第16話 金色の粛清②


 官吏の男には、自分の身に何が起きたのかすぐには理解できなかった。

 目の当たりにしている光景と痛覚と驚愕、容量を大きく越える全ての情報がない交ぜになり脳へと到達するのが遅れる。

 赤く爆ぜたものは眼前のリリアーナや机の上を一切汚すことなく、まるでその空間だけが丸く切り離されたかのように穢れもせず真っ赤な液体が今も激しく噴き出して――


「――――……!!!!!」


 声帯の振動を止められ、男の上げた絶叫は部屋の空気を震わせることが叶わない。

 上体を仰け反りながら両の膝をつき、胸の前で腕を掻き抱こうとするが肩口から先には何もなく。焼け付くような激痛に叫ぶ声が、掠れた呼吸音となって虚しく喉から漏れ出た。


 そうしている間にも、止めどなく流れるもので絨毯の汚れは広がり、周囲へ鉄臭さが立ち込める。すでに精緻な模様も見えないほど赤い染みが侵食していた。

 そばで醜くもがく男など視界へ入れることもなく、リリアーナは椅子へ腰掛けたまま気怠げに肩へかかった髪を払う。


「これを一体誰が掃除すると思っている」


〘んもーぅ、やっと視てくれたと思ったらソレなの? 冷たすぎてなんか逆にゾクゾクしてきちゃう〙


 先程よりも明瞭になった思念波が浮足立つような声音を伝える。

 そうして、リリアーナを中心としてか細い金色の波が空気中を泳ぐ。鱗粉のように細かな光を撒き散らしながら静かにたゆたっていたそれは、やがて一箇所へ集まり次第に形を顕わにしていく。

 きらきらと舞い散る光の粒子が波に巻き上げられ、一度縦に伸びた光球は緩やかにヒトの四肢を描き始める。

 すらりと伸びた手足に纏わりつく薄布、豊満な胸からくびれた腰へかけての曲線、金の光はそのまま波打つ金髪となって中空へ広がった。

 白く長い手指が伸ばされ、リリアーナへは触れないまま頬を撫でるような仕草をしていく。


〘愛しいワタシのリオラちゃん……いえ、今はリリィちゃんね。ずっとこうしてお話したかったのに〙


 金の燐光を纏った半透明の美貌が、顔を寄せて至近距離からリリアーナの目を覗き込む。

 嵩のある睫毛が縁取る、天高い空よりも澄んだ碧眼はあの頃と何も変わっていない。自分とは模様の異なる虹彩がきらきらと輝くのを間近で見て、どこか安堵しているのに気づいた。

 郷愁にも似た何か。再会を懐かしいとでも感じているのだろうか。


〘ずぅっと無視してたでしょ、ヒドーイ〙


「一度でもたら、絶対出てくると思ったからだ」


 直に触ることはできないくせに、髪を撫でたり頬ずりをしたり首へ腕を回したりという仕草でまとわりついてくる。

 それを鬱陶しげに片手で払い、仕切り直すように反対の指先でトントンと机を叩いた。


「先に片付けるものがあるだろう」


〘あー、そうねぇ。どうしようかしら〙


 ふたり揃って床へうずくまる男の方を見れば、官吏は限界まで目を見開き顔中を驚愕に染めていた。

 震える口を開き、信じ難いものを目の当たりにしたように喘ぐ。声帯の戒めを解かれたのか、驚嘆にひび割れた声が漏れた。


「そん、な、まさか……まさか本当に、精霊女王、パストディーアー様……が……?」


〘そうでーす、精霊パストディーアー推参! 何よ、あれだけベラベラ語ってたくせにアタシのコト信じてなかったの?〙


 自分の首に抱きついた格好のまま空中で脚を組んで見せる、奔放な精霊を横目にリリアーナはひっそりと嘆息する。

 生まれ直した後も精霊眼を引き継いでしまったことは何の間違いか知らないが、ヒトとして生きる上では過ぎた力だ。

 寿命を迎えるまでの数十年間、差し迫った事情でもない限りこの眼の権能を使うつもりはなかった。

 だが、考えてみればパストディーアーにまとわりつかれているのは、何も精霊眼のせいだけではない。気まぐれな本人が好き好んで自分へちょっかいをかけているだけだから、遅かれ早かれこうして姿を見せていたかもしれない。


<リリアーナ様、斯様な不届き者は首を斬って谷へ捨てましょう!>


〘いいえ、全身の皮を剥いで軽く火に炙ってから海に捨てるのよぉ〙


 アルトとパストディーアーが好き勝手なことを思念波で伝えてくる。

 宝玉からの弱い思念はともかく、精霊の思念は届いたのだろう、官吏は脂汗に濡れた顔を青ざめさせるが、半分は恐怖であとの半分は出血のためか。

 そろそろ侍女が入ってくるかもしれないし、汚れた部屋と男をこのままにしておくわけにもいかない。


「父上が首切り領主だの、皮剥ぎ辺境伯だのと変な噂を立てられたらどうする。ちゃんと責任持って元通りにしろ」


〘はぁーい〙


 間延びした返答とともに、精霊は官吏を一瞥する。

 すると弾け飛んだ肉と撒き散らされた血液は逆戻りするように集めらた。瞬く間に骨が接ぎ血管が繋がり、肉と皮がついていく。

 そうしてほんのひと呼吸をおけば、男の両腕は何事もなかったように元の形へと再生した。

 ただし服だけは戻すのをやめたのか、それとも単に忘れたのか、二の腕から下の袖が破けてむき出しだ。


「ひっ、ヒィィ……、精霊様、どうかご加護を……日々の祈りを欠かさぬ私をお守り下さい!」


 途端にひれ伏す男を冷たく見下ろすのは、パストディーアーだけではない。


「兄上の件以外にも余罪がありそうだな」


 レオカディオは、この官吏が領内の集会所でも語り聞かせをしていると言っていた。

 領主の子女へ不届きな真似をしようとするくらいだ、領民の子どもたちに対し何もしていないとは思えない。


〘そうねぇ、身分をいいことにだいぶ好き勝手してきたんじゃないかしら。やっぱり皮剥ぐ? それとも首落とす?〙


<皮を剥ぎ首を落とした上で聖堂とやらの屋根に吊りましょう!>


〘あら、それはいいわね!〙


「こらこら、……どうしてお前たちはそう血生臭い方向に行くんだ」


 もっとも、余罪の内容と件数次第では悪くない案だろうが、法に則りそれらの罪を裁くのはリリアーナの仕事ではない。

 ここで私刑紛いの断罪をした所で意味はないだろう。日の下に出さなければ虫干しにならないのと一緒だ。


「官吏よ、これから聖堂へ赴き、領民の前で自らの行いと罪を洗いざらい白状しろ。本日中にそれが為されなければ、」


〘皮剥いで首を落としてワタ取って炙って屋根から逆さに吊るわよぉ〜〙


 青褪めるのを通り越して顔が紫色になった男へ、パストディーアーはノリノリで念話を被せた。

 聖王国中から崇められている大精霊がこんなでもヒトは良いのだろうかと思いつつ、話を進める。


「……ということだ。精霊の宣託たしかに聞いたな?」


「あ、あ、あなた様は、……リリアーナ嬢、あなた様は、一体……?」


 全身で震える官吏は、汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をリリアーナへ向ける。そこには恐れとともに恍惚にも近い何かが浮かんでいた。

 決して気分の良いものではないが、元魔王であったリリアーナからすれば見慣れた表情だ。


「イバニェス家の第三子、リリアーナ=イバニェスだ。それ以上でも以下でもない。わかったなら早く行け」


「は、はいぃぃ……っ!」


 引き攣るような叫びを残し、官吏の男は足をもつれさせながら部屋を走り去った。

 扉の向こうにいたトマサが驚いた顔でそれを見送り、眉根を寄せてこちらへ駆けてくる。普段は決して足音をたてるようなことのない彼女のその様子に、ひどく心配させてしまったようだと反省の念を抱く。


「リリアーナお嬢様っ!」


「いや、トマサ大丈夫だ。何もされていない」


 リリアーナの頭の上から爪先までをつぶさに観察し、衣服にも机の上にも乱れがないことを確認したトマサは、そこで床に散らばった見覚えのない布切れに目を留めた。


「これは……?」


「官吏の袖だな。破けて走り去ったのだが、何かの証拠になるかもしれないから一応保管しておいてくれ」


「リリアーナお嬢様……」


 訝しげにしつつも、その表情はリリアーナを慮る色が濃い。何かと不審な点も多いだろう自分へと向けられる、純粋に身を案じる想い。

 フェリバから向けられている目と同じだ、と感じながらリリアーナは不器用な笑みを作った。


「心配させたようだな、すまなかった」


「いえ、何事もなかったのでしたら、ええ。はしたない所をお見せしまして申し訳ありません」


「これからカミロへ話をしに行くのだが、……その前に、一息つきたいからお茶を淹れてくれるか?」


「はい、少々お待ち下さいませ」


 扉の向こうから顔を覗かせていたフェリバとカリナも合わさり、お付きの侍女三人はてきぱきとお茶の支度を始めた。


 首に抱きつく格好のままそれを眺めるパストディーアーは、〘愛されてるわねぇ〙などと揶揄するが、とりあえず放置だ。

 顔へ押し付けられる形になっている豊かな胸が正直鬱陶しい。ふれる感触はなくても、視覚に割り込んでくる体は造形の至るところが主張に激しく、見ない振りをするのも困難だった。


 落陽の海原を思わせる金色の髪、波打つそれが彩るのは起伏に富んだしなやかな肉体。

 実体を伴わないそれは現実味に乏しく、向こうの景色が透ける有様も相まって幻を見ているような感覚を与える。

 光沢のある白い布地をたっぷりと使用したドレスは胸元が大きく開き、腰に程近いところまでスリットが入っているため肉付きのよい脚が顕わになっている。

 それでも、健康美の手本のように引き締まった手足からはいやらしさを感じることなく、見る者の目を惹き付けてやまない。


 他者の肉体に全く興味がないリリアーナから見ても、ヒト型の身体としては完成された美がそこにあると認めざるを得ない。


 ――たしかに、芸術という観点からは美しいのだろう。


 それでも、と押し付けられている豊満な胸から目を逸らし、リリアーナは思うのだ。

 大きく盛り上がった男の胸筋なんて間近で見ても何も面白くはないと。

 艷やかな皮膚の直下に見て取れる筋繊維の隆起。鍛え上げられた見事な大胸筋はゆとりのある衣服からこぼれんばかりで、時折ピクピクと動くのだ。アルトが痙攣するときと少し似ている。


 何が嬉しいのか、ご機嫌にチュッチュッと頬へキスの真似事などしてくる偉丈夫の大精霊に、これから先の視界侵犯を思ってリリアーナはこめかみの辺りを押さえた。


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