第126話 すごいパンケーキ


 椅子にもたれたまま、手の中でもてあそんでいたカップをテーブルへ置くと、静かな声で名を呼ばれた。

 顔を上げた先、カミロはいつものように眼鏡のブリッジを指先で押さえてからこちらを見る。


「内外への用心として毒見を習慣付けているとはいえ、屋敷への出入りも厨房の人員も管理を徹底しておりますので、決して以前のようなことは起こしません」


「……うん」


「その上で、領主及び貴公位という身分が命を狙われる危険のあるものだと、みな納得をして職務についており、毒見もその一環です。屋敷の使用人は、そうして身を盾にすることも厭わないような、誠心誠意お仕えできる者だけを雇用しております。……その意識は、先代の頃から何も変わりません」


「わかっている、つもりだ。フェリバたちを信じているから、わたしも今さら毒見を止めろなんてことは言わない。驚きはしたが大丈夫だ。ちゃんと納得する」


 外敵に、侵入者に、そして混入物に備えて警戒をして、それでももしまた同じようなことがあれば、真っ先に疑われるのは内部の人間だ。

 屋敷に務めている者、そばに仕えている者が一番に疑いを向けられる。

 毒物に対して身を盾にして、さらに疑いを向けられる可能性まで背負った上で、全て了承して仕えてくれているなんて、これまで考えもしなかった。そばにいてくれることが当たり前になりすぎて、彼女らの覚悟を何も知ろうとしなかった。

 ……今頃気づかされずとも、もうわかっていたはずだ。あの日みた悪夢のように、自身が狙われることがあればその危険は侍女や周囲の者たちにも降りかかるのだと。


 自分の振る舞いが、大切な者たちに跳ね返る。

 衣食住に困らなくて助かる、という程度の認識でいた今生での立場が、初めて重たいと感じた。

 世話をしてくれる侍女たちを信頼をしているからこそ、危険を認識した後でも毒見は続けてもらわなければならない。もし万が一、自分が口にする飲食物によって何か問題が生じれば、咎は彼女たちに向くのだから。


 先ほどイグナシオの店に預けてきた、青い石の冷たい感触を想う。

 価値や輝きは同等のものでなくても良い、あれと同じ効果を持つ『護り』があと三つ必要だ。それから父たちへ贈る分も。


「……カミロ、先ほど注文したタイリングだが。アダルベルト兄上は外出の際にいつもあれをつけてくれると思うか?」


 自分の中では繋がった話題なのだが、問われた方には急に話が飛んだと思えただろう。

 それでも何かを察したらしきカミロは二度ほど瞬きをしてから、小さく息を飲んで答えた。


「アダルベルト様は、お相手の役に立つ実用品をよく見極めて贈られる方ですから、ご自身が受け取る側となってもその意識は感じ取って頂けるでしょう。それに装身具もシンプルなものを好まれますし、きっとリリアーナ様の贈られる品も喜んで身に付けて下さる事と思います。特に、重要な外出の際には」


 長兄へのプレゼントに耐毒作用の含まれた石を選んだのは偶然だったが、そういう事情のさなかにいるのであればちょうど良かった。

 屋敷の中での飲食は安全でも、自分より遥かに外出の多いらしい兄は外で食事をする機会も多いだろう。

 石に刻まれた効果は『無効』ではなく『耐性』の向上だから完璧とはいえないにしても、身に付けておいてもらえれば万が一の時にも安心できる。

 些細な有毒物であれば腹の調子を悪くする程度で済むだろう。ただ、もし致死量にも至るような毒物を摂取すれば、それなりに体への影響が出るのではないかと思う。

 兄に辛い思いをさせるのは不本意ではあるが、体内で『無効』となっては毒を盛られたことにも気づけない。手持ちにその効果を持った石があっても、現実に身の危険があるからこそ渡すことはできなかった。


 ともあれ、理由は様々あれど、狙われる可能性が高いのは現領主であるファラムンドやその後継となる兄たちだ。

 まだ幼い自分などより、彼らの身の安全を確かなものとしなくては安心して外出の見送りもできない。

 ファラムンドとレオカディオにも同様のものを持たせたいが、あの二人はそれなりに洒落っ気がある。

 外出時の装いは自身で好きなものを纏うだろうから、装身具など身に付けてもらう物を贈るにはアダルベルトよりも難易度が上がるだろう。

 装飾品に拘泥せずともいい、頑丈で外出時にはいつも持ち歩いてもらえるような何か。

 ひとまず今焦って状況が変わるわけでもないし、そちらについては追々考えよう。

 構成を刻んだ石を用意できたところで、また職人へ依頼するには金銭も必要だ。高価な品を用立てるのにいちいち小遣いをせびるわけにもいかないし、自由に使える金の工面も考えなくては。

