最終話「まじめな、いい返事ですか」

池袋の大型電化店。初めて立ち入るそこのフロアマップを凝視しながら、タマチは悩んでいた。

手挽きのカフェオレは大前提だが、例の三ヶ月を目前に控えた昨日土曜。ドリップした濃いめのコーヒーを割るのもよいが、「牛乳で煮出す」のも中々捨てがたいということに気づいてしまったから。


先週までは、細口のポットを買おう、と思っていた。だからわざわざ日曜に外出する予定をつくり、一日きりのアラームをセットして朝から起きることにしたのだ。

電車が遅延しても、始業には遅刻しない。そんな生活環で週五日を過ごし、無遅刻無欠勤の評価を最低ラインとして生きているものだから、一度作った予定を崩す罪悪感に耐えられない。

セットしたアラームを解除することもなく、二度寝することもなく、とにかく行くだけ行こうということにしてたどり着いた。

そして結局、まだ冷たい外気に耐えかねて、「調理器具」と書かれた階までをエスカレーターで上る。

休日に外出をすること自体には、桐木平とのキャンプやドライブでだいぶん慣れた。むしろ三ヶ月も続ければ半ば習慣である。だがそれは"隣に彼がいるから"、という限定された条件下での習慣でしかない。

二階、三階と上るたび、すぐさまエレベーターに乗り換えて降り、帰宅してしまいたい衝動に駆られる。

なぜか。休日外出への不慣れゆえではないか。そう考えた時のはじめの結論が、「休日"ひとりで"の外出に不慣れ」というものだった。

次の結論が出たのは、美顔器やスチーマーなどの並ぶ階、必然的に女性客かカップルの多いそこを過ぎた時。「休日ひとりで外出するには、目的がなさすぎる」のだというもの。美容のためにとか、誰かのためにとか考えているのであろう人々の真剣な顔。それに比べて自分はなんだ。美味しいカフェオレのため?桐木平のため?彼と過ごす時間のため?

考え尽くして次の階、ゲーム機やソフトが並ぶ。子供連れの家族。いわゆるゲーマー、なのだろう真剣な顔。曖昧な目的で暇つぶしに訪れる場所ではなかったのだろう。


結局、タマチはその直後。リクライニングチェアなどを扱う階層でエレベーターに乗り込み、何も買わないまま一階に戻った。

しかし、帰宅予定まではあと二時間ある。その時間の乗り換えならば調べてあるしメモしてあるが、今だとまた調べ直し。散歩をするにも、大通りは人が多すぎて落ち着かない。

喫煙所に立ち寄り、タバコに火をつける。

喫煙所の良いところは、誰も他人に無関心であるところ。それから、それを承知であるからこそ、連れとの会話が弾むところにあるだろう。

着物を着た若い女性、二人組の会話を聞きながら思った。

彼女らは何某というどこそこの喫茶店がよかったとか、あの本がよかった、あの映画がよかった、舞台が、ライブがといった趣味の話で盛り上がっている。

「そういえばさ、あの通りにもあったよ」

「喫茶?本屋?」

「喫茶、喫茶」

彼女は先ほどの電化店から通り一本離れた、人の少ない裏道を指さしていた。

ほんとうにそんなところに、客商売の店があるのか。なんて疑問を抱くような道。彼女らはまた話題を変えて、どう転んだかお互いの彼氏の話などをしているようである。

タマチのタバコもすっかりちびて、指先に熱を感じる。喫煙者の彼女らが話題に上げるのだから、きっと吸えるだろう。最早もみ消す必要もないほど火種の少ないタバコをもみ消して、タマチは喫煙所を後にした。







例の喫茶店にたどり着く。そこは、いわゆる浪漫風な時代の香りをもってタマチを出迎えた。

天井からはいくらかのランプが下がり、各テーブルの上にはロウソクのあかりが揺れる。暖められた空気にはタバコの煙とコーヒーの芳香が溶け込んでいて、心地よい。

「一名様で」

「あ、はい。喫煙席空いてますか」

いわゆるバーの雰囲気に近い、穏やかなダウンライト。橙のあかりがぼやけて、消える境界にまたあかりがある。

見渡してみると、柱にはなにやら西洋宗教的な美しさの彫刻が施されていた。椅子は木製で艶やか、脚にはゆるいカーブがあって職人技を思わせるし、灰皿すら薄い金属板に凹凸で模様が描かれている。

初対面に近い頃はスタバでマックブックとかサーフェスと言ったが、桐木平にはこういう場所の方が似つかわしいのではなかろうか。

お冷やとおしぼりを受け取り、温かいおしぼりが指先にじんわり沁みるのを感じながら、タマチはカフェオレをオーダーする。かじかんでいた指先に血が戻ると、それはスマートフォンを取り出して動く。

桐木平に似つかわしいのは、空間をコンセプトにそこそこいいお値段の(タマチにとっては)べつに美味くもないコーヒーを売るガラス張りの店ではなくってこちらの方だ。閉鎖的で、当時の名残を寄せ集めたような調度にあふれていて、(おそらくは)美味しいコーヒーをより美味しく楽しむために空間がつくられた、ような。

《喫茶店、池袋でみつけました》

《いいところです》

二つ、立て続けにメッセージを送る。

次に会った時でも、なんて思う前に送ってしまったものだから、世の中の「すてきなものを見つけた時、はじめに伝えたくなる人こそが好きな人」理論を展開する何割かの方々にとって、タマチは桐木平が好き、ということになるのだろう、と思う。

既読はすぐについた。

桐木平は、いいね、という得体のしれない茶っこく丸いキャラクターのスタンプを返してくる。

《池袋駅?》

《そうです。東口あたり》

《一時間半後に行きます》

自分も急だったが彼もまた急だ。

そうまでするほど暇だった、というわけもあるまい。喫茶店に興味が湧いたのだか、はたまたコーヒーが飲みたかったのか。一時間半の距離だというなら、"たまたま近くにいた"のではないだろう。

出会ってすぐの頃の強引な彼を思い出して、タマチは笑い、運ばれてきたまろやかなカフェオレを飲みながら考えた。


カフェオレは、もちろん缶のそれのようなべたべたした甘さがない。コンビニのカウンターコーヒーのような水っぽさもないし、キャンプで作るような苦さもない。

口当たりはまるでホットミルクで、その中からコーヒーの香りと旨みがじんわりほどけ、広がる。

はじめには懐かしい乳臭さ、一口の終わりにはそれが、いつのまにかコーヒーの香りに変わっていた。いずれも角がなく、優しい。

一口、二口と楽しんで、タマチはタバコに火をつけた。

東口まで出迎えに行くくらいの間なら、きっと席をそのままにしておいてくれるだろう。徒歩にして五分もかからなかった。あの喫煙所を待ち合わせ場所に指定すれば、きっと合流に苦労することもない。

待ち合わせ場所、到着の五分前くらいに連絡が欲しいことを伝えると、桐木平からはまた例の茶色い生物のスタンプが帰ってきた。

再びカフェオレに口をつけ、タバコで深呼吸。

そうしていると、だんだんと、何にも心配することなどないのだと思えてくる。







駅前の喫煙所で桐木平と落ち合い、喫茶店までの道中。タマチは穏やかな気持ちだった。

「一杯飲んで、一服したら、あそこの家電屋に行くつもりなんです」

一緒に来てくれますか。

そんな一言も、さらりと出てくる。

桐木平ははにかんだ。

「喜んで」

それから、喫茶店までの道のり。彼はなんだかソワソワしている風だったし、タマチは"どうしてそんな風に思うのだろう"なんて考えては笑いそうになるのをこらえた。

もうすぐ春なのかと思うくらいに二人して浮かれて、まだ冷たい風に頬を撫でられては我に返った。

喫茶店の古風な店構えを見て、桐木平は「すばらしい」なんてお坊ちゃんじみた表現をしたが、そこでスマホが出てこないことに好感をおぼえる。

先程と同じ店員の顔。開いた扉の隙間から、コーヒーとタバコの匂いに暖められた空気。店員は何も問わず、タマチが何かを言うまでもなく喫煙席へと案内してくれ、お冷と温かいおしぼり、それからメニューが二人分。

タマチはメニューを開くまでもなく、またあのホットのカフェオレにしようと決めていた。


「決まりました?」

桐木平は一瞬だけ視線を逸らし、それから頷く。

「カフェモカにします」


去って行く店員の背中を見送り、二人してタバコに火をつけた。桐木平の女たばこ、蜜漬けのアーモンドのにおい。タマチのは最近6ミリに減ったし、銘柄も変えたのでにおいが薄い。

薄甘く肺にたまらない煙を吸い、タマチはふと思ったことを、そのまま口に出す。

「期待とか、しましたか」

桐木平は、口からもわりと蜜漬けの煙を吐き、笑った。

「そりゃあ、三ヶ月ですからね」

「さっき、突然返事を思いついたんです。適当なやつじゃなくて、あしらうためのやつでもなくて、」

「まじめな、いい返事ですか」

「ええ」

肺いっぱいに、薄いタバコの煙を吸う。

自分のタバコの煙よりも、桐木平のと彼の甘い匂いが満ちた。

当の桐木平は驚いた顔をして、端正な目をまんまるに、薄い唇をぽかんと間抜けに開けている。自分で言っておいて。

もしかすると彼は、最初からずっと強がっていたのかもしれない。真偽のほどを気にするよりも、そうと思っておくことにした方が愉快だ。


「この後、電化屋でカフェオレ用のポットを買おうと思うんです。次の楽しみを増やすために、貴方にしてもらうばかりだったので、今度は」

「少なくとも、嫌われてはいないんですね」

弱気だ。そう思う。

微糖のカフェオレでなく甘いココアとチョコレートのカフェモカを好む彼は、こんな顔をするのか。

「名前をつけることはできませんが、これからも一緒にいたい、と、思うので」

包み隠さない、それが今の本心だ。関係性なんてきっと後からでもついてくるし、もしかしたら、彼が名前をつけてくれるかもしれない。

いつもの強引な彼が例えば恋人と呼んだなら、それはそれでいいと思う。今の弱気な彼が例えば婚約指輪なんかを出してきても、それはそれでいいと思う。

「多満知涼太は、たぶん、名前をつけたり話したりするよりも、態度とか行動で伝える方が得意なんです。こういう喫茶店には貴方が似合うと思ったから、隣に自分がいればいいのにと思ったから誘いました」


それでも、よければ。


運ばれてきたカフェオレの湖面、そこから立ち上る湯気を見て、心を落ち着けてから桐木平を見る。

彼はたったのひとすじ涙を流して、笑った。

「エンゲージリングは、何回めがいいですかね」

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微糖カフェオレ-128円 魚倉 温 @wokura

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