第75話 兄妹談義②


 聖句が精霊教関連の本には載っていないことを、通常の講義を終えたアダルベルトは知っていた。つまり、教師役である官吏から教えられたということだ。

 自分で疑問に思い当たり、こうして直接訊ねることがなかったらリリアーナはそれに気づかないままでいたし、同様に自習で済ませたレオカディオも、おそらくこのことは知らないだろう。


「どういうことだ? 読書によって必要な知識を埋められるからこそ、自習という形が許されたのだとばかり思っていたが……。父上やカミロは聖句が載っていないことを知っているのだろうか?」


「そこはどうだろう、俺にもわからない。ただ、本の記載に不足があることを承知の上だとしたら、……父上たちは聖堂との関係が微妙だから、あまりリリアーナたちを近づけさせたくなかったのかもしれないな」


 語尾のトーンを落としながら、アダルベルトは藍色の目を細める。降下する感情が外に漏れないよう努めている、そんな哀切にも似たものを感じた。


「関係が微妙、か。……その、官吏の件は、わたしも少しだけ話を聞いたことがある」


「ああ、一昨年に領外追放の処分が下されたらしい。俺も講義を受け持ってもらったから、あの人のことは知っているよ。物覚えが悪い俺にも根気よく付き合ってくれて、わからない所は何度でも丁寧に説明をしてくれる、とても親切な先生だった。……起こした事件については今でも信じられない」


 そのアダルベルトの述懐は、リリアーナに少なからず衝撃を与えた。

 自身には大した被害がなかったとはいえ、領民の子どもたちやレオカディオに嫌な思いをさせた相手として、これまでずっとあの官吏のことは悪人だという認識でいた。

 だが、同じように講義を受けたアダルベルトは、親切な良い先生だったと語る。

 同じ人物のはずだが、自分たちと長兄とでは当の官吏の接し方が異なっていたのだろうか。それとも、レオカディオの言葉を受け悪い印象を持って見ていたせいで、先入観からそう感じてしまったのか。


「……いや、取り調べは公平に行われたはずだし、見えない所で悪辣な罪を重ねていたのならきちんと断罪されるべきだ。人は絵に描かれた像ではない、見る角度によって何通りもの顔があるのだと、わかってはいるのに……」


 そう言って眉間のしわを深め、長兄は辛そうに瞑目した。

 彼にとってあの官吏は、親身になって授業をしてくれた良き教師だったのだろう。

 アダルベルトの言う通り、感情を持つ者には何通りもの顔がある。どの角度から見ているか、もしくは見せているかによって印象はがらりと変わってしまう。度々猜疑心が薄いと言われる自分も、そのことは良く覚えておくべきだろう。


「彼は同じことを何度も語る癖があったから、きっとリリアーナやレオカディオには退屈だったんじゃないか?」


「まぁ、否定はしない」


 というより、主にその部分に辟易としていたため苦笑混じりに返すと、アダルベルトも薄く笑ってくれた。この話はここまでで良いだろう。

 そしてふと、長兄があの官吏を信頼し慕っていたのなら、レオカディオは授業の際に何かされて困っていたとしても、当時それを兄に相談することはできなかっただろうなと思い至った。

 今となっては本人に確認するほど無神経なことはできないし、そのつもりもないが。

 瞬きをひとつして思考を切り替える。


「……聖句の話に戻そう。授業中はあの定型区を何度も復唱することで覚えさせられたが、なぜ教本などに載せていないんだ? 暗記なら読み上げによる自習も有効だろう?」


「うん、どうやら聖句は口伝のみという決まりがあるらしい。俺も詳しく知っているわけではないんだが。リリアーナが言うように暗記のために書いたものが欲しいと言ったら、教義で聖句は記してはいけないことになっていると、彼がこっそり教えてくれた。本当はそれも外に漏らして良いことではないのだろう」


「口伝のみ……?」


 確かに、言語としては意味のない音の羅列だから、耳で聞いて覚えるといった方法が取られているのかもしれない。

 だが言葉の意味がないからこそ、音だけでは聞き間違えや発音違いが発生する可能性がある。それとも、聖堂の官吏が直接教えて回っているのだから、決して伝え間違えないという自信でもあるのだろうか。

 繰り返し同じ話を聞かされ、同じ文句を復唱させられたのがそのためだったとしたら、まぁうなずくしかないのだが。


 ――精霊教の講義で覚えさせられた『聖句』。

 精霊語パスディオマ紛いのそれは口に出してみても意味を成さない言葉だが、最初から中身のない言葉を大層に扱うというのもおかしな話だ。だから、もし聖句に原文のようなものがあるとしたら、そちらを読めば秘められた意味がわかるかもしれないと考えた。

