第153話 持ち札
まばらな通行人をよけながら土がむき出しの道を駆け抜け、またひとつ廃墟らしき建屋の中を突っ切り、木枠の朽ちた窓から脱して角を曲がる。
消音の効果で走る靴音も消えているためだろう、接近するまで気づけないでいた人々はすれ違うたびに驚いた顔をしてこちらを振り返る。
それらに構わず駆け続けるカミロの息は荒い。もはや平静を繕うことすら難しいほど疲弊してきているようだ。
キンケードに足止めを託し、一度ペースが上がったものの、ひとつ前の通りから徐々に速度が落ちてきているのがわかる。
ふたりも抱えたまま、万全ではない足で相当な距離を走っているのだ。もうこの体勢で逃げるのも限界だろう。
「……っ、と、止まれ、一旦……。……も、むり……」
カミロに制止の声をかけようとした寸前、その脇に抱えられているノーアからか細い声が上がった。
数歩かけて歩みを止めたカミロは、そばにあった木箱の陰でゆっくり足を屈めてノーアを地面に下ろす。
足から着地させたはずだが、少年の体はそのまま土の上にべしゃりと崩れ落ちた。
「ノーア! どうした、どこか痛むのか?」
「……。き……、きもちわるい……、吐きそ、ちょっと、待て……」
俯いたまま、真っ白な顔でそれだけ言うと口元を押えてうずくまる。
どうしたものかと両手を左右へさまよわせ、とりあえずそばに座り込んで丸まった背をさすってやった。
短い呼吸は不規則で荒い。
血の気の失せた顔と浮かぶ冷や汗、自分が貧血を起こした時と症状がよく似ている。
横からカミロが真新しいハンカチを渡してきたので、それをノーアの手に握らせた。額へ押し当てるだけで玉のような汗は全く拭えていない。
「私の落ち度です、申し訳ありません。なるべく腹部は圧迫しないようにしていたつもりですが……。この先は、背に捕まって頂いたほうがよろしいでしょうか」
「私とノーアの位置を交換してはどうだ? ……いや、やめよう。カミロもこれ以上無理をするべきではない」
「いいえ、リリアーナ様、どうか私のことはお気遣いなく。問題ありません、あと少しで馬車を呼んでいる場所へ着きますから」
隣に屈み込んだまま、カミロは強情にそう言い張る。
いつものように大きな手で眼鏡のブリッジを押さえる仕草。そうして自分の視線から隠しているようだが、輪郭にはとめどなく汗が伝い落ちている。
<キンケード殿は言葉巧みに対象を足止めしている模様、もう少しでしたらここで休憩をしていても大丈夫そうですが……。やはりこのまま馬車へ乗り込んでも、すぐに追いつかれる懸念が>
アルトの言う通りだ。何度もそれを思案してみたが、やはり馬車へ着く前に何らかの手を打たなければ、奴から逃げ切ることは難しい。
今展開している探査妨害、および熱と音の遮断を維持したまま新たに描ける構成は一枚が限度。
もし目の前まで追いつかれたら、それらの防壁を全てキャンセルして余力の全てを別の魔法につぎ込むことも叶うが、発動までのロスは格好の隙となるだろう。
生前のように、一瞬で複雑な構成を描ききるほどの力はないのだ。
魔法だけであれと渡り合うには分が悪すぎる。
<あっ、剣を抜きました、対象と交戦する気のようです。しかしあんな粗雑な武器ではそうもちませんね、リリアーナ様が強化された剣を携えていれば良かったのですが……>
一概にそうとも言えない。あの剣は並の魔法師ならともかく、そうとわかる者が視れば一目で刻まれた構成に気がつく。
常人が手にするには過ぎた
ぶつかって敗北し、足止めを断念したとして、ただの自警団員であればそのまま見過ごされるかもしれない。だがあんなものを持っていては相手に余計な懸念を抱かせる。
カミロから信頼を寄せられるほどの腕前を持つキンケード。強化した剣があれば、もしかしたら奴と良い勝負に持ち込めるかもしれない。
……が、それも可能性の話。
彼の身の安全を考えるなら、やはり今日あれを帯剣していなかったのは運が良かったと捉えるべきだろう。
剣技だけで渡り合えたとして敵う相手ではない。
