第105話 光柱を視たものたち
蔦を模した金網の這う大窓は、その素材も精緻な彫刻も最上級のものではあるが、無粋にも空を細かく区切る様は牢の格子にしか見えない。
邪魔な柵と澄んだガラスの向こう、冬の季を目前とした空は今日も雲がかかり白んでいる。
もう雨も少なくなって、じきに乾きの風が吹く。厚みのない薄い綿状の雲は、落とす雫も持たないまま王都の上を覆っていた。遥か遠くまで、見渡す限りの白い空。
さして代わり映えのしない光景は、一定期間ごとに張り替えられる壁紙のようなものだ。飽きようがどうだろうかそこにあるだけ。視るべきものもなく、見たいものもない。
ただ、いつものように何をするでもなく窓の外を眺めていると、視界の片隅に不思議な揺らぎを見て取った。
高層の塔からでも見通すことの叶わないずっと遠く、南東の方角。
網膜には映らない何かが空の向こうでうねっている。
「……何だ?」
注視しようにも、人の目に視認できる距離ではない。
耳元でさえずる葉擦れの囁きが、求めてもいないのに情報を寄越す。
「ああ、そうか。あの方角はイバニェス領だったな」
もうすっかり忘れかけていたが、そういえば何年か前にもあの方向に妙なものを視た。
アレを描いた人物が、また何か妙なことをしでかしたのだろうか。
南東の境、イバニェス領はいわくつきの場所だ。あんな所で奔放な汎精霊たちを一箇所へ集めたらどうなるのか、自分にすら想像がつかないというのに。
わかってやっているのか、否、きっと知る由もないだろう。
「何、楽しそうだって? じゃあお前たちも行ってくれば良いじゃないか」
興味があるのなら好きにすればいい。こんなつまらない何もない所でたむろしているよりも、惹かれる場所へ思い思いに飛んでいけば良いのに。
自分なんかと違って、いつでも好きなように移動できる自由があるのだから。
……それにしても、どうやってあれだけの精霊を集めたのだろう。
別に関心があるわけではないが、二度目ともなるとほんの少しだけ気になった。
どうして。何のために。どんな魔法を使った?
あれだけの精霊を動員できる手腕を持っているのであれば、自前の構成でも相当なことができるはず。
それを越えて、補助または動力源として精霊たちを集めたのだとしたら、描かれた構成陣は一体どれほどのものだろう。一切の無駄なく、効果を相乗し、綿密に描き込まれた未知の構成。
――見てみたい。
外側へ向けて「興味」が沸くのはいつ振りか。自らの内から湧き出る望み、我欲なんてものがまだ残っていたことに自分で驚く。
白い空の向こう、円柱型の構成陣なんてものを描き、今こうして精霊たちを集めているのは一体どんな人物なのか。『眼』を持った者だということはすでに聞いているが、その姿形は全く想像つかない。
ぼんやりとそんなことを考えながら目を眇めている間に、南東の空の違和感は萎んでいってしまった。
さして強大な構成を回したわけではないようだ。ますます訳がわからない。
あれだけの精霊を集めて起動させたなら、余所の領地をひとつ吹き飛ばすことだって容易いだろうに。
「……守備のため? 何、あのあたりでまた下らない諍いでも起きてるの?」
それこそ、敵と見定めた相手側をまとめて吹き飛ばしてしまえば早いだろうに。
一度更地にしてしまったほうが土地も扱いやすいし、生存者がいなければ無用の遺恨も残らない。攻められる前に滅ぼせば、守る手間だって生じない。一番手っ取り早く済んで楽だろう。
もっとも、それが許されるほどこの箱庭の個は強くはない。人は群生する生き物だ。平均を外れた強さを得てしまえば、寄ってたかって食いものにされる。
それが嫌なら、力を隠し通すか、食う側に回るか。
見るものもない空に飽いて、少年は窓辺を離れた。無駄に長い法衣の裾を引きずり、歩き、簡素な椅子へ腰かける。
少し長く立っていたためか、疲労感で体が重い。
普段からほとんど出歩くこともないため、その痩躯からは筋力も体力もこそぎ落とされていた。ひじ掛けに置いた手は骨を包む皮ばかりで、錫杖が持てないため普段は軽量なレプリカを握らされている。
何も持たない、自分には何もない。
視線を上げた先の壁も、蔦の向こうの空も白く、何もない。何も。
目を閉じて背もたれに体重を預ける。自由になるものは何もない。まだ、何も。
◇◆◇
威勢よく櫂を漕いで、小さな木船を進めること早――……何日だったろうか。
ここ数日、大海は晴れることなく大荒れ続きで、指先ほどもある雨粒が絶えず滝のように降り注ぐ。
船出の頃は風雨避けの障壁を張っていたが、体を流したくなったので小一時間ほどそれを切って今は天然のシャワーを浴びている。
船の中には水が溜まらないよう、へりの辺りに防水の構成を張り付けているので問題はない。
飲み水に困らないのは良いが、一体いつまで降り続けるのか。荒れた海原にも厚い雨雲にも青色がのぞく隙間なんて欠片もなく、同じ景色ばかりで少し飽きた。
晴れていれば魚釣りなどして退屈を紛らわせることもできるのに、こうも波が高くては魚も深くへ潜っていて釣り上げるのは難しい。自分が潜って直接獲ってきても良いのだが、そこまでするほど腹は減っていない。
そもそも食料などはインベントリにいくらでも保存してあるし、どうせ船の上で魚を味わうのなら澄み渡る晴天の下、潮風を感じながら柑橘を絞った刺身でも頬張りたい。
(ああ、いいなそれは。ついでに熱いお茶も欲しい)
想像したら無性に食べたくなってきた。