 金銭の稼ぎ方など完全に専門外だから、そのうち誰か頼りになりそうな者に相談してみよう。


 そう思考に区切りをつけ、もたれていた椅子から姿勢を正して座り直したところで、階段の方から軽快な足音が聞こえてきた。


「お待たせしてゴメンネー! ふわっふわ卵すルのにいっぱい時間かかっちゃったヨー!」


 そう声を張り上げながら、ポポが大きな木製のトレイを持って二階へ上がってきた。

 踊るような足取りでテーブルに近づき、素焼きの皿と小さなシロップボトルがそれぞれの前に並べられる。

 軽いものと聞いたから、てっきり小ぶりな一口大のものが用意されるとばかり思っていたのだが、目の前に鎮座するのは立派な厚みのあるパンケーキだった。

 焦げる寸前のちょうどよい塩梅に焼き上げられた表面には照りがあり、焼きたてらしい白い湯気がたっている。

 いつも部屋で食べる焼き菓子の類は、運ぶ段階や毒見の手間でどうしても冷めてしまうから、ここまで熱そうなものは何だか新鮮だ。口の中を痛めないよう注意しなくては。


「ポポ、これではボリュームがありすぎ、」


「カミロサン大丈夫ヨー、いーから、食ベテみて!」


 毒見の必要はないとカミロも言っていたことだしと、リリアーナは率先して並べられたカトラリーを手に取った。

 早速こんがりと焼けたパンケーキにナイフを入れてみると、カリッと焼き上げられた表面は硬く手ごたえがあるのに対し、中身は驚くほど抵抗がない。

 小さく切り分けたものをフォークで持ち上げても、見た目よりずっと軽い。断面に細かな気泡がたくさん見えるから、このせいだろうか。

 まだ湯気がたっているうちに口の中へと運ぶ。


「!」


 驚きに目を見開いた。

 咀嚼するまでもなく、舌の上で溶けて崩れる。

 バターと砂糖、ミルクなどの香りと甘さが口腔いっぱいに広がって、ふわりと消える。まるで空気に味と匂いがついているかのようだ。

 軽い食感にも驚かされたが、バターや砂糖は熱いまま口に含むとこんなにも香り立つものなのか。新しい発見だった。

 舌先に乗せるだけで溶けてしまうほど軽い。これならたしかに腹にはたまらないだろう。

 感動と驚きに打ち震えながら二口目を切り分けようとしたところで、ポポが皿に添えられていた白いカップを指さした。


「リリアーナちゃん、これ樹から採ったシロップ、かけるともっとオイシイ!」


 言われるまま小さな陶磁器製の器を手にし、迷ってから一口分欠けた円の半分にそれをかける。

 とろりとした飴色の蜜が広がって、嵩のある端からこぼれた。新たに切り分けた部分にたっぷりとシロップを含ませて、口の中へ放り込む。


「!!」


 含まれる空気が多い分だけ、甘いシロップをよく吸い込んだパンケーキは、何もつけないで口にした時とその味わいをがらりと変えた。

 くどすぎない蜜の甘みが加わったことで、素のままでも香っていたバターやミルクの芳香がさらに引き立つ。

 それぞれが喧嘩することなく、上手い具合に調和して優しい甘みを残したままするりと喉を下っていくのだ。

 そして軽妙な口どけに足されたシロップが、あとかたもなく崩れるばかりだった生地にしっかりとした中身を与えている。地に足のついた舌触りとでもいうのか。

 味、香り、食感ともに、これはシロップをかけて初めて完成する菓子なのだと理解した。

 口の中が舌ごととろけそうな甘みは至福だ、思わず頬が緩む。


 アマダの作る菓子も最高にうまいが、ポポのパンケーキも今まで口にしたことのないほど美味だった。舌が肥えているであろうファラムンドが懇意にしているという話も納得できる。

 領主邸ならまだしも、市井にこんなにうまいものを提供する店があるとは、イバニェス領は本当にすごい所だ。

 さらに食べ進めようとしたところで、ふと顔を上げてみると、目の前のふたりは未だナイフも手にしていないことに気づいた。


「何をしている、これは熱いうちに食べたほうが絶対にうまいぞ。あと、空気を含んでふんわりしているから、見た目のわりに腹にたまらない。安心して食べるといい」


「いや、まぁ、食べるけど……。君、食事中は顔が変わるんだな」


「顔、が、変わる?」


 まるで自覚のなかったことをノーアに指摘され、ナイフを置いて顔面を押さえる。

 手で頬や口元をさわってみる限り、変形しているといったことはないようだが。周囲を見回しても店内に鏡は置かれておらず、自分の顔を目視で確かめることはできない。

 一体どう変わったというのか。助言を求めてカミロに視線を向けると、男は重く深く、うなずいた。


「おいしそうに召し上がられていて何よりです」


「何それ。周りの大人がそれだから、こんな風に育つんじゃないのか」


「リリアーナ様はとても聡明で賢く礼儀正しく、そこいらの貴公位のご息女よりもずっと配慮に長け、お優しくいらっしゃいます。一体どこにご不満が?」


「そこいらって……。……いや、もういい……」


 ノーアはどこか疲れたようにそう呻くと、ようやく銀のカトラリーへ手を伸ばした。

 ややたどたどしい所作でパンケーキを一口大に切り分け、フォークを突き刺して口へと運ぶ。

 仏頂面が驚きの表情へ変わるのに一拍もかからない。


「……うまいな」


 思わずといった様子で漏らされた少年の呟きに、カミロと視線を合わせてこっそり笑みを交わした。


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