奴は『魔王』に比肩しうる、最高峰の魔法能力をも備えているのだから。
「……はぁ。もういい、少し、落ち着いた。……別にあんたのせいじゃない、揺られて酔っただけだ」
「もうちょっと休んでいろ、ノーア。まだ立てもしないだろう」
「別に僕は、」
――――――。
光と轟音。
鼓膜が叩かれる、大気と地面を同時に揺する大音量。
ビリリと肌が痺れ臓腑にも響くほどの振動は、真っ白な閃光と共に訪れた。
だが、遠い。
はっと顔を上げて背後を振り返るが、一瞬の爆音はすでに去り、目に映る範囲の狭い景色にはもはや何の余韻も残ってはいない。
驚きと焦燥に、鼓動が早まる。
地に手をついていたノーアが、同じように後ろを見ながら顔を上げた。
「な、何だ、今の」
「
あのすさまじい音も閃光も覚えがある。かつて魔王城でも、好き放題に撃ち放ってくれた雷撃と全く同じものだ。
砕け散ったステンドグラスの破片が宙を舞う光景、長い時間をかけ苦心して作り上げたものが一瞬で破壊される、あの喪失感は五十年近くを経た今でも忘れがたい。
……いや、昔の恨みなどひとまず置こう。
今は直面している問題に集中するべきであって、苦心して設えた大窓を吹き飛ばされた時の絶望など思い起こしている場合ではない。
<キンケード殿は……息があります、ご安心を。ちょっと焦げておりますが、大事ない様子。所持していた剣はもう使い物になりませんが、本人は無事なようです>
詰めていた息を吐き出した。
……良かった。『守護』を命じた精霊たちにあれだけまとわりつかれているなら、きっとどうにか守ってもらえるだろうとは思っていたが、それも不確定な推測にすぎない。
自ら構成を描いて、効果の実行を命じているのとは訳が違う。
身勝手で気まぐれで、言葉も通じない精霊たちの自主性に任せるだなんて、キヴィランタにいた頃は考えもしなかった。
「さっき置いてきた、あの変な……キンケードとか言ったか。あいつ、やられたんじゃないのか?」
「問題ありません。あの程度でやられる程、やわな男ではありませんから」
「あの程度って……」
そばに屈み込んだカミロがノーアの手首にふれて脈を取り、加減を見る。
双方とも、いくらか呼吸は落ち着いてきたようだ。
その横で立ちくらみがしないよう慎重に立ち上がって、駆けて来た路地の暗がりへ目を向けた。
視界の端に何か動くものがあり、顔を上げてみると、細く切り取られた空を小型の鳥が二羽飛んでいる。
<あ、上にいるのは、侍女のエーヴィ殿です。廃墟を抜けたあたりからずっと屋根伝いについてきております>
「……!」
アルトからの報告に少しだけ驚く。
追っ手ごと護衛たちも撒いてしまったものとばかり思っていたが、そんな所から見守ってくれていたのか。
カミロの指示によるものかはわからないが、おそらくこの男は上にエーヴィがいることも知っているのだろう。
気づかれないようにしているのなら、そちらは見ないようにしておこう。
<リリアーナ様、対象が追跡を再開しました。だいぶ南へ来ましたが迷わずこちらに向かっているようです。探査の逆探知については、申し訳ありません、まだ何を手掛かりに追っているのかは掴めておりません>
「来るか……」
もうここまで所在が掴まれているなら、今張っている防護は切ってしまっても変わりないだろう。
会話が聞かれないよう、念のため消音のみを残して他の構成を破棄する。負担が減り、ほんの少しだけ体が軽くなった。
「何、してるんだ」
「ノーア、じきに奴が来る。わたしは少し時間があればいくらか複雑な構成も描けるが、正直、真っ向からやりあって敵う相手ではない。魔法でも道具でもいいから、お前の手持ちに何か有効と思えるものはないか?」
「……有効、か。僕にできるのは、せいぜい精霊たちを動かすことくらいだけど……そうだな、君の腕前次第では、もしかしたら奴にも通用するかもしれない」
何か手があるのなら、この際何でも試してみるべきだ。こちらを追う『勇者』はもうすぐそこまで迫っており、検討を重ねる時間もない。
