第133話 潮風の男①
陽はとうに正午を通り過ぎて、足下に中途半端な影を描いている。
いつものように押し付けられた書類の山に加え、今朝は帳簿の手伝いまでさせられたものだからすっかり休憩に出るのが遅くなってしまった。
一階の時計が鳴らした十三の鐘を聴いて、はじめて空腹に気づいたくらいだから自分の集中力も大したものだ。
算板の扱いはまだ慣れないが、きっと計算の間違いもなかったはず。仕事はできている、ちゃんと役に立っている。
そう自分で自分を褒めながら、ナポルは酷使でしぱしぱする目頭を指先で軽く揉みほぐす。
「先輩たちも、昼メシに出るなら一声かけてくれたっていいのになぁ……」
朝からずっと薄暗い室内にこもりきり、細かな文字や数字ばかり睨んでいたせいで外の陽光が目にしみる。
自警団の詰め所を出るなりふらつきながらも、昼食を求めて中通りの端を歩く。
今朝は寝起きが悪くて朝食の時間に出遅れてしまった。寮の食堂はスピード勝負だ、より早く着きより早く完食した者だけが、おかわりにありつくことができる。
ナポルのようにうっかり寝過ごそうものなら、ギリギリ一人前が残されていればまだ良い方。運が悪ければ食堂のおばちゃんに忘れられて残飯にもありつけない。
今朝はその中間で、鍋の中身がなくなる寸前に取り置きを思い出してもらえたらしい。具の消えたスープとベーコンの切れ端、パンの欠片三つがナポルに残された朝食だった。
到底、十九歳の成人男性の腹に足りる量ではない。
訓練へ強制連行される日ではなくて良かった。雑念に割く余裕もなく、帳簿に没頭できたのはこの空腹のせいかもしれない。
すきっ腹を抱えて歩きながら、昼くらいはちょっと値が張ってもボリュームのあるものを食べようかと行きつけの店をいくつか頭に並べる。
普段であれば迷わず安くて量のある店に向かっていた所だが、ここ最近は懐にいくらか余裕があるのだ。疲れて腹を減らしている時くらい、ささやかな贅沢をしても構わないだろう。
ナポルは日陰を選んで歩きながら、胸元を触って内ポケットへ収めてある財布の感触を確かめる。
先日起きた領主邸への侵入者騒ぎの折に一役買ったということで、報奨金が出たのだ。いつも地味な雑用ばかりのナポルには、自警団員となって初めての誉れだった。
半分は給料を貯めている口座へ、もう半分を金貨で受け取った。そう大きな額でなくても無人の部屋に置いておくのは心配だから、常に持ち歩いている。
何かに景気よく使ってしまえれば気楽なのだが、酒は飲まないし服にこだわりもないし、生来の貧乏性で大きな買い物は怖くてできない。
そのため食事に使うくらいしか思いつかず、財布の中身はほとんど減っていない。
そもそも、自分は報奨金をもらうほどのことをしただろうか?
強盗を撃退したのは副長であるキンケードであり、彼が駆けつけるまで足止めをしたのは門番や他の自警団員たちだ。
自分はたまたま伝言の途中で馬車が襲われているのを見つけて、そのまま屋敷に飛び込んで報告をしただけ。強盗と対峙した時だって、死ぬのが嫌で避けたり逃げたりするのが精一杯だった。
負傷者の手当てが済んだ後、知らない老婆に門の前へ座らされて「情けない」「給金泥棒」と夕方まで叱られている間、本当にその通りすぎて涙と鼻水が出た。
一緒に叱られていた先輩や守衛の人たちもちょっとべそかいてたけど。
だから本来、報奨金なんてものを受け取る権利があるのは、あの馬鹿みたいに強い強盗に打ち勝ったキンケードだけなのだ。
賞賛も報酬も全部あの人が手にするべきなのに、なぜか自分までそのおこぼれに与ってしまった。
……だから、早く使い切ってしまいたい。でも大きな買い物は怖いから、たまに何かおいしいものを食べるとかで。
報奨金が出た日、自分がもらうべきではないと言ったら、キンケードは「貰えるモンは貰っとけ」と言ってあの大きな手で革袋を押し付けてきた。
あの人にそう言われては、辞退なんてできるわけもない。
酒代に使って貰おうかと思ったけれど、そんな申し出も何だか失礼な気がして結局受け取ってしまった。そのかわり、昇給と昇進の話だけはどうにか断ったけれど。
自分にそんな力はないし、強盗のあの大きな剣に殺されそうになった時、助けてくれたのはキンケードだ。倒したのも彼であって、実戦では何の役にも立っていない。
手柄なんて欠片もないのだから、褒めないでほしい。
認められるとか、期待されるとか、そういうのは苦手だ。
他人に期待されて、それに応えられなかった時の失望が怖い。
勝手に期待しておいて、それで裏切られたとか言われてもこっちのせいじゃない。……なんて思えるほど強くもないから。
自分の程度なんて自分が一番よくわかっている、誰にも期待なんてされたくない。
何も望まれず、評価もされずに、役立たずとして下っ端働きをしているほうが性に合っている。
根っからの負け犬根性は自分でもどうかと思うけど、これが生まれ持った性質なのだから仕方ない。個性とか、性分とか、そういう変えようのないものだ。
そんなしょうもない自分と比べてキンケードは、もう比べるのもおこがましいほど正反対の人間性をしている。
皆の期待を一身に受けても、絶対にそれを裏切らない。