 妙な音階だけとなる前の形、古言語イディオマとしての文言がどこかに記されていれば、それを自分で翻訳してみれば良いと。

 ……だが原文どころか、肝心の聖句すらどの本にも書かれてはいなかった。


 現在の大陸共通言語は表音文字だから、聖句の音も決して表記できないというわけではない。その目的は知れないが、聖堂、もしくは王国が何かしらの意図をもって、聖句を文字に残さないよう働きかけていると思われる。


「時折口ずさんでないと忘れそうだから、本当は手元に書いたものが欲しいんだ。……街の子どもらは、年の変わり目や収穫祭のときに聖堂へ集まって歌うから、すぐに覚えるし忘れないらしい」


「なるほど、常に唱えるよう行事として習慣付けられているのか。わざわざ教えて回るより、そのほうが効率的かもしれないな」


(……?)


 そこで、何か引っかかりを覚えた。

 自分で何気なく口にした言葉を反芻してみる。「常に唱えるよう行事として習慣付けられている」……聖堂がそれを促しているとして、果たして何のために?

 五歳記の祈祷で視た、像へ群がる金の燐光を思い出す。

 何の意味も込められていない詩、汎精霊たちが喜ぶ音の羅列。それを子どもたちに、領民たちに唱えさせて日常に馴染んだ慣習としている。

 精霊教を身近に感じさせる、聖堂に集まって唱えることで一体感を得る、精霊への信奉を深める。――いくつか思い浮かぶ理由もあるが、どれも浅い。聖堂の本当の狙いは、もっと別の所にあるのではないだろうか。


 文字に残さない件に加え、民へ聖句を唱えさせる慣習。目的は何なのだろう。不可解な、もやのかかった疑問。

 何かが気にかかる。

 今はひとまず置くとして、この件は後でもう一度しっかり考えてみよう。



「今度、十五歳記で中央へ行ってもあれを唱えるらしいから。発音のおかしなところがないか確認しておかないとな」


「十五歳になっても同じことをするのか。何か、像の前で枝を振って聖句を唱えるのだろう?」


「ああ。中央聖堂はコンティエラの聖堂なんかよりもっと大きくて凄いらしい。そこで大祭祀長と共に祈祷を捧げるとか、夜会がどうとか聞いたが、手順や作法などはまだこれから確認するところだ……」


「聞いているだけで憂鬱になってきた。それを七年後はわたしも同じことをするんだな……」


 兄妹そろって重いため息を吐き、顔を上げる。

 五歳記の祈念や官吏の件があり、聖堂に対してやや苦手意識を持っているリリアーナはともかく、アダルベルトが気鬱げな嘆息をする理由がわからなかった。


「兄上も聖堂が苦手なのか?」


「いや、俺は特にそういうわけではないが。夜会とか、人の集まる場所はあまり好きにはなれない」


「中央は人も多いだろうからな。兄上はこの屋敷でも、十五歳記の祝いでパーティを開くのだろう?」


「ああ。……俺は、あまり言葉が上手くないから。他人と話すのは苦手なんだ」


 そう言う間に、眉間のしわがまた一本増えた。

 今日はいつもより饒舌に感じるが、長兄は元々言葉の多いほうではない。多弁で表情筋の緩やかなレオカディオと足して二で割ればちょうど良いくらいだ。

 だが、アダルベルト誠実な人柄がうかがえる丁寧な語り口は、話していても心地よい。本人は苦手だと言うけれど、対話した相手はそう嫌な印象は持たないのではないだろうか。

 これから領主となれば、さらに他者と接する機会も増える。先のことを考えるならこの辺で克服しておくべきだろう。


「うん。がんばれ兄上。アダルベルト兄上なら大丈夫だ、何とかなる、応援しているぞ」


「……ふ。ありがとうリリアーナ、心強いよ」


 増えた一本を減らすことには成功した。

 今は軽い言葉で励ますことしかできないが、きっとアダルベルトなら必要な責務を必要なだけ、きちんとこなせるだろう。

 その仕事振りや処世術のほどを知るわけではないが、この兄なら大丈夫だと信頼できる。

 借り受けた手書きの資料に目を通しても、その真面目な性格は文言や文字の端々に現れていた。もしかするとその几帳面さは補佐向きとも取れるかもしれないが、人を束ねる立場になっても細かな所まで目の届く、優れた領主となることだろう。


