第132話 作り笑い、下から見るか横から見るか
温度の低い、柔らかな手が外界と眼を隔てる。
真っ暗な中で呼吸を二三繰り返すうちに、沸き立つようだった激情が呼気とともに霧散していった。
冷たい指先に目元を冷やされ、そこへ吸い取られるようにして熱と怒りも次第に鎮まっていく。
「こういう手合いはいくらでもいる、雑音をいちいち気にしていたらきりがない。それが嫌なら目を閉じ耳を塞いで閉じこもって、安全な屋敷から一歩も外へ出なければいい」
すぐそばで呟かれる声には欠片の感情もこめられていない。
だが、それは至って真っ当な指摘だ。
息を大きく吸い込んで、吐き出して、そうして両目を覆うノーアの手にふれた。
「ん、……わたしは大丈夫だ。すまないな、どうも感情の波に引きずられやすい性質なのは自覚していたのに。手間をかけた」
「……別に」
こちらが落ち着いたのを見て取ったのか、ノーアは目を覆っていた手を放す。
閉じていた目蓋を開けると、テーブルの向こうには這いつくばってこちらを見上げる三つの顔、それを挟むように立っているカミロとポポが見えた。
床に尻をついた岩蛙は、その面に驚愕と恐怖を張りけ、全身を震わせながらも人差し指をこちらへ突きつける。
「な、な、何なんだ、そこの君は、先んじてリリアーナお嬢様と同席するばかりか、みだりにふれるなど! ど、どこの家のご子息なのかね、名乗りたまえ!」
これまで言葉を発することなく、背を向けたまま座っていたノーアをようやく認識したらしい。
脂汗を流し顔を真っ赤にしたまま、わななく指先と行き場のない感情を当てつけるように向けている。
だが誰何された方はどこ吹く風といった様子で動じることもない。椅子のすぐ後ろに立ったまま、問いに答える気はないようだ。
「……彼はわたしのお友達です。家のことには関係ありませんから、どうぞ構わないでください」
「お、お友達ということなら、そんな白子よりもうちの息子を! 文武に優れ同年代の名家の子女たちからの信頼も厚い、もっとずっとお嬢様の隣へ立つにふさわしい男ですとも!」
身体へ影響が出るほどの威圧を受けてもまだ懲りないようだ。その執念と根性は大したものだが、面倒なことこの上ない。
聖堂の関係者だということが露見するとまずいらしいから、何か話題を変えて興味の矛先を逸らさなければ。
そう思い口を開きかけたところで、ノーアはこちらの右肩に手を置き、テーブルへ左手をついた。
人差し指にはめている指輪がカツリ、と硬質な音をたてる。
歩いている時に繋いでいたのは右手だったから、そんなものをつけていたとは気づかなかった。
無骨にも見える黄金の円環に、カットの多い金剛石がはめられている。……どこかで見た覚えのある意匠だ。
その石へ刻まれた構成に気づき、頭のすぐそばに寄せられたノーアの顔を見上げる。
虹色の目を細め、少年は嫣然と微笑んだ。
「本当に、その子どもに僕より優れている部分がひとつでもあると?」
「な、何を……!」
「言葉を慎め、そしてこれまでの暴言を全て記憶しておけ。僕の公位序列は、この娘の父親よりも上だ」
「っ……、はっ? そん……な!」
目と口を表皮の限界まで開いて、岩蛙は動作を止めた。
額に血管を浮かべ、呼吸のたびに気管支が擦れるような音をたてている。自分が圧していた時よりもよほど具合が悪そうだ。
ちらりと左右に立つカミロたちをうかがってみるが、大人ふたりは特に変化もなく静かな面持ちでこちらを見守っている。
序列については初耳だが、止める素振りも見せないことだし、ノーアの名前と所属さえ知られなければ、問題はないのだろう。
「……赤い、煉瓦で造られた大きな倉庫。紙の箱が詰まれた棚の裏、床の取っ手。……そんな所に扉を隠しているのか」
「――ッ!」
淡々と告げられるノーアの声。それを聞いた岩蛙はひゅうと喉を鳴らし、後ろ手にのけぞった。
派手に震えている顎は開きすぎて今にも外れそうだ。
「地下倉庫か、下で隣の建物に繋げてある。ろくな補強もせずよくそんな通路を使う気になるものだ、この雑な施工は正規のものではないな」
「な、なん、何を、言って……っ、知らん、私はそんなもの知らんぞっ!」
「……ふん、抜け荷だかすり替えだか知らないし、僕には関係もないけど。吸った蜜のぶんだけ相応に腹を下すといい」
ノーアは静かな声音でそう言い切ると、テーブルに置いていた指先をトンと鳴らした。
構成ではない
(何だ? いま動いたのは、精霊……か?)
