第8話「昔のことは忘れちゃった」
桐木平は、結婚の前の同棲は不要だと言った。なぜ、と聞くと、からりとした答えが返ってきた。
「だって、だめなら別れるだけだから」
テントの中、オイルランプの火も消えた暗闇の中で、タマチの表情が見えることはきっとなかったろう。
「でも、こうしてると、惜しい考え方なのかなとも思う」
山の中ほどに作られたキャンプ場には、山小屋へ暖を取りに寄る登山客の姿が見え始めている。
てっぺんに近づいた太陽を見上げて、タマチはあくびをした。
桐木平と過ごしていて気づいたのは、彼は自由だということだった。元々理解していたことではあるが、その自由さは心地よく、タマチにとって二重の意味でありがたい。
ひとつは、彼は好きにしているのだから、上下関係を抜けたこの場では、自分も好きにしてよいのだという意味。もうひとつは、朝や夜、「行動を共にする」ことに固執しない桐木平ゆえにできる、ひとりの時間があるという意味。
ひとりが好きだとか、そういうわけではない。ただ、桐木平と共にいながら、彼が隣にはいない時間があることで、はじめの頃に感じていた恐怖が薄れるのだ。
「早起きだね」
タマチが蛇口で顔を洗い、細口のポットに入れて湯を沸かし、寝覚めのコーヒーを淹れ始めたところで、桐木平はようやく、テントの扉を捲りあげて起きてきた。
「ご存知の通り」
「牛乳取ってくる」
彼は、余計な話をしなくなった。
タマチは、元からしない。
「そういえば、最近モツ煮は?」
沸いた湯を一度カップに注ぎあたためて、それをポットに戻し、あたためなおしている間にフィルターと豆を準備する。
手挽きをするのは、桐木平の仕事になった。
「行ってないですね、そういえば」
桐木平の仕事は手早い。何をさせてもそうなのだろうと思える。できあがった20gの粗挽き豆をフィルターに入れて、コーヒーを出すのはタマチの仕事だ。
「ビールも?」
「酒自体、ほら、あまり飲まないじゃないですか」
二人で過ごすことが増え、なぜだか、あまり飲まなくなったな、としみじみする。桐木平は元々飲む方ではなかったらしいが、タマチのあのモツ煮とビールの習慣はすっかりなりを潜めた。
「二人でいると、不思議とね」
桐さん、飲む方だったんですか。
タマチの問いに、桐木平は笑う。
「かもしれない。桐さんって呼んでくれたの嬉しくて、昔のことは忘れちゃった」
手挽きのコーヒーに、低温殺菌の牛乳で作ったカフェオレは美味かった。またやりましょう、と誘うか、それとも、あのポットをくれとねだって、次回にしれっと持ち込んで淹れるか。
帰りのヴィッツを運転しながら、タマチは考える。くれと言えば、くれるだろう。ベンツでさえ言わなくても寄越した。だけれど、それでいいのか。甘えである、と思う。今も続いているのかはわからないが、彼の好意がまだあるとすれば、それへの甘え。この関係が友人なのだとしても。
信号待ち。ふと横目に見た桐木平は、まぬけな顔をして眠っていた。
赤坂とかでなく、タワマンでもなく、ワンエル辺りのこぎれいなマンションで寝起きする、ちょうどゴミ出しの時にだけ顔を合わせる相手のような印象だった。
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