第162話 探索者アルト、再び①
ベッドの枕側に設えられた棚からアルトが見守る中、リリアーナは重ねた枕に背を預けた姿勢で読書をしている。
生前から知識の摂取に貪欲で、特に本を好むアルトの主は、そのジャンル自体にはこだわりがない。
自分の知らないこと、あまり詳しくないものが書かれているものなら種別を問わず何でも読む。
書斎に収められている本のうち、特に興味のある分野はすでに粗方読破してしまったそうで、最近は一度読んだことのある本を再読していることも多い。
だが、今開いているのは先日まで書斎には置かれていなかった本だ。屋敷の誰かがリリアーナのために取り寄せたのだろう。
目立った汚れはないものの、劣化を分析した限りでは刷られて数年から十年ほど経っている。
真新しい本は高価だというから、貸本や中古本を扱うような商業形態があるのかもしれない。
「アルト」
<はい>
呼びかけにすぐさま返事をすると、リリアーナはその目で文字を追うのを止めないまま言葉を続けた。
「お前を持ち歩く手段については、ちょうど思案していたところなんだ。今の形状も中々気に入ってはいるが、もうそろそろぬいぐるみを持ち歩く年齢でもなくなるしな」
<さ、左様ですね……>
「何か袋に入れるとか、紐を通すとか、持ち運びしやすい形で良いアイデアがあったら教えてくれ」
<紐ぉっ? あ、はい、わかりました、私も考えてみます>
まさか宝玉に穴を空けるつもりなのでは、……とは訊けなかった。
リリアーナがどうしてもそうしたいと言うのであれば、元々拒否するつもりはないのだし、その権利もない。
自身の構造に関しては未知の部分が多く、果たして物理的に穴を空けても機能に問題はないのだろうか、ということはちょっとだけ気になるけれど。
ただでさえ空間を渡ってくる際に質量が目減りしているというのに、この状態で穴が空いたら一体どんな影響が出るだろう。
……だが、そうすることで今までと変わらず肌身離さず持ち歩いてもらえるなら、それも構わない。
部屋に置き去りにされるよりは、ずっといい。
そばにいることさえ叶えば、何かしらの役には立てるはずだ。
ページを捲る音が、だんだんと緩慢になってきた。
目蓋が重そうで、少し進んではまた同じ行を読み返している。
<少しお休みになられますか、リリアーナ様>
「ん……、そうだな。夕方まで、ちょっとだけ」
小さなあくびをしながら栞を挟み、サイドチェストに本を置いたリリアーナは幼い仕草で毛布へ潜り込む。
ごそごそと動いて心地よい体勢に落ち着いたのだろう、枕に頭を沈めて長い息を吐く。
「アルト」
<はい>
「……好きに動くのは構わないが、誰かに見つかって、驚かせたりは、しないように……」
<はい、重々心得ております>
語尾が不明瞭になったリリアーナは、しばらく様子を見ているうちに呼吸が深くなり、すぐに寝入ってしまった。
疲労回復と筋繊維の修復のため、体が睡眠を欲しているのだろう。
体温と脈拍、呼吸の様子を見守り、当分は目覚めそうにないことを確かめて、そっと音をたてないようヘッドボードの上から飛び降りる。
一度バウンドしてから着地。そのまま綿の弾みを利用し、扉までぴょんぴょんと跳ねて移動した。
居室へ繋がる扉は、開閉時に音がしないようフェリバが少しだけ隙間を開けている。
宝玉が通り抜けるために少しだけ押し開けて、中綿を潰し、わずかな隙間からぬるりと体を捻り出した。
「あ、アルちゃんだ!」
物音はたてなかったのだが、目敏いフェリバがすぐに気づいて寄ってきた。
傍らへしゃがみ込み、手のひらの上に拾い上げられる。
<リリアーナ様はよくお眠りになられておりますぞ>
「まだ疲れが取れてないんですかね、お夕飯までゆっくり休んでもらいましょう。……で、アルちゃんはどうしたんです? また探検ごっこして盗み聞きに行くんですか?」
<盗み聞きだなんて、いや、こ、これは情報収集のための立派な諜報活動でありますからして!」
フェリバの手に乗せられたまま、アルトは体を上下に伸縮させながら弁明を試みる。
主の許可を得てまで部屋を出てきた理由を、一目で看破されるとは。
できれば前回同様に助力を求めたいと考えているため、目的を悟られること自体は構わない。やろうとしていることも盗み聞きに違いない。
だが、建前としては形状の優位性を利用した情報収集なのだ。「悪いこと」にフェリバを加担させるわけにはいかないという、アルトなりの矜持がそこにはあった。
「リリアーナ様のためならお手伝いしてあげたいのは山々なんですけど、旦那様の執務室や私室のあたりは普段あまり近づかないので……近くまでは連れて行けても、こないだみたいなチャンスはあんまり期待できないですよ?」
<いえ、付近まででも、お連れ頂けるのでしたら十分です。この姿だからいけないと前回学習いたしましたので、今回は別の手を考えております>