腹が減っているわけではなく暖を欲している、なぜだろうかと思ったところで体が冷えいることに気づいた。
そういえば雨水を浴びていたのだ。指先の感覚がないし歯の根も合わないから、そろそろ体を乾かすか、と青年は櫂を漕いでいた手を止める。
<――っと、ちょっと、聞いてるの? バカッ、あっち、逆、逆方向だってば!>
「あ? 何だようるさいな、聞いてなかった」
<ほんっとにバカ! 後ろ、ものすごい量の精霊が集められてる、三年前と同じくらいか、もっと上……あれは絶対、魔王様よ!>
「ハァァ? もっと早く言えよ何だよ後ろって!」
叫び、小船の上で振り返る。
だがその眼をもってしても、暗雲に覆われた空の向こうまでは見通せない。
大きめに障壁を張り直し、濡れた顔を手で拭って眼をこらしても、その気配どころか何の異変をも見抜くことはできなかった。
「……なんにも見えないぞ」
<バカ男! いくら精霊眼だからって、ヒトの視力であんなとこまで捉えられるわけないでしょ! やっぱりとっくに通り過ぎてたのよ、このドアホー!>
「そんなはずあるか! だって真っ直ぐ、あの光の柱が立った方角に向かってきたじゃないか、近づけば必ず存在を感じ取れるはずだ、うっかり通り過ぎるわけないだろっ?」
<三年も歩いてればとっくに着いてるわよ、大陸縦断しちゃったじゃない。だから海に出る前に、行き過ぎだって言ったのに! このドアホー!>
青年は腰から下げた革袋をぺしゃりと叩き、顔にかかる濡れ髪をかき上げる。
伏せた頭をひと振りして顔を上げれば、もう髪にも衣服にも水滴は一粒たりとついてはいなかった。
燦々と燃え上がるような赤毛が重力に逆らって思い思いに跳ねる。それをひと撫でしてから、手放していた櫂を持ち直した。
「海へ出る辺りの人里では、最近大きな戦があったなんて話は聞かなかったぞ」
<あれだけの光柱陣を使ったのだから、よほどのことだとは思うけど。表沙汰にはなっていない何かに関わっているのかしら。とにかく、通り過ぎたのは確かよ!>
「……まだ精霊は集まってるのか? そんなに集めて何をするつもりだ、誰かと戦っているのか?」
<そこまでは、これだけ距離があっちゃ何もわからないわよ。元々あたしは探査なんて得意じゃないんだし。でも、何だかちょっとズレてるような……、円柱陣が起動した場所とは少し位置が違うかも?>
「方角だけちゃんと記憶しとけ、今度こそ通り過ぎたりしない!」
自前の魔法で何でもできるはずなのに、過剰なまでに精霊たちを集めて一体何をしているというのか。三年前も、今この時も。
もし何かと戦闘を行っているのだとしたら。そう思うと気が逸る。早くあそこに行かなくてはと、体中の細胞という細胞が熱を発し、行動を急かす。
急げ、早く、一刻も早く、あの存在を――
<……岸へ戻ったら、もう少し近隣の聞き込みをするべきよ。どうせまたおかしなことをしているに違いないのだから、何かしらヒトの噂になっているはずだわ>
「聖王国内に潜んでいるなら、そう目立つような行動はしないんじゃないか?」
<甘いわ、激甘だわ! あれは目的と手段しか見えないタイプだから、何をしたら目立つとか自分がどう見られているかとか一切考えないのよ!>
そんなこと自分だって考えたことはないが、と思いながらも、青年は特に反論をせず握っていた櫂を船の隅へ置く。
カランと音をたてて転がった木製の櫂は、多少の強化を施していたものの酷使が過ぎて、先端が箒のようになっている。
替えはないが、どうせ船ごと買い取ったものだから壊れても問題はない。岸に着いたら譲ってくれた漁師に返してしまえばいい。
<何よ、漕がないの? 戻るんでしょ?>
「飽きた。帰りは水流を起こして船を動かす」
<そんなこと出来るんなら始めっからそうしなさいよーっ!?>
相変わらずうるさい声には知らんぷりをして、非難を聞き流す。
船は先端がどちらも同じ形をしているから、わざわざ反転させる必要がないのは好都合だ。
そのまま舳先に立って、船が浸かっている周囲の水を掌握する。進行方向の水をかき分け、後ろへ押し流すという工程のシンプルな構成を描いた。
どうも火気を扱うのが得意だと昔から思われがちだが、個人的には水分や光のほうが扱いやすい。
可燃物を燃やす程度ならともかく、攻撃目的で使うのであれば何もない空間へ大きな熱量を生じる必要がある。元々そこにあるものを転用できる水や風とは違い、言葉通り燃費が悪いのだ。
……それに火は、自分などよりも、もっと優れた使い手がいる。
あの燃え盛る青い焔。鮮烈なまでに澄んだあの青色を覚えている。
砕けたステンドグラスをも一瞬で溶かす想像を絶する高温を、いとも容易く、同時に数十も操ってみせた。燃焼物のない空間にあれだけの炎を維持することは、さすがに自分でもできはしない。
青くゆらめく炎に照らされた威容。濡れ羽の黒髪、同色の法衣や肩鎧で守りを固めた中、眼だけが鮮やかに赤く光る。
玉座の前で見上げたあの姿を。忘れない、決して。
追って捜して調べて求めて、あれからもう五〇年近く。未だ見ぬその姿を想い、暗い空のその向こうを射抜くように睨みつける。
求める相手にはまだ届かない。
見定める先へ開いた指先を伸ばし、伸ばし、掴み取るようにきつく握りしめる。
「どこにいようと……必ず見つけ出す、『魔王』デスタリオラ!」
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