第96話 襲撃③


 ――詞を、口ずさむ。

 かつて精霊教の授業を受けている最中、何度も何度も繰り返し唱えさせられた『聖句』。

 大精霊に捧げる祈りの詞だというそれは、現在の大陸共通言語としても、遥か昔に使われていた古代語イディオマとしても意味を成さない音の羅列だ。

 一体いつ頃から伝えられている詞なのかは知らないが、おそらく耳と声のみで伝えられる間に少しずつ変形して、元の意味を失ってしまったのではないかと思われる。

 聖堂が文字で残すことを禁じているという『聖句』、今のところその本来の意味を探る手段はない。


 三年前は音に合わせて適当な単語を当てはめ、精霊語パスディオマとして機能するように即興のアレンジを加えていた。原典に沿っているかもわからない音でも、意味を乗せるだけであの効果だ。

 先日アダルベルトから興味深い話を聞くことができたのを切っ掛けに、『聖句』については自分でも考え続けていたのだが、音と乗せる意味へもう少しだけ手を入れてみよう。


 カステルヘルミが唱える既存の詞に合わせて、少しだけ音の異なる詞を唱える。

 単調なリズム、似通った発音、無理に合わせようとしなくとも、互いの音をひとつずつ口ずさめば自然と調和が取れた。

 重なり合うふたつの『聖句』が響き渡る。



唄えԹౠ౬౬ 唄えԹౠ౬౬ 光の梢էయయ ఎص ――』


廻れխఅఅ廻れխఅఅ 夜夢の階Նకకء ౠ――』



 ――精霊たちへ捧げる唄。

 ふたりが詞を唱える、その音のひとつひとつが発せられるたび、大気中に潜在していた精霊たちが光を纏う。地中に潜んでいた精霊たちが喜び蠢く。



駆けるֆسس 駆けるֆسس 風霧に乗るはՁీփبււبత Ջ愉しいఝأ ը――』



 懐かしい音、楽しい歌、自分たちへ贈られる詩。

 姿を持たない小さなものたちが心地よいその調べに乗って現出し、リリアーナとカステルヘルミの周囲からクチナシの木へ、頭上へ、土へ。無限の孔へ収まる範囲のすべてに、小さくも力強い光の粒子がきらきらと舞い踊る。

 新しいものを見せろと、何か楽しいことをさせろとせがんで回る。


 剣の強化に現出していた時とは比較にもならない汎精霊たちの舞踊。

 その現実離れした光景、金の奔流に圧倒された様子も見せず、リリアーナの肩を支えたまま女魔法師は変わらぬリズムで『聖句』を口にし続ける。

 よく頑張ってくれている。後でしっかりと感謝と労いを送ってやらねば。そう心に留めながら、リリアーナは赤い眼を見開いた。

 

 魔王の目、無二の精霊眼へ構成を映す。

 現れた外円に描き込まれた内容は、耐熱、耐衝撃、耐斬撃、それらの効果を持った防壁を展開するという至ってシンプルなもの。そこへアルトから伝えられた座標と効果範囲の数値を刻み、発動を促す。

 虹彩へ描かれた紋様がその権能を露わにした。瞳を虹色に輝かせながら、リリアーナは両の手を突き出したまま己に従う精霊たちへ命じる。


【わたしの大切な者たちを護れ、守護せよ、何者の凶刃も通すな!】


 描き上げた構成が意味を持ち、力を発し、孔へと続く瞳にのみその眩い光を映しだす。

 回る回る、役割を得た微細なものたちが。『聖句』という餌によって集められ、歓び踊るそれらは主であるリリアーナからの命令に歓喜する。

 周囲に溢れる光を凝縮しながら、線数を最小限まで減らされた構成陣は描き手の意のまま、刻まれた効果を打ち上げた。


 不可視の力は網となってイバニェス邸の前面を包み込む。

 指定された範囲に、出来得る限りの強度で、命じられた効果を。

 リリアーナが描いた構成は『耐熱、耐衝撃、耐斬撃』の防壁展開を命じるものだったが、指定の描き込みをできるだけ減らすため、上限値は集めた精霊たちの総量に委ねる形となっていた。

 消耗した体でも望む効果を引き出せるよう、極力負担の少ない構成を描いた結果の指定だ。

 普段は決して使うことのない、「出来得る強度」なんていう精霊任せとも言える設定は、大きな屋敷を覆うための構成を描くに当たり、疲弊した今の自分では力が不足しているというリリアーナの思い込みによるものだった。

 もう『魔王』ではないから。ただのヒトの娘であり、二層の構成陣を描いただけで疲れるような脆弱な体だから、望む以上の効果は引き出せないと自らの力量に見切りをつけている。


 だが、歓喜に沸く精霊たちにはそんなことは関係ないし知りもしない。 

 楽しい、嬉しい、面白い。歓びの感情を得て集まった汎精霊たちは、シンプルな構成を回すのに必要な分を大幅に超過していた。

 肝心の屋敷への防壁が、命じた本人の想定を大幅に上回る強度で完成されてもなお、溢れた精霊たちは役目を求める。まだ足りない、もっと何かしたい、楽しいことをしたい、新しいことをさせろと沸き立つ。

 力の有り余った燐光の群れは、簡素すぎる構成の実行が終わってしまったことを惜しみながら、主から受けた命令を反芻する。


 『わたしの大切な者たちを護れ、守護せよ、何者の凶刃も通すな!』

 ――そう命じられた。


 つまり、防壁を張り終えてしまっても、主の大切な者を守り、それを害する者を通さないという役割はまだ残っている。 と思う。

 まだやることはある! 楽しいことは残っているぞー!

 光の粒たちは諸手を挙げる勢いで沸き立つ。

 敷地内の土、植物、人工物、大気中問わず潜在していた汎精霊たちは久しくなかった「楽しいこと」に踊り狂う。

 クチナシの木の周辺に設定されたリリアーナの『領地』を越え、つられて集まった精霊はもはや屋敷の上空を覆い尽さんばかりとなっていたが、幸か不幸かその不穏な雲に目を留めるはいなかった。

 屋敷の中からこっそり様子を伺うモノは頭を抱え、遠目に見守る金色の大精霊はさもおかしげな微笑をたたえながら一連の様子を観察している。


 構成陣という指定書の枠を超え、「楽しいこと」を遂行しようとする精霊たちの勢いは止まらない。

 不可視の奔流はうねり、集まり、やがて濁流となって、イバニェス邸を越え広大な前庭まで突き進んだ。


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