相談のため考え込むノーアのそばへ再び屈もうとすると、カミロの手に肩を押し留められた。
「お待ちください、リリアーナ様。あなたが危険を冒すようなことはあってはなりません。……この先を真っ直ぐ行って、二つ先の分かれ道を左に進むと大きな通りに出ます。そこに馬車を待たせておりますので、このまま彼と一緒に向かってください」
「な……にを、言っているんだ、カミロ。まさか、お前だけここに残るとでも?」
その問いに答えることなく、男はコートの内側を探って貨幣を入れている袋と、小さな布包みを取り出した。
端に小さく、イバニェス家の紋章が金糸で縫い込まれているのが見て取れる。
「こちらを馬車へお持ちください。大丈夫です、こう見えても多少の心得はありますので」
給仕や書類仕事とは訳が違うのに、何でもないことのようにそう言って、こちらの手を取り布包みを握らせようとする。
紋章の刺繍は、身元を知られる危険がある物品ということだろう。そんな物を預けて、身軽になって、一体どうする気だというのか。
押し返そうとしても力で敵わない。
財布と包みを持たされ、その上から皮手袋をはめた両手にぎゅっと握られる。
「馬車でお屋敷まで戻れば、旦那様がいらっしゃいます。守衛部の者たちもおります、どうかお屋敷へ向かってください。身元が知られようと、家に類が及ぼうと関係ありません、きっと旦那様もそう仰るでしょう。あなたの身より大事なものなど、ありはしないのですから」
「カミロ……!」
そのまま立ち上がろうとする男の袖を押さえても、いつものように動きを停止することなく、土で汚れた裾に構いもせず姿勢を正した。
腕にがっしり組み着くと足が浮いてぶら下がったが、放してはやらない。
無理に剥がそうとするなら噛みついてやる。
「ふざけるな、わたしは、自分の身が大事だが、お前のことも大事なんだ! キンケードのことだって捨て石にしたつもりはないぞ、そんな身を捨てるような覚悟で残るなどと言うな、絶対に許さないからな!」
「リリアーナ様、無茶を承知で申し上げております、どうかここはお聞き届けください。彼を連れてお屋敷へ」
「だーめーだー!」
コートの腕にしがみついたまま、首だけでノーアを振り返る。
もう体調は落ち着いたようで、顔色は悪いままだがしっかりと上体を起こし、木箱へ寄り掛かるようにして座っていた。
鏡をのぞき込んでいると錯覚するような、同じ瞳が自分を見ている。
「ノーア、お前の持ち札を聞かせろ」
「……」
「補佐が必要なら何でもしてやる、言え、大抵のことは叶えられる。助かりたければ、わたしの腕を信じろ!」
「……脅迫もいいとこだけど、君の魔法は一級品だ。いいよ、信じる」
少年がそう請け負ってうなずくと、抱えている男の腕から力が抜けた。
だがまだ油断はならない。肘の辺りを掴んだまま体重を全部かけてしがみついていると、「降参です」と呟いて、握りしめている手の上からぽんぽんと軽く叩かれる。
もう変な意地を張る気はないらしい。
右手に持たされていた布包み屈んだ胸に押し返せば、カミロは口の端に苦笑を乗せてそれらを受け取った。
「力の限りお手伝いいたします、何なりとお命じください」
「さ、最初からそう言え。お前が身を盾にするなんて、父上を守る時だけで十分だ」
掴んだままでいた黒いコートの袖口を引いて、木箱の陰に寄る。
カミロはベルトに挟んでいた杖を引き抜き、前面に立てたそれに体重をかけるようにして直立の姿勢を取った。
もうこの男の足に負担はかけられないし、ノーアの体力も限界だ。
億劫そうに立ち上がった少年が下ろしていたフードを被り直し、こちらを見た。
赤い虹彩が爛々と光っている。今の自分もそっくりな眼をしているのだろう。
強靭な追っ手はすぐそこまで迫り、時間はない。今ある限りの手札で、最大限の成果を。
――さぁ、反撃といこう。
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