を察していただろう。

 あの路地で追いついた時点で、男は伏せ、少年はその傍らで俯き、少女は後ろを向いていた。

 あれはおそらく、自分に顔を見せないためだ。

 追っているつもりで誘導されていた。まんまとしてやられたわけだが、悔しさよりもなぜか笑いがこみ上げる。

 相手を侮り、力量を見誤ったのは自分のほう。

 策にはまり、無防備な背に魔法をかけられた。

 跳ばされた先は普通の人間であれば生きていられる高さではなかったし、ただ殺すだけならあの場でやったほうが転移よりもコストがかからない。途中で立ちはだかった自警団の男は、術を用意するまでの時間稼ぎか。


 自分たちでは殺すことのできない『勇者』を、入り組んだ路地を逃げ回って適した場所までおびき寄せ、防ぎようのない手段を用い、隙を突いて遠方へ跳ばすことだけが狙いだったのだ。


「……ハハッ、やってくれる」


 唇を歪めて薄く笑う。

 対外用の笑顔を作るのにはすっかり慣れていたが、心から愉快だと思えるのは久しぶりだ。

 痛みも楽しさも、きちんとラッピングしてお返しをしなければ。


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