 机の上に置いていた本の表装を指でなぞる。書斎から借りていて、昨晩のうちに読み終わった農耕技術に関する本だ。

 イバニェス領は耕種農業と畜産を主とし、特産品としては染料などの輸出も行っている。だが特出した名産がないことと、王国の端に位置するという交易路の不便さから、他領と比べてあまり豊かとは言えないらしい。


 ファラムンドの施策により領内での暮らしが便利になり、疫病の減少や水質の向上に成功したとしても、それは民の豊かさには直結しない。

 長期的な目で見ることが必要な上に、水路や道路からは麦が穫れるわけでもなく、工事が終われば工員や技師は職にあぶれる。資料に書かれていた通り、一部の領民から不満が上がるのも無理はないだろう。

 そういった側面からも、きっとアダルベルトの両肩には余分な期待がかかっている。

 領への利益、民への満足。全てを賄うことは難しいとしても、自分も妹として娘として、何かこの家の役に立てれば良いのだが。


「……それ、使ってくれているんだな」


「?」


 思考に沈みすぎていたため、何のことを言われたのかすぐには理解できなかった。

 アダルベルトの視線を追って手元を見ると、書架へ返却するために持ってきた農耕の本が置いてある。「使う」という言葉の意味を考えて、兄の位置からは表紙に挟んだ栞の紐が見えていることに思い当たった。

 黒い表紙をめくって、それを取り出す。

 真鍮製の、紙のように薄い透かし彫りの栞。去年の誕生祝いにアダルベルトから贈られたプレゼントで、金と銀の二枚組だった。

 百合の模様が掘られた銀色は私室の本に挟み、向日葵が掘られた金色の栞は書斎の本に使っている。

 その細工はとても精緻なもので、最初は触るだけでも緊張したが、材質が金属ということでそれなりに丈夫な品だ。


「これは紙の栞と違って折れない上に、綺麗だからな。お気に入りなんだ」


「そうか。気に入ってもらえているなら、俺も嬉しいよ」


「五歳記の時にもらったペンは今でも使っているし、その次に貰ったインク壷も使い勝手が良いし、栞もちょうど良いものが欲しかったところだし、……どうして兄上はわたしの欲しいものがわかるんだ?」


 ここ数年の疑問をそれとなくぶつけてみると、長兄は困ったように首をかしげた。


「どうしてと言われても、使えそうなものを考えているだけだからな。女性へのプレゼントなのに、色気も何もない物ですまないとは思っているが」


「色気? 色気……ああ、そういうのはレオ兄が担当しているから良いんじゃないか、たぶん?」


「そう、か? まぁ、そうだな……」


 アダルベルトはいつも、贈り物にリリアーナが必要としている物や、普段使える物をを選んでくれる。

 レオカディオのほうは、自分がリリアーナに似合うと思った装飾品や小物の類を贈ってくれる。


 ふたりの兄はそれぞれの感性で選び抜いた品を用意し、毎年誕生日になるとリリアーナが喜ぶものをプレゼントしてくれるのだ。……想像もしないプレゼントということなら、父ファラムンドのセンスが群を抜いているのだがそれはさておき。


 もうあとふた月後には、アダルベルトの十五歳の誕生日が迫っている。

 五年周期の祝いの日の中でも、成人として認められる特別な誕生日だ。できることならそれに見合った特別なものを用意したいが、さてどうしたものか。

 長兄ほどの思慮深さも、次兄のような洒落っ気も持ち合わせていないため、どんな贈り物を用意すればいいのか未だに考えがまとまっていない。


 以前と同じ手になってしまうが、やはり現物を見ながら選ぶほうが良いものと出会えそうだ。かつてキンケードにもらった助言通り、選ぶことを楽しみながら、相手の喜ぶものを考えて贈り物を探したい。

 そのためにも早いところ外出禁止を解いてもらって、街へ下りる許可を得なければ。果たして二ヶ月以内に例の武器強盗とやらは捕まるのだろうか。

 あまり自分には関係のない事件だと思いながら興味本位に情報を集めていたけれど、悠長に構えている間に制限時間までできてしまった。近々キンケードを屋敷へ呼び寄せることになってはいるが、直接話を聞いてみて、それで一体自分に何ができるのか。

 魔王であった頃とは違い、何においても自身で好き勝手に動くわけにはいかない。今の立場を大事にするなら、何か別の手段で解法を見つけなければ。


 ……巨人のもたらす乾風が、領内の憂い事を全部吹き飛ばしてしまえば良いのに。

 人差し指と親指で栞の角を支え、ふうっと息を吹きかけると、金の向日葵は手の中でくるくると回転した。


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