自分の知覚外で何かが動いた。
その正体も掴めないうちに、今度は肩に置かれていた手が急かすように叩いてくる。
背後の顔を見上げると、白い面持ちはまたつまらなそうな表情に戻っていた。
「蛙ヅラを見るのも飽きた。出よう」
「うむ、そうだな」
やっぱりノーアにも蛙に見えていたのか、と思いながら静かに席を立つ。
こちらの意図を察知したカミロはすぐに上着を取って、袖を通すのを手伝ってくれた。
ボタンを自分でとめながら振り返ってみると、床に座ったままの三人はまだ動くことも言葉を発することもできないようだ。
ただ三対の視線だけがこちらを追っている。
ファラムンドたちを悪く言われて腹を立てたものの、とりあえずこの場では、発言も行動も失礼にあたるようなものは取っていないはずだ。
自分の行いのせいで家族に謗りが向いてはかなわない。
何ひとつ敬意を持てる相手ではないが、今の自分はイバニェス家の令嬢。リリアーナとして、最後までそれを貫かなくては。
姿勢を正し、顔を作り、床にうずくまってこちらを見上げる三人へ向き直った。
外套ごとスカートをつまみ、教えられた通りの完璧な角度で会釈をして、会心の笑みを浮かべる。
イグナシオの店で作ったものよりもっと丹念な、これまで見たり学んだりした全てを込めた微笑み。
「それでは失礼いたします、ごきげんよう皆さま」
唖然とこちらを見る顔を睥睨し、その横を優雅に通り過ぎる。
そうして一句も呼び止められることのないまま、カミロに続いて階段を下りた。
狭い階段を慎重に下りて一階へ着くと、すぐ後ろにいたノーアがまたおかしな表情をしているのに気づく。
「何だ、変な顔をして?」
「いや、変な顔をしてたのは君のほうだろ」
「変と言うならお前だって変な笑い方をしていたくせに」
「僕はいいんだよ、君の作り笑いのほうが絶対変だからな」
「そっちこそ笑い顔が何だか妙だったぞ、レオ兄を見習え」
「誰だよそれ」
「うちの次兄だ、作り笑いがとても上手い」
直に見せてやりたいくらいだ、と胸を張ると、ノーアは疲れたような長い嘆息を吐き出した。
「ウン、リリアーナちゃんとノーアちゃん、とっても仲良しネ!」
「「別に仲良くは、」」
声が揃いかけたので同じところで言葉を止めると、ポポは嬉しそうに何度もうなずきながら笑った。
それは幼い子どもを微笑ましく見守る大人の顔だ。
肉体年齢に引きずられて同レベルの諍いをした自分がいけないのだから、少々のばつの悪い思いは気にするまい。
「リリアーナちゃん、せっかくお店来てくれタのに、お邪魔虫入ってゴメンね?」
「いや、ポポのせいではないのだから謝らないでくれ。それよりも店は大丈夫か? 何か壊れた音がしていただろう、こちらこそ厄介な客を招き寄せてすまないことをした」
階段の向こう、一階の店舗部分へ繋がっているらしい廊下へ視線を向けると、箒を手にした給仕の女性がぐっと親指を立てて見せる。
仕切りの布が垂れ下がっていて奥の店は見えないが、心配したほど荒らされてはいないようだ。
「ダイジョーブ、心配ないない、お片付けもスグ済むヨ! それよりリリアーナちゃん、コレ、ポポのお手製、使ってネ!」
そう言って手渡されたのは、色鮮やかな布で縫われた四枚の袋だった。
