第76話 兄妹談義③
せっかく兄と会話ができる機会なのに、何だかあまり楽しくない話ばかり続いてしまった。
訊いてみたかった聖句の件は片づいたのだから、もっと他に建設的な話題はないだろうか。
リリアーナがそんなことを思い、じっと机に置いたままの本に視線を注ぎ思案していると、対面のアダルベルトもその表紙を覗き込んできた。
「さっきから気になっていたんだが、その本。農耕の解説なんかにも目を通しているのか?」
「ああ、兄上から借りた資料でこの辺りの耕作物については知ることができたから、技術面の補足をしたくて。乾いた土地での農耕に関しては以前ちょっとかじったこともある。今後、何かの足しになればと思ってな」
「なるほど、リリアーナは興味の範囲が広いな。何か将来やりたいことでもあるのか?」
「やりたいこと、か。……一番の望みは父上の手伝いがしたかったのだが、あまり長くこの屋敷に留まれる立場でもないし。せめてここにいる間で、役に立てることがあれば良いなと思っている」
難しい顔ばかりしているアダルベルトが、さらに顔をしかめた。今日は眉間のしわが増えたり減ったりを繰り返して忙しそうだ。
自分の発言が何か良からぬ感情を与えたのだということは理解できても、基本的にアダルベルトはしかめっ面ばかりなので考えていることが見えにくい。
鉄面皮を貫くような相手より、彼を相手にしているほうがよほどヒトの表情を読み取る練習になるだろう。
「……リリアーナが望むなら、婿を取るという方法もある。まだ先の話だし、俺が口出しできるものでもないが」
「ん? ああ、なるほど、それならこの家にずっといられる訳か。だが貴公位の婚姻とは、家同士を結びつける強力な手札だと本で読んだことがある。わたし個人の望みよりも、できればイバニェス家の利となる相手を父上に選んでほしい」
元々、男女間の機微に縁遠く、婚姻という制度もシステム的な面でしか把握していないリリアーナは、将来の伴侶に大したこだわりがない。
共に暮らす相手なら気の合う者が良いなとか、ファラムンドの力になれるくらいの能力を持った者が望ましいとか、その程度のものである。
結婚をするなら必然的に相手が男性となることも、自分が出産をする可能性も、そこへ至る経緯としてどんな行為に及ぶかも、知識はあるくせに「自分がそれをする」ということが全く頭にない。
そもそも貴公位の家に生まれた者が、自分の望む相手と添い遂げられることなど稀なのだ。それに加えて即物的なことは口にできないアダルベルトと、たぶん結婚相手とどんなことをするのかまで考えてないなーと察しているアルトは、自分から詳細な説明することは諦め、揃って声にならない呻きを上げた。
「……? ああ、将来的には父上の手伝いではなく、兄上の手伝いとなるな。大丈夫だ、ちゃんとわたしは兄上の力にもなりたいと思っているぞ」
「いやそれは……まぁ、ありがとう。だが、長男だからといって俺が領主を継ぐとまだ決まったわけではない。レオカディオは優秀だからな、将来どちらに家督を譲るか決めるのは父上だ」
「そうなのか? てっきりアダルベルト兄上が嫡男として家を継ぐのだとばかり思っていた」
「継承の前に、領主としてふさわしい力を持っているか実地試験のようなものがあるんだ。何がしかの成果を出して、それが認められて初めて家を継ぐことができる。俺もレオカディオも、まだその試験の途中だよ」
それは初耳だ、とリリアーナは目を瞬かせる。
ふたりの兄がそんなものに取り組んでいたとは、今まで誰も教えてくれなかったし、気づきもしなかった。
だが、せっかく健やかに育った男児がふたりもいるのだから、どちらか優秀な方に跡を継がせようとするのも当然の判断だろう。
思慮深く堅実な考え方をするアダルベルトと、先天的な才覚で何でも器用にこなすレオカディオ。
審判は公平にされるべきだし、妹として片方に肩入れする気はないが、次兄が領主になるという可能性は今まで考えたことがなかった。
「それなら、借りている資料は早めに返したほうが良いか? 今日持って来るべきだったな」
「いや、急がなくても構わない。重要な部分はもう新しい資料につけ加えてあるから、あれは手元に保管していただけなんだ」
借り受けた時にも、手紙には返却は急がないと書いてあった。あれは儀礼的な文などではなく、ゆっくり読んでいても構わないものを用意してくれたのだ。その兄の気遣いに甘えて、体調の快復後は先に物語の本から読んでいたため、すでに借り受けてから何日も経っている。
書斎にある本では知ることのできない、実際の収穫量の推移や各地の土壌について事細かに記された資料は、とても有意義なものだった。記載されている数値は少し古い年代のものだが、この数年で極端に変わっているということはないはずだ。
イバニェス領の特長と土壌。すでにあるものを生かす、新たなものを興す、……この先リリアーナがどちらへ手をつけるにしても、現状を知る上であの資料はとても役に立ってくれた。
