第17話 侍従長カミロ
イバニェス家で侍従長を務めるカミロは、その日も受け持つ仕事に忙殺されていた。
領主であるファラムンドは決して仕事の出来ない男ではない。むしろ誰よりも先見の明に優れ、率先して不足を補い長所を伸ばす政策をとり、精力的に領内の発展に努めてきた。
まだ若いからと侮られようが、既得権益を漁る商会長たちに厄介を仕掛けられようが、中央から立場をやっかまれようが、その手腕で全て跳ね除けてここまできたのだ。
領主の椅子を継いでからこの十年余り、ほぼ休むことなく執務に明け暮れているその努力と献身は、そばで見てきたカミロが誰よりもよく知っている。
そのファラムンドの愛娘、第三子のリリアーナは生まれてこの方、邸内での噂や話題に事欠かない。
カミロも最近になって会話を交わすようになった少女だが、多芸な親に似たのか何とも不思議な才覚を持っている。
赤子の頃はほとんど夜泣きもせず、離乳食から幼児用の食事まで全く残すこともない、よく出来た賢い子だと乳母や侍女たちから絶賛されていた。
つかまり立ちをして伝い歩けるようになると、毎日部屋の中を疲れるまで動き回り、やがて自分の足だけで歩けるようになるのに生後一年もかかってはいない。
二歳頃には単語での意思疎通が可能となり、三歳になると廊下や中庭など行動しても構わない範囲を侍女へ確認して、自ら日々の散歩に組み込むようになった。言葉は誰に習ったわけでもなく、独特の口調は周囲の真似をしているとも思えない。
家庭教師がつくようになれば、優秀であった次兄のレオカディオをも凌駕する能力を見せ、教師たちを増長させた。手綱はこちらで握っているものの、このまま詰め込めばいくらでも吸収してしまいそうな素質がうかがえる。
あまりに出来すぎるため不気味にも思える娘だが、近頃は父親からの土産であるウサギのぬいぐるみを常に手離さず、大事に持ち歩いていると聞く。
寝る時間も食事の際もそばへ置き、ときにはひそひそと話しかけたり、掲げ持って周囲の景色を見せてやったりしている、という微笑ましい報告も入ってくる。
先日など、文章の書き方を習ったからと厨房長への感謝を綴った手紙を持ってきた。
内容までは確認していないが、受け渡しの中継をしてやったとき、アマダは大きな背中を丸めて感涙にむせび泣いていた。「いつも、おいしいごはんをありがとう」というような意味の言葉が書いてあったと言う。
優秀すぎる余り一時は不安も抱いたが、そうした幼子らしい可愛い一面もあることは、自分も含め周囲の大人たちを安堵させた。
母親がいない分まで、我々がきちんと見守っていってやらねばならないのだ。
リリアーナの五歳記の祝賀を控え、関連する決済や諸領及び中央への挨拶状なども山積する仕事に加わったが、むしろ優先してそちらも処理していく。
いとけない少女の五回目の誕生日は、もう来週に迫っていた。
「五歳記の挨拶状はこれで全てです。中央へは何か添えておきますか?」
「んん、……いや、いい。王と隣領へは別件で書状があるから、そっちはそのまま出しておいてくれ」
「かしこまりました」
書き物から顔を上げずに返事をするファラムンドは、一枚を書き終え採決の印を捺すと、また次の書類をめくりだした。軽く目を通し問題がなければサインを、必要に応じてニ、三書き加え、領主印を捺していく。
先に済ませられる類のものは、とにかく今のうちにやれるだけ消化していくしかない。数日分の仕事を前倒してでも、今週中にサーレンバー領への往復をこなさなければ帰りがリリアーナの五歳記の祝いに間に合わない。
「あちらはアダルベルト様の十歳記にもいらっしゃらなかったのですし、わざわざこちらから出向くこともないのでは?」