「と、仰いますと?」
テーブルを片付け終えたトマサが近寄り、横からフェリバの手元を覗き込むようにしてたずねる。
<父君のおられる部屋へ食事やお茶を運び込む、あのワゴンが用意されている場所までお連れ下さい。後は自分で何とかいたします>
「確かに、そろそろ執務室へ軽食をお運びする時間だとは思いますが……」
言い淀むトマサの言葉を継ぐように、アルトは左右の角をわさわさと動かす。
<イバニェス家の方々が、お食事への混入物を特に注意されている理由は、私も存じ上げております。ワゴンに積まれた物には一切ふれないとお約束いたしますので、どうかご安心を>
「……そう、ですか。いえ、そのことだけではなく、旦那様方があえて伏せている情報には相応の理由もあるでしょうし、あまりみだりに秘密を探るようなことは。私としては推奨いたしかねます」
「トマサさん、でもアルちゃんは、」
「ですが。私も旦那様がリリアーナ様へ自らプレゼントされたあなたのことを信じたいと思います。どうか、聞き知ったことをそのまま全てリリアーナ様へお伝えしたり、憂慮のもとを増やすようなことだけはなさいませんよう」
綿の詰まった体を折り曲げ、深くうなずく動作をして承諾を返す。
トマサの言葉を聞いて、もしかしたら自分はファラムンドが与えた新種のペットだとでも思われているのでは、と気がついたアルトだったが、あえてそこにはふれずに侍女の懇願を請け負う。
リリアーナのお付きがどちらも理解のある女性で良かった。
もしふたりに止められていたとしても、単身で一階まで降りてファラムンドの執務室へ侵入するつもりでいた。
この単独行動にはそれだけの覚悟が、必要があるのだ。
前回は幼いリリアーナに対しての隠し事の多さが気になり、何か役に立てる情報を掴めればとの一心で探索へ赴いた。
だが、今回はもっと明確な理由が存在する。
主の命にも関わる重要事項だ。
幼い子どもに知らせるようなことではない、という大人たちの判断だけで、その情報を遮断されることは何より恐ろしい。
対処も防備も何もかもが後手に回っている今、「知らなかった」では済まないのだから。
もし彼らが変に隠し立てをせず、当事者のひとりである娘にきちんと情報を開示するつもりがあったとしても、おそらく全てを打ち明けることはないだろう。
だからこそ、先にこちらから元の情報を探る必要があると、アルトは独断した。
<……むむ、どうやら馬車が帰ってきたようですな>
「馬車?」
<朝方、早くに馬車で屋敷を発ったあの眼鏡……侍従長とエーヴィ殿が、戻ってきたようです。もうじき玄関のそばに停まるのではと>
「へぇぇ、アルちゃんそんなことまでわかるんですか、すごーい!」
探査の方向を絞れば、おおまかにではあるが別の階の様子も探ることができる。
精度は落ちるため、既知の人物の動向を見るのが精一杯。もう少し接近しなければ、所有物や馬車の個室内の様子もわからない程度だ。
――本体である杖があれば、知覚範囲はこの数百倍にも及ぶのに……。
毎日のように浮かぶ悔恨を押し潰し、思考領域外へとデリートする。
今の自分は『アルトバンデゥスの杖』ではなく、ぬいぐるみの『アルト』だ。
各種能力は落ちてしまったけれど、自律行動は杖の頃には持ち得なかった機能であり、この姿の自分にしかできないことも確かに存在する。
だから今は『アルト』として、可能な限り主の役に立ってみせると決めていた。
「うーん。侍従長がお戻りなら、すぐ執務室へ向かわれるでしょうし。きっとお茶の支度もいりますよね?」
「そうですね。……ああ、フェリバ、そういえばリリアーナ様が休憩時にお飲みになる茶葉が残り少なくなっていました。手が空いているのでしたら、今から補充に行ってもらえますか?」
「まっかせてください、すぐに行ってきます!」
威勢のよい返事とともに、フェリバは手に乗せていたぬいぐるみをエプロンのポケットへ突っ込む。
部屋の備品はいつもきちんと整備されているし、こんな時間になって茶葉の補充をするなんて普段では決して有り得ない。
……いや、きっと茶葉は本当に残り少ないのだ。
だからトマサは侍女としてその補充が必要だと判断し、フェリバは頼まれて厨房へ向かう。
不自然なことは何もなく、彼女らの行動に一切の瑕疵はない。
同じ主を持つ侍女たちの心遣いに感謝し、ありがたいと思うからこそ、決して見つかるわけにはいかないとアルトは自身を強く戒める。
誰にも悟られないよう密かに潜入し、何としても必要な情報を持ち帰るのだ。
固い決意に思考領域を震わせていると、布越しにぽんぽんと宥めるような優しい手がふれる。
礼と返事の代わりに、アルトはポケットの中で角をはためかせた。
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