いつもその期待以上の成果を挙げてみせる。
自警団の副長なんかに収まっている器じゃない、もっと大きなことだって成し遂げられる人。
ナポルにとって彼は、英雄だった。
物語の中だけで剣を振るう勇者なんかとは違う、ちゃんと現実にいる、目の当たりにできる英雄。
あの強盗の一件を経てその気持ちはより強くなっていた。
憧れる思いはあっても、追いつこうだなんてまるで考えられない。せいぜい彼の役に立ちたいと願うだけ。
今は詰め所から離れられないせいで、東の訓練場にも行けず日々鬱憤が溜まっているらしい。
剣の相手なんて無理だから、せいぜい書類仕事を代わりに引き受けるぐらいしか助けにはなれないのがもどかしい。
せめて詰め所の裏の運動場がもう少し広ければ――
そんなことを考えながらぼんやり歩いていたせいで、周囲への注意が疎かになっていた。
通りを横切ろうとしたところで、通行人とぶつかりそうになる。
「あっ!」
気づいて思わず声が出た時には、もう目の前に誰もいなかった。
……今、たしかに人とぶつかりそうになったのに。
足を止めて振り返ろうとしたところで、くらりと目眩がして足元がふらつく。
上下を見失う。
視界が白い。
体が傾く。
「――っ」
「おっと、アンタ大丈夫か?」
危うく倒れそうになったところで、横から伸びた手に腕を支えられた。
額を押さえながら振り仰げば、今しがた衝突しかけた旅装の男が立っていた。
腕を掴む力が強い。荷物は身軽なものだが、すり切れた大判のフードを被っている。
「あ、すんません……ぼんやりしていたもので。ぶつかりませんでした?」
「オレは平気だけど。アンタ具合でも悪いのかよ?」
「いや、ちょっと寝不足と、腹が減ってて……」
そう言って頭を下げようとしたところで、ふわりと、懐かしい匂いが鼻先を掠めた。
「潮の匂いがする……。海魚でも持ってるんすか?」
「えっ! もしかして磯臭いか?」
「いや、臭いってほどじゃないですけど。俺、海沿いの村出身なんで。なんか懐かしい匂いがするなと思って」
ほんのわずかに匂う、海の気配。
つい魚を持っているのかなんて訊いてしまったが、魚介類の生臭さとは違なる、潮風の匂いだ。
もう郷愁なんて湧かないけれど、記憶に染み付いた磯の匂いはやはり懐かしい。
それを指摘すると、男は自分の袖の辺りを顔に近づけてすんすんと匂いを嗅ぐ。
「そっか、まだ匂うか。ちゃんと流水で洗ったんだけどなぁ」
「あぁ、潮の匂いなら柑橘の皮を水に絞って、それで軽く洗って流すと簡単に取れますよ」
「へー、さすが海の男、物知りだな!」
「いや……海の男なんて程じゃ……。船酔いひどくて漁にも出られないから、この街へ働きに出てきてるくらいだし」
そんなこんな、つい言葉の応酬をしてしまったが、ガラガラと響く車輪の音でここが通りの真ん中だと思い出した。
迫る荷馬車を避け、旅装の男とふたりで道の端へと寄る。
「なぁアンタ、この街で働いてんなら、この辺のことにも詳しいよな?」
「え? まぁ、一応……」
反射的にそう返答をしてしまったけれど、おおまかな道を覚えているのは街の南側だけだ。
治安の不安定な北側は担当外だし、店などは有名所と、あとは普段自分の通っている場所しかわからない。
その程度の知識しかない自分が、旅人に訊ねられて正確な案内などできるだろうか?
誰かもっと詳しそうな相手に任せたほうが……
ごぎゅきゅくくく~……
ごまかす言葉を探す間に、腹の虫が盛大な音を鳴らした。
「……」
「そういやアンタ、腹が減ってるとか言ってたな。ちょうどいいや、どっかメシ食えるとこ連れてってくれよ」
「え、あ、はい……。昼飯を食いに出てきたとこだし、別にいいすけど」
担いだ荷袋だけの身軽な旅装、古びたローブ。身に着けている皮鎧もブーツも簡素だが質の良いものだと見て取れる。
帯剣はしておらず、武器類は腰の後ろに短剣一本を差しているのみ。
年の頃はおそらく自分と同じ程度。話してみた限りその雰囲気にもすれた所はなく、物盗りの類ではないだろうと思えた。
知らない相手と気軽に打ち解けられる性格でもないが、不慣れな旅人を案内がてら、食事を共にするくらいは構わないだろう。どうやら危ない人間でもないようだし。
そう判断したナポルは曖昧にうなずいて見せた。
「おっし、そんじゃ決まりだな。ちなみにオレは肉が食いたい! ここんとこずっと魚ばっかでさすがに飽きたし!」
「魚ばっかって、しばらく海のそばに滞在してたんすか?」
「そばじゃなくて上だけど、もう当面は魚も海藻もこりごりだ……。あぁ、名乗り遅れたな」
そう言って、おもむろに男は被っていたフードを外した。
目に飛び込んできたのは鮮やかな色彩。その色だけで、陽の季の最中を思わせるような熱に圧倒される。
ちりりと肌の焼ける気配。
そんなことがあるはずないのに、その赤を目にしただけで燃え盛る炎に炙られる幻視をする。
「オレの名は、エルシオンだ」
灼熱の髪を風に遊ばせながら、同じ色の目をした男は満面に人好きのする笑顔を浮かべた。
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