第5話「このシート、実は結構よく眠れるので」
結局、タマチは桐木平のベンツの助手席で、シートベルトを締めている。
「それって、まるいちにち何も気にせず、部屋でごろごろしているより楽しいですか」
あのドライブの誘いから一日あけて、悶々と悩み続けたタマチの返事に、桐木平はやっぱり自信満々に「楽しいよ」と応えた。
悩んでいたのがバカらしくなるくらいの清々しさに負け、「それじゃあ、よろしくお願いします」なんて言ったのが記憶に新しい。
あれから今日までの1週間は週末の予定ばかり気にして、はじめての彼氏とのデートに浮かれる女子か、と自責するくらいにそわそわした。
そうではない。浮かれているのは、たとえばベンツとか、ポルシェとか、自分の日常には縁のない高級車でのドライブになるだろうという、その一点についてだ。
なんてことを考えては、罪悪感で酒が進んだ。
「……音楽とか、かけないんですね」
「そうですね。でも主義とか、そういう大したものじゃないので、タマチさんの好きな曲とか」
「いえ。桐木平さんは、いわゆるパリピだと思っていただけです」
魔改造Bbには乗りませんよ、なんて、桐木平は笑う。彼の態度はたしかに強引で軽薄だが、こちらを否定することはない。
それが彼なりの誠実さなのではないか、と、見慣れたはずの道路脇を見ながら思う。
「景色が、違うんです」
「車高のせいですかね」
「まあ、たぶん、それもそうなんですけど」
「他には?」
大手ファストフードチェーン店の、赤と黄色の目立つ外装。その隣の雑居ビル。一階に、ちいさくモーニングと書かれた色褪せた看板がある。
カフェがあったことになんて、今まで一度だって気がつかなかった。
そういう些細な気づきが、街にはたくさん転がっている。壁の落書き、大手の陰に隠れた飲食店、いつのまにか潰れていたパン屋。あのガソリンスタンド、前は何が建っていたっけ。
「余裕がなかったんだと、思います」
ため息を吐きつつ街並みから視線を引き剥がし、バックミラーを見ると、桐木平と目があった。
「普段はご自身で運転を?」
「……たまに。というか、昔は、ですかね」
車を買うこと、維持することはできないし、レンタカーをわざわざ借りて外出するほど、車好きでも、休日に暇をしているわけでもない。タマチの隠した言外を、桐木平はしっかり察したらしい。
「このシート、実は結構よく眠れるので、やっぱり寝ていた方がよかった、って思ったら寝てくださいね」
きざったらしくウインクなんてしながら、言う。どうしてそんなに気を遣うのだ、なんて聞いたら、きっとまた好きだからと言われるのだ。
やめてほしい。
うじうじと女々しく考え込んで、答えのひとつも出せないままの自分に、優しくされる価値はない。
「……じゃあ、一応、その時はひとこと言いますね」
「はい、よろしくお願いします」
桐木平は、ふわりと笑う。
たぶん、この感情は憧れなのだ。
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