第125話 毒見の習慣
曽祖父は毒殺された。
聞かされた言葉への理解が染みて、リリアーナは息を飲んだ。
俄かには信じがたい話への真偽を疑うよりも、それがどういうことなのかわかってしまったからこそ衝撃を受ける。
頬杖をついたままじっと様子をうかがうリステンノーアを前に、瞠目したまま言葉が出てこない。
驚きは勿論あったし、そういった過去があるからこそ毒見の習慣ができたのかという納得もあった。
とはいえ、血縁者といえど一度も顔を合わせたことのない曽祖父の話だ。他者によって害されたことへの憤りは覚えても、生まれる前にそんな事件があったのかという程度にしか思えない。
屋敷の使用人が淹れたお茶が原因だという件だって、自分の周囲の者たちは信じられるから、今それを聞かされたところで彼女らへの信頼が揺らぐことはない。
衝撃を受けたのは過去の出来事などではなく、今現在のこと。
前領主が毒殺されたという事件が起きて、毒見の習慣が徹底されるようになったのなら。つまりリリアーナの食事に対して行われている毒見だってただの習慣などではなく、本当に毒が含まれている可能性があると認識した上で
幼い頃から毎日の食事を取り分けて、持ち回りで確認をしていたお付きの侍女たち。
屋台で購入したブニェロスをちぎって、ためらいもなく口にしたトマサ。
外部から持ち込まれたビスケットを割り、先に食べて見せたカミロ。
裏庭のテーブルでそつなく毒見を済ませたエーヴィ。
これまで当たり前だと思っていたこと、そういうものだと見過ごしてきた日常の風景。
ただの習慣だと思ってさして気にも留めずにいた自分だけが、何も知らないまま守られていたのだと、わかってしまった。
たとえ領主ほど重要な立場ではないにせよ、その血縁者として狙われる危険性があると判断したからこそ、生まれてから今日まで毎日その習慣が続けられていたのだろう。
安全のための確認作業。いつも侍女たちに面倒をかけていると思っていたその実、命をかけさせていたことに気づきもしなかった自身の迂闊さに目蓋を伏せる。
――侍女もカミロも、自らの命を試験紙として食事の毒見を請け負っていた。
「あぁ、そうか。それでか……」
そのことに気づかされ、同時に理解してしまう。
カミロは今まで言わなかったのではなく、言えなかったのだ。
この事実を知ってしまえば自分が侍女たちによる毒見を拒否する、もしくはその習慣に対して忌避感を示すとわかっていたから。
過去の事件や状況を飲み込んで納得のできる年齢になるまで、明かすのを待っていたのだろう。
おそらく十歳記の日になれば、そうしたことも教えてくれる予定だったのではないかと思う。それを決めるのは他でもない父親のファラムンドだ、仕える立場にあるカミロの一存で打ち明けられるわけもない。
情報を伏せていることには理由があると、ちゃんと頭ではわかっていたはずなのに。
ただ知りたいからと気が逸るあまり、ノーアまで利用して秘められていることを明かそうとした自分を恥じ入る。職務に忠実たらんとする男に対し悪いことをしてしまった。
視線を上げると、眼鏡越しに静かな目がリリアーナを見ていた。
望まれない謝罪は飲み込んで、まず先に確認しておきたいことを持ち出す。
「侍女たちは、このことを知っていて……?」
「もちろんです。採用試験とは別に、お付きを決めるにあたり毒見に関しての知識や心構えを試すテストも必ず行っておりますから」
カミロはそこで、何か痛ましいものでも思い返すように指先で眉間を押さえた。
使用人の採用については試験があると以前フェリバから聞かされたこともあったが、お付きの侍女を決めるにも何らかの基準やふるい落としがあったようだ。
皆よく働いてくれているし、厳しい審査を通過しての人選なら納得もできる。
しかし、行われた試験で何か問題でもあったのか。眉を寄せて言いよどむカミロを見つめ、話の先を促す。
「……その実地試験の折、『こちらはお嬢様へお出しするお茶なのですが、毒が入っているようです。どうやって確かめますか?』とたずねたら、躊躇もなく飲み干されたことがございまして」
「フェリバか」
「ええ、フェリバです」
思わずカミロと同じように額を押さえて俯く。見てもいないのに、その時の情景が目に浮かぶようだ。
「なぜそこで飲み干した。……腹が丈夫だから自分は問題ないとか、舌が肥えているから飲めばすぐわかるとでも言ったか?」
「ええ、その通りです。よくおわかりに」
「フェリバは、フェリバだなぁ……」
実際は『毒が入っているかもしれない』からこそ、取り分けて念のため確認をするのが毒見というものだ。
だが『毒が入っているようです』と言われて、ためらいもなく飲み干したというフェリバの豪胆さには頭痛を覚える。他に何か方法は思いつかなかったのか。……つかなかったのだろうな。
おそらくその試験は、どうやって毒の有無を確認するのか知識や手技を試すものだったはずだ。銀製のスプーンを浸すとか、花瓶の花を漬けてみるとか、きっとトマサのほうはそうして確かめてクリアしたのだろう。
いきなり飲み干されたカミロはさぞ驚いたろうなとか、良く採用したなという思いに加え、何かしら侍女のやらかしを聞くと即座にフェリバだと断定するのは、ここが始点だったのかと納得もした。
……危ないものは口に入れてはいけないと、屋敷へ戻ったらフェリバには良く言い聞かせておかなければ。
「何なんだ、さっきから、そのフェリバっていう人は……本当に領主邸の侍女なのか?」
「まぁ、フェリバだからな、仕方ない。侍女としては有能なんだ、よく働くし、よく動くし、力持ちだし」
「力持ち……?」
「ああ。フェリバのことが気になるなら後でいくらでも教えてやるから、今は話を戻そうか」
「別に気になってない、あと先に脱線したのは君たちのほうだ!」
ノーアは歯噛みして、小さく抑えた声で怒鳴るという器用なことをした。
テーブルの上で両手を握りしめているが、温かいお茶が効いたのか、先ほどまでよりも頬の血色がだいぶ良くなっている。手指や首など見える範囲の細さに加え、顔色の悪さが気掛かりだったから血液の循環が改善してきたなら何よりだ。
ブレンドらしきお茶には、何かそういった作用をもたらすものが入っていたのかもしれない。
「ふむ、それもそうだな。カミロ、もうひとつだけ訊いておきたいのだが良いか?」
「お答えできる範囲でしたら」
顔を向けた先で、男はゆっくりと首肯する。そう予防線を張っておきながら、おそらく知っていることなら今この場に限り、何でも答えるのだろうと思った。
聞かされた後のことを委ねられているのだから、きちんとその責任は取らなくてはならない。聞いた話の黙秘と、もう無用に秘密を明かそうとしないということ。
自戒を新たにしながら、祖父の件について気がかりだった部分を訊ねる。
「屋敷の使用人の淹れたお茶に、毒が入っていたという話だが。本当に使用人が犯人だったのか?」
怨恨、利害、依頼など、他者を殺害するに至る理由は様々あるのだろう。
だがヒトの側のそういった事情には疎く、感情由来の行いであれば理解し難い部分も多いし、それがあまりよく知らない人物についてならなおさらだ。
だから動機などはひとまず置くとして、ノーアの言った「使用人の淹れたお茶を飲んで毒殺された」という点が気になっていた。
領主邸の使用人には採用の試験もあるそうだし、領主へお茶を淹れられるような立場なら余程信頼の置かれている者のはずだ。娘のお付きの侍女などより、もっと厳重な審査もされているはず。
それにカミロが慕うほどの領主が、自身へ害意を持つような相手を見抜けないままそばに置くものだろうか?
「……事の詳細はまた日を改めてご説明をさせて頂くとして。犯人か否かというご質問でしたら、否です。毒物はあらかじめ仕込まれていたものだと調べがついており、お茶を淹れた使用人は罪に問われてはおりません」
「そうか、わかった」
一息に言い切ったカミロの言葉から、それ以上の情報は問われない限りここで明かすつもりはない、という意思を言外に感じ取る。
外出時の茶飲み話で済ませるようなものでもないと理解しているから、こちらも短くそう応えておいた。
本当の犯人は誰だったのか、その使用人はどうなったのか、どういった経緯で毒物が仕込まれたのか。……それらのことは、正式に聞かせてもらえる段階になったら問えばいい。
もう過ぎたことであり、毒見が習慣付けられるきっかけ以外、今の自分が知ったところで何が変わるわけでもない過去の出来事だ。
それも同族殺しなんていう、あまりふれたくもない案件。力こそがものを言うキヴィランタと違い、ヒトの個体は持ち得る力の多寡に大した差はないのに、なぜそうも同族で殺し合うのだろう。
手の中にある丸いカップを撫でながら、首を振る。
「……うん、この話はここまででいい。すまなかったな、無理に聞き出すようなことをして」
「いいえ。我々のほうこそ、リリアーナ様のご年齢よりも、その聡明さを見て打ち明ける時期を決めるべきでした」
「ノーアも、この話はおしまいということでいいな?」
「僕は別に……元々無関係だし」
少年はそう言うとむすりとした顔で横を向き、小指から接地させながらカップを置いた。
「教えてくれたことには感謝する。それにしても、わたしでも知らないようなイバニェス家の事情をお前が知っているとはな」
「むしろ君が知らないことに驚いたけど」
「む、そうか。……まぁいい、詳しいことは後日聞かせてもらう。うっかりノーアが漏らした茶飲み話だが、わたしは屋敷に着く頃には忘れている。だからお前たちも、今ここで話したことは忘れてしまえ」
口の前に人差し指を立てながらそう言えば、対面の男と少年は揃ってうなずいた。
ふたりはそれに気づいて互いを見てから、視線を逸らし黙り込む。知り合いというわけではないらしいが、先ほどから漂うこの微妙な緊張感は一体何なのだろう。
不自然に視線を背ける男たちに首をひねりつつ、リリアーナは無意識に固くなっていた体から力を抜いた。
だらしなくない程度に椅子の背もたれへ体重を預け、ひっそりと息を吐く。
生きているうちに一度話をしてみたかったと思った曽祖父が、そんな事件で命を落としていたことは正直残念だった。
それに、ファラムンドが先に領主となることで一代飛ばされたという祖父。これまで名前すら知らされなかった彼らについても、きっとその時になったら教えてもらえるのだろう。
場所と状況を借りた例外的な「おねだり」はここまで。その他の情報解禁については、大人たちが立てているらしい予定に任せるとしよう。
自分の十歳記まであと二年足らず。秘されているうちのどこまで教えてもらえるのかは定かではないけれど、教えても構わないとファラムンドたちに認めてもらうことができれば、もっと突っ込んだ話も聞き出せるかもしれない。
自分が八歳児だという自覚は一応持っているが、おそらく一般的な八年を生きただけの女児はここまで知りたがったりはしないのだろうとも思う。
ヒトの娘の『リリアーナ』として生きるのであれば、生前のように知識欲に任せて何でも情報を得たがる癖は控えるべきだ。
書斎が開かれるまで五年も耐えたのだから、あと二年くらいはきちんと待とう。
一息ついて、手で包んだカップのお茶が空になる頃には、日頃から侍女たちに命を張らせていたことへの動揺もすっかり落ち着いていた。
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