「言ったろ、あっちの爺さんがもう長くない。会えるのもこれが最後かもしれないんだ。孫娘だって、いつまでもあのままにはしておけないし」
手際よく二枚続けて印を済ませると、ファラムンドは首を回してごきりと筋を鳴らした。
朝晩と、短い時間ながら毎日鍛錬を欠かしていない体でも、年齢的にそろそろ無理が厳しくなってくる頃だろう。
人のことは言えないが、とカミロは自分の凝り固まった肩を片手で揉みほぐす。
「……クストディアも、もう十歳か。婚約話はともかく、こっちに来られればリリアーナのいい話し相手になるんだろうけどなぁ」
「時間が解決することもあるでしょう」
「まぁ、気持ちは分からないでもない。幼いうちに両親をまとめて亡くしたんじゃあな」
嘆息しながら窓の外へ視線を向ける、その藍色の瞳は暗い。
隣接するサーレンバー領の領主夫妻とファラムンドは歳が近いこともあり、昔から仲が良かった。その突然の訃報からもうかれこれ五年になる。
あの時はリリアーナの出産が間近であり、色々なことが立て続けに起きてこちらも混乱している最中で、彼らの訃報を受け取ってもすぐに向かうことができなかった。
決して無関心でいたわけではないのだが、それが残された幼い少女を殻に閉じ込める一因にもなったろう。
無意識に手袋をはめたままの手で眼鏡の下、左目のまぶたにふれる。癖になったそれを見咎める者はいない。
淀んだ室内の空気を入れ替えるべく、カミロは手近な窓を半分だけ開けた。今日は風も落ち着いているから書類が飛ばされることもないだろう。
よく磨かれた窓ガラスに、縁の太い眼鏡をかけた冴えない男が映る。
灰色の髪が白髪混じりのようで、老けて見えるのはいつものこと。ただ疲れが極力顔に出ないよう一度瞼をきつく閉じ、目元に力を入れて振り返った。
「では、こちらの挨拶状を出してきます。お茶のお代わりは?」
「もらおう。なんか甘いものでもつけてくれ」
「かしこまりました」
封筒の束を抱えて執務室を出る。隣室へ控えていた従者のひとりがすぐに出てきて、白い紙束を引き受けた。
そばにいた侍女へは香茶のお代わりと柑橘の砂糖漬けを出すよう注文をして、手の空いている従者には御者へ渡した行程表の確認と、途中で宿泊する宿の手配を申し付ける。
代わりに出入りの業者から先程受け取ったという納品書の束を引き受け、その場で業者名を確認していると、ふたつ先の柱の陰からフリルの裾が見えているのに気付いた。
だいぶ低い位置に覗くスカートの主は、この屋敷ではひとりしか該当者がいない。
納品書を確認し終えても出てくる気配がないのを見るに、用事があって部屋の前で張っていたが、こちらが忙しそうなのを察して声をかけるのをやめた、という所だろう。
ちょうどファラムンドに、そして自分にも休憩が必要なタイミングだ。出てきたばかりの扉を開けて、お茶と甘味の手配はしてあるのでしばし休憩時間を取るよう伝える。
用があるのは自分だろうから、誰が訪ねてきているのかは添えなくても問題ないだろう。ほんの悪戯心を滲ませながらカミロはそんな判断を下す。
「しばらく時間が取れましたので、こちらへどうぞ。リリアーナお嬢様」
手を差し出しそういざなえば、驚きに少しだけ目を見開いた令嬢がぴょこんと柱の陰から顔を覗かせる。そういった愛らしい仕草は年齢相応の幼いものだ。
いつも通りお気に入りのぬいぐるみが収められているのだろう、ワンピースのポケットは不自然に膨らんでいた。よく見れば片方の耳だけはみ出ている。
思わず笑ってしまいそうになるのを対外用の微笑に留め、カミロは従者が出払って空いた控室へとリリアーナを招き入れた。
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