「古いものでも助かった。お陰で欲しい情報は得られたから、折を見てきちんと返却しよう。とはいえ、わたしは兄上の部屋の場所を知らないんだ。訪ねて良い時間もわからないしな……」
「またこの書斎へ置く形で構わない。あの勇者の物語がある棚にでも差しておいてくれれば気づけるから」
そこでちらりと、それらの本が収められた棚のほうを見てから、アダルベルトは少し気まずげに言葉を繋げた。
「……俺も、実はリリアーナと会うためにはどの時間帯に部屋へ行けばいいのかわからなくてな」
「そうだったのか。たしかに、授業や食事などの時間は各々で違うらしいし、あらかじめ約束でもしていないと難しいな」
「昨日、侍従長も何かリリアーナに話があるようなことを言っていた。もしかしたら今日、以前のようにここへ来るかもと思ったんだが、読書の邪魔をするのは悪いと遠慮をしたかな。……俺は悪い兄だから、邪魔するとわかっていても来たけれど」
珍しく冗談を言って、ほんの少しだけ口の端を持ち上げる長兄に、リリアーナも笑って見せた。
お互いあまり表情を作るのは得手ではないが、楽しい気分ならそれなりに笑うくらいはするのだ。
ついでだから借りた資料についていくつか訊いてみようかと思ったところで、ポケットの中のアルトが小さく振動する。
<リリアーナ様、書斎へ近づいている者がおります。おそらくレオカディオ殿かと>
珍しいことが重なるものだ。書斎に通うようになってそれなりに経つが、ここで次兄と遭遇したことはない。
背後からドアノブを回される音がするのを待ってから、リリアーナは扉の方を振り向いた。
ひょっこりと顔をのぞかせたのはアルトの予告通り、薄紫の髪を後ろでひとつに束ねたレオカディオだ。
朝食の後に着替えたのか、見慣れないケープを肩に纏って暖かそうな格好をしている。こちらと目が合うなり、驚いたように柳眉を跳ね上げた。
「あっ、アダル兄とリリアーナが揃ってる! 何で、どうして? ずるーい僕も呼んでよー!」
「ずるいも何も、……お前も本を読みに来たのか?」
書斎で落ち合って内緒話に興じていたのは事実なので、それ以上何とも言えないアダルベルトの気持ちはわかる。
急場の言い訳として、机の上に農耕に関する本が置かれていて良かった。これで手元に本が一冊もなければ、それこそ何をしていたのだと問われても答えに窮する。
「僕は、ここにいるって侍女に聞いたからちょっと寄ってみただけだよ。こうして三人が揃うなんて珍しいよねー?」
「そうだな。別にお茶も何も出ないが、座るか?」
「うん!」
レオカディオはにこやかにうなずくと軽い足取りで長机に近寄り、角の席へ腰を落ち着けた。
そして身を乗り出し、机の上に置かれた本を覗き込む。
「何、ふたりともその本を見てたの? えー、地味……」
「地味とは何だ、地味とは。確かに表装には手間をかけていないが、耕作について初歩的なことがまとめられて読みやすい、とても内容の充実した本だったぞ」
「うん、俺も読んだことはあるが、道具や土壌のことまで詳しく触れていて参考になった。同じ著者の本が出ているなら気になるな」
「……あー、うん、アダル兄とリリアーナはそういうとこ似てるよね、はいはい、僕が悪かったですよ……」
机に両肘をつきながら唇をとがらせる。すねた素振りを見せながら、次兄は大きな目を眇めて周囲を見回した。
「話をするならどっかの部屋使って、お茶の用意でもさせればいいのに。何でこんなとこで顔付き合わせてるのさ」
「まぁ、たしかに。少しのどが渇いてきたな」
「でしょー、ここ空気が乾燥してるもん。客室押さえるのが手間なら、どっちかの部屋で一緒に昼食とりながら話せばいいじゃん」
レオカディオのその言葉に、長兄と目を見合わせて「なるほど」とうなずいた。
先に予定をすり合わせて侍女たちにも伝えておく必要があるが、もし次の機会があるなら、どちらかの部屋で昼食ついでに話をするのもありだろう。
勿論その際は、他者の耳を気にせずに済む話題に限るが。
「会食ごっこ、っていうかさ。リリアーナもそのうちお茶会とかに呼ばれるんだろうし、今のうちに侍女たちへ経験積ませておくのも手じゃないかなぁ」
「お茶会……?」
「うん、そう。他のお屋敷に招待されて、歳の近いやつらとご歓談? 顔合わせ? そういうの近々やらされるからさ。いきなりで失敗しないように、お付きの侍女もリリアーナも練習しとけば良いんじゃない?」
「ふむ、そういう行事もあるのか。予行としてはたしかに良い練習になりそうだな。ではそのうち、兄上たちの部屋へ招待してくれるか?」
優秀なトマサに不安はないが、そそっかしいフェリバには先に練習する機会があったほうが何かと安心だろう。もちろん、不慣れな自分にも。
リリアーナの問いに、ふたりの兄は快くうなずきを返した。
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