第163話 探索者アルト、再び②
屋敷の西側一階には、廊下が二重構造になっているエリアがある。
普段は侍女や従者など一部の使用人しか通らない細い廊下は、厨房で作られた飲食物の運搬に使われているらしい。
外から持ち込まれた物資の移送などには通常の廊下を使用しているため、従業員用通路というわけでもないようだ。
おそらく、運ばれる途中で外部の人間と接触することのないよう、食事の運搬専用としているのだろうとアルトは推測している。
いつも通る廊下の、壁の向こう側にもうひとつ通路があることは主にも告げているが、特に用がないためリリアーナは立ち入ったことがない。
「あっと、ごめんなさい!」
手にしていた瓶を取り落としそうになったフェリバがよろめき、すれ違う手前だった侍女が押していたワゴンごと立ち止まる。
双方には一歩分ほどの距離が空いており、接触はない。
瓶をしっかりと持ち直し、足を止めてしまったことを謝罪するフェリバ。
やや年嵩の侍女は顔見知りなのだろう、仕方ないなという様子で苦笑し「気をつけなさいね」と柔らかく注意した。
「……ああ、それってリリアーナ様のお茶よね。昨日、侍従長が新しい茶葉を発注していたから、入荷したらそちらにも報せるわ」
「新しいお茶ですか? わぁ、楽しみにしてます!」
注意するようにと言われたばかりなのに、フェリバは片手で瓶を胸元に抱え、空いた手を大きく振りながら反対方向へと歩き去る。
本当に仕方のない子だと小さく笑いながら、侍女は再びワゴンを押して歩き始めた。
<感謝いたしますぞ、フェリバ殿ー!>
金属製のワゴンの下段、その裏側にぴったりと貼りついたアルトは遠ざかる背に向けて想うだけの念話を浮かべる。
材質次第では貼りつき方を変えなければならないと危惧していたが、台の裏側は以前見たものと同じ、よく磨かれた真鍮製だった。
ぬいぐるみの表面を変形し、組成を変えて密にした上で四つの吸盤を生成。宝玉と綿の重みを支えるくらいはそれで充分だ。
このワゴンが執務室から運び出されるまでの間は十分もつだろう。
三段になった台の一番下は床からそう離れておらず、這いつくばってのぞき込もうとでもしなければ、まず見つかる心配はない。
前回の反省点を顧みた上で考案した潜入方法が、これだった。
脚を作ることで自ら動けるようになったと、そればかりに意識が向いていたのがいけなかった。
それなりの広さがある執務室の中で見つかってしまったのは、彼らの目敏さが計算外だったということもあるが、焦りと慢心から無用に動きすぎた自分の失敗だ。
情報を収集するためには、あの部屋へ忍び込めさえすればそれで十分。
何も自ら動く必要はない。
幾度も訪れた表の廊下に出てしばらく進み、重厚な扉の前で停められる。
侍女のノックに応える声は部屋の中からではなく、廊下の先からかけられた。
ちょうど目的地が同じだったのだろう、黒い杖をついた男が近寄ると二言、三言交わして積載物を確かめ、後の支度を請け負う。
そうして内心でほくそ笑むアルトをくっつけたまま、領主への軽食を乗せたワゴンは執務室へと運び込まれた。
「失礼いたします」
「ああ、戻ったか。詰め所にでも行ってたのか?」
ペンを走らせる音だけが響く室内には、領主の他に誰もいない。
静寂の積もる広々とした空間、だが前回侵入した時よりも雑多な印象を受ける。そこかしこに紙箱が置かれたり、書類の山ができているせいだろう。
大小さまざまな箱の中身も全て紙だ。そうした冊子や書簡の類に囲まれながら、大きな黒いデスクに陣取ったファラムンドが書き物をしていた。
入室した侍従を一瞥することもなく、数字を書き足した紙へ滑らかに署名をすると底の浅い紙箱へ放り込む。
机の傍らには紙の詰まった同じ箱が四つ重ねられている。反対側に積まれた紙束が全て未処理のものだとすると、完了まであとどれくらいかかるのか試算も難しい。
「ええ。キンケードに直接確認を取って、それからポポの店にも行って参りました。しばらく旦那様の顔を見ていないと言って、寂しがっておられましたよ。次はぜひリリアーナ様と一緒にいらしてくださいと」
「俺だってリリアーナ連れて行って一緒にゆっくりしたいっての。ったく、狸ジジイどものせいで余計な承認書が減りやしねぇ」
ファラムンドはそう毒づきながらも手を止めることなく、また一枚加筆とサインを終えて箱へと放り込んだ。
「……旦那様。私の見間違いでなければ、未処理のケースに昨晩置いた王室宛ての親書がまだ清書を終えず残っているようですが?」
「あぁ? そんなん後回しでいいだろ、どうせ届くまで十日はかかる、一日や二日置いたって大差ねえよ。そんなのよりアダルベルトの十五歳記の手配が先だ、本格的に寒くなる前に十四区の移住も始末つけときたいし、つか三番橋の決済が細々と別れてるのは何の嫌がらせだこれ」
「返信に時間がかかるから早めに出すのではないですか。駄々をこねて返事を延滞したせいで一昨日の事態を招いたことをもうお忘れですか。頭蓋に鳥の巣でも詰まってるんじゃありませんか?」
「誰が鳥頭だこの野郎。ソレはそれ、コレはこれって言葉知らないのか」
「だからって王室からの親書を放置とか気が知れませんよ。心臓に毛でも生えてるんですか」
「失礼な、俺の心臓はつるつるしっとりだよ!」
「え……まさか本当に、毛が、生えていないと……?」
「真顔で何言ってんだお前。内臓なんだから毛なんて生えないだろ、普通、たぶん、いや……あれ? 生えないよな?」
そう言ってペンを置き、朱肉をつけた判を書類に押し当てながら反対の手で胸元を撫でる。
おそらく循環器に毛は生えないと思われるが、個体差までは把握しかねるため、アルトにも断言はできない。
生体内の探査はできても、体のつくりそのものに関してはリリアーナのほうが知識を備えていると言える。
「そんなことはどうでも良いので、親書への返信は優先してしたためておいてください。それから、今朝デスクへ置いておきました自警団からの報告書には、目を通して頂けましたか?」
「あー、あの代筆君のやつか。読んだよ、その裏を取りに行ってたってことだろ」
また新たな書類を取り出し、それに目を通しながら答えるファラムンド。
カミロはワゴンに乗せられたティーセットを用意し、ペン立ての横に置かれていた空のカップを回収する。
もしかしたらリリアーナが気にするかもしれないと思い、念のため男の体を一通り精査してみるが、さしたる異常は見られなかった。
脚部にも目立った炎症等はなく、肉体へのダメージで言えばリリアーナ自身のほうが余程体を痛めている。
ただ、数値として明確な異常は確認できずとも、アルトは男がどこか悄然としているように感じた。
精神的な疲労によるものだろうか。普段よりいくらか覇気に欠けるように見えるのだが、その原因まではわからない。
「俄かには信じ難いことですので、本人たちから直接話を聞きたいと思いまして。一昨日起きた出来事についてはすでにお話した通りではありますが、今後の対応として色々と手を打たねばならないことが……、何ですか?」
ファラムンドは仕事の手を止め、ワゴンの上で配膳の支度をしている男を険しい顔で凝視していた。
銀のクロッシュを外して軽食の点検をしていただけで、その動きに不審なものはない。話の内容が何か気になったのだろうかと、アルトも内心で不思議に思いながら観察を続ける。
「一昨日の話。俺に報告した以外で、まだ何か隠してるだろお前」
「……」
鋭い声音の追及に、侍従の動きが止まる。
だがそれも一瞬のことで、濡れた布巾で手を拭いながら平素と変わらない顔を机に向けた。
「必要なことは、全て漏らさずご報告申し上げましたが?」
「いや、何か隠してる。その手のことで俺の勘は外さない、お前も知ってんだろ、吐けよ」
「……聞いても後悔しませんか」
アルトが固唾を飲んで様子をうかがう中、それまで握っていたペンを置いてファラムンドは椅子の背もたれへ体重を預けた。
「言ってみろ」
「街を歩いていて、三回、リリアーナ様と親子に間違えられました」
「ハァァアァァッ???」
広い室内にファラムンドの叫びが響き渡る。
林檎売りの老爺、ブニェロス屋台の店主、それから菓子屋の女傑にそう間違われたことは、アルトも記憶している。
顔立ちは全く似ていないのだが、髪の色と服装からそう判断されたのだろう。
似ていないと言えば、実の父親であるファラムンドも容姿に関してはリリアーナと共通する部分が見られないため、もしかしたらふたりで歩いても親子とは認識されないかもしれない。
「なん、おま、くそっ、俺だってまだリリアーナと街歩きなんてしたことないのに! 今日は大好きなパパとお買い物ですか~とか言われてはにかむ顔を見たことないのに! ちっちゃいおててと手を繋いでウキウキショッピングしたいのに、ふざけやがって、もう二度とお前をリリアーナと一緒に歩かせるもんか! バカ! メガネ!」
「そうですね。詳細は後述の五件あるご報告へ含めますが、キンケードの体が空きます。次回からはまたあれをお伴の護衛につければよろしいかと」
クロッシュの中身をひとつ小皿に取り分けながら、侍従の男は動じた様子もなく話を続ける。
食器類が動くたびにワゴンを通してアルトまで振動が届く。中段にはカトラリーや皿が乗せられているが、最下段には何も乗っていない。
このままじっとしていれば見つかることはなさそうだ。
「ん? あの武器強盗とやらの件がどうにかなったってことか」
「ええ、まあ」
「何だよ、もったいぶって」
「物事には順序というものがございます。先ほども申し上げました通り、本日は大切なご報告が五件ありますので。……ところで、もう昼食はお召し上がりになられましたか?」
「あ?」
「まだお済みでなければ、こちらをお召し上がりください。鴨肉と野菜、それと燻製チーズのサンドイッチですよ」
毒見のためだろう、小皿へと取り分けたひとつを立ったまま口にする。
話の流れを中断して、突然の食事の勧め。ファラムンドは怪訝な顔をするが、それに構わずカミロは二口で食べきってしきりにうなずきながら、「おいしいですね。マスタードの辛さと何かの風味が芳醇な鴨肉を引き立てて……これは八朔でしょうか」なんて感想まで述べる。
「何だよ急に」
「いえ、食欲がなくなられてはいけないと思いまして」
ハンカチで口元を拭い、余分に用意されていたカップへ香茶を注いで一口含み、嚥下する。
そうして確認を済ませてから瀟洒なカップへ同じものを注いだ。
「旦那様の毛が生えていないつるつるの心臓でも耐えられるよう、五件は私の一存で順序付けをいたしました。厄度の低い順にご報告いたします」
「厄度」
「ああ、それとも、吐かないように聞いた後でお召し上がりになりますか?」
「一体どんな報告を持ってきたんだお前……」
「私だって、望んでこんなご報告をするわけではありませんよ。それで、どうなさいますか、先にお召し上がりになられますか?」
「ああ、いいよ、食べながら聞く。さっさと話せ」
げんなりとしたファラムンドがそう答えるなり、眼前に書類を広げたままその左側にサンドイッチを並べた皿とティーカップが置かれる。
食事と仕事と報告の聴取を全て同時に行うつもりなのだろう。置いていたペンを取り数字を書き込みながら、左手でカップを持ち上げた。
カミロは処理済の紙箱を重ねて回収し、窓側の机へと運ぶ。そちらにも仕事用と思しき椅子が置かれているが、それには腰かけず執務机から数歩離れた位置で直立した。
そして、その場で告げる。
「では厄度数・二から」
「待て。それ、上限はいくつなんだ?」
「私の許容限界値を百と仮定した場合の数値ですね」
「……。……。まぁいい、続けろ」
ティーカップに口をつけるファラムンドの顔は苦々しく、やはり食後にしておくべきだったかという後悔が滲んで見えた。
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