極彩色が混ぜられた不思議な染め方の生地は、柔らかく薄い。口には細い紐が通っており、それを引くと絞ることができる構造だ。
「ちゃんと洗っタから綺麗ネ。それにお土産のお菓子、小分けしてもらうと良いヨ!」
「うむ、ありがたく使わせてもらおう」
ポシェットへしまうには少しかさばりすぎるから、巾着袋はまとめてカミロへ手渡した。
下ろしていたフードをきちんと被り、外で出る支度を済ませる。そうして店の入口まで見送りについてきた巨躯を振り返った。
「ポポ、次は父上と一緒に来るから、ポポの作る料理はその時に堪能させてもらおう」
「ウン! ポポいつでも待ってるヨ、旦那サンと一緒に食べに来てネ!」
「楽しみにしている。ではな」
手を振ってポポの店を出る。
照明を抑えた暗がりの店内から外へ出ると、陽光に目が眩む。光量に目が慣れるまでフードを引き下げていないと視界が悪い。
指先でその端をひっぱりながら顔を上げると、道の反対側でエーヴィがこちらへ向かって深く礼をしているのが見えた。
招かれざる客を止められなかった詫びだろう。ひとつうなずいて見せて、それを許した。
領主であるファラムンドの立場でもあまり強く出られない相手なら、エーヴィやカミロに止める手立てがなくとも仕方ない。
パンケーキはおいしく食べた後だったし、わざわざ謝罪を受けるほどのことでもないだろう。
「カミロ、お前も謝るなよ。悪いのは急に押しかけてきた奴らのほうだ」
先制してそう言えば、カミロは言葉を飲むようにして黙った。
謝罪をさせたほうがその心情は楽かもしれないが、従者の立場にできる範囲で精一杯、立ち塞がってくれただけで十分だ。何も咎はないと示したかった。
「……はい、承知いたしました」
「商工会の副会長なんていうのが、それほど力を持っているとは知らなかったが……。さっきのやり取りで、何か父上の仕事に影響が出るようなことは?」
「問題はないかと。むしろ、先ほど茶飲み話から漏れ聞こえた地下倉庫の件について、早急に調べを進めさせて頂きますので、その結果次第では面白いことになるかもしれませんね」
眼鏡のブリッジを指で押さえるカミロの向こう、道の反対側にはもうエーヴィの姿はどこにもなかった。
「罷免ができると?」
「いいえ。やり方次第で優位性を奪えるかどうか、といった辺りですね。人間性に多々問題はありますが、アレでもいなくなると困るのですよ」
たくさんの小さな部品が組み合って動いている器械なのだと、いつしか聞いたことがある。
キヴィランタは強者が弱者を従える、個々の力がなくては生きていけない単純な構造をしているのに対し、ヒトの文化圏はそれ自体がひとかたまりの仕組みなのだと、かつて魔王城を訪れた商人は語っていた。
あの岩蛙も言動はあんなだが、このイバニェス領の商業を動かす部品としてはなくてはならない働きをするのだろう。
だからこそ問題があるとわかっていても辞めさせることはできない、領のためには役立ってもらう必要があり、領主といえど強く当たることができない。……そういう事情なのかもしれない。
「……色々と、面倒なものだな」
「どこも似たようなものだよ」
思わず漏れた呟きには、どこか諦念を含んだ小さな声が返ってきた。
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