第4話「来週土曜日、ドライブしませんか」
あれから、渡されたボーナスはもしや「手切れ金」だったのではないか、と思うひとつきほどの日々を過ごし、俺は給与明細の額面が変わらないことにため息を吐いた。
そりゃあそうだ。
俺がどれだけ腐心して、接待だと言い聞かせ、毎日社長と牛丼を食い、彼の食いっぷりがよくなったとしても、人月商売は中抜きが常だ。
「タマチくん、飲みに行こう」
社長に牛丼の食い方を教えた男として認知され、すっかり社内に馴染んだこと以外。俺にとって、よかったことがあったろうか。
「モツ煮うまいとこ、あります?」
こんな軽口を叩ける職場で働ける、というのは、情報連携の円滑さと精神衛生的な意味の両方で恵まれている。
モツ煮モツ煮と言い続けていたら、目ざとい若人が裏道の飲み屋を開拓してくれたのもありがたい。
「いつものとこですけど」
「最高だよ」
冴えない一介のサラリーマンでも、身売りに近い人月商売でも、モツ煮と、気楽な人間関係と、冷凍庫で冷えたグラスのビールがあれば、意外と幸せなのだ。
「ここのとこ、キリさん帰社しないですよね」
「社長様だから、ご多忙なんだろうな」
「あはは。でも、真面目な話ですけど、大口契約とかの話は聞かないんですよ?」
若人、月島くんは、仕事とゲームが趣味と公言する男だ。彼は新作のゲームが睡眠時間を削る、という話と同列に、契約が来るから要件定義と設計書で睡眠時間を削る、という話をする。
だからか、社長含め、社内の契約周りの動向には非常に詳しい。
助かるところも多いが、こういう時は控えてほしい、などと、思わなくもない。社会性が表情筋に表れたような顔だろう、と思いながら、俺は笑った。
「なにか、やらかしたとか」
月島くんは大真面目に否定し、彼を擁護する。たしかにパンピの常識に疎いところはあるとか言いながら。
「俺は、戸惑うことはあっても、迷惑と思ったことはないですし。違いますよって言ったら、聞いてくれるじゃないですか、話」
「惚れ込んだんだね」
ひときれつついたモツ煮の大根が、美味い。
「そっか、タマチさんは惚れ込まれた側ですもんね」
「え」
まさかあのベンツのくだりは周知のことだったのか。繕う間も無く驚いた俺に気づいた風もなく、月島くんは5合目の日本酒を注文する。
「聞きました。契約するつもりはなくて、コネづくりのためにって接待受けたら、いい人がいたから契約してきた、って」
すっかり上機嫌な月島くんと駅で別れ、俺は酒臭い地下鉄に揺られて考えた。
桐木平は、俺の何を気に入ったのだろう。
俺は彼の強引さに甘えて、たいていのことをナアナアで済ませたままここまできた。迷惑だと表明したこともなければ、彼の求めた「返事」すらもしていない。なんと返事をするかも、考えたことがない。
世間的には、これを誠意がないと呼ぶのだろうか。
好きか、と考えると、好きではないと思う。
そもそも好悪を判断できるほど彼を知らないのに、彼は一方的で強引な好意を見せてくる。その行為や言動は迷惑であるとも思うが、彼の素直さや律儀さは好ましい。正しくは、おそらく戸惑っているのだ。
彼は時間をくれるだろうか。
俺のやり方で、俺が納得のいく判断を出すまで、俺に合わせてくれるだろうか。しかし、そう要求して彼が頷いてくれたとして、それは「俺に都合のいい男」であって、桐木平という男ではないのではなかろうか。
自宅の最寄り駅から二駅ほど乗り過ごし、家に着いた頃には疲れ切っていた。
桐木平が次に返事を求めてきたら、なんと答えるのが「本心」だろう。そんな疑問を抱いたまま、シャワーも浴びずに布団に潜り込む。
続きは、明日考えよう。土曜日はどこへも行かないことにしているのだ。人目も、誰に何を思われているかも気にせず、日がな一日布団に転がる。
「来週土曜日、ドライブしませんか」
桐木平からのチャットも、返事は明後日に考えよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます