第3話「ベンツはいらないけど僕は欲しい、とか」
ヘイシャとベンチャーはめでたく契約。
接待は大成功であるとして急遽ーーはした金程度ではあるがーーボーナスが支給され、俺はそのまま「おおきなかぶ」の絵本のように全力でもってクソ職場を引っこ抜かれ、そのまま勢いをつけてベンチャー本社での業務に投げ込まれた。
ベンチャー野郎の本社近くには、モツ煮のうまいような、テーブルがべたついて、丸椅子の脚ががたついて、焼き物系の煤だかカビだかわからないものが天井に張り付いているような居酒屋は無かった。
そのことに絶望した俺がどれだけ喚こうと、例の「添書き」の力は偉大である。
本日も、快晴なり。
俺のメンタル以外は。
「タマチくん」
嫌味だと思いたいが、社長様の笑顔にはそのかけらも見当たらない。さわやかだ。
朝っぱらから喫煙所で、「電車遅延があっても遅刻しない」スケジュールのお陰で生まれる隙間時間を潰し、泥まみれの重いべったりした溜息を吐いている男に向ける笑顔ではない。
「桐社長、どうしました。急ぎの案件ですか」
ベンチャー野郎は、キリキヒラという厄介な苗字である。異様にフランクな社内では、桐さん桐さんと呼ばれていた。
俺はというと、そのフランクな社風に馴染んでやることはできないが、キリキヒラと毎日毎日噛みそうになりながら名前を呼ぶのも嫌であった。だから間をとって「桐社長」なのだが、これは不運にも、奴のお気に召してしまった。
「やっぱりそれ、いいね」
おまけに、嫌味のつもりであからさまにつけた魔除けの数珠ブレスレットーー女の好きそうな天然石ショップの店頭で投げ売りされていたやつーーすらもお気に召したらしい。
俺の溜息は、また一段と重くなる。
「どれです。……というか、案件があるなら早く教えてください。残業は嫌ですから」
「あぁ、そうそう。今日のお昼、一緒に食べない?」
俺の頬が引き攣る。
社長様はさわやかな微笑みのまま、優雅なしぐさで胸ポケットから女タバコを取り出して火をつける。
「経費で」
なんだかよく分からないが、高級そうな鈍い銀色のジッポをしまう。
「……業務時間扱いにしよう」
「いやそれはだめでしょ」
結局、昼を業務時間扱いにして、他で1時間休憩を取らせることで法的にもホワイトだとか言い出した桐木平を宥めて、昼は牛丼をご馳走になった。
面談という名目だというから、経費は妥当だ。
「これが好きなの?」
桐木平は牛丼の汁を吸った、あの例のぽろぽろとこぼれる飯に苦戦をしながら聞く。
「チェーンの味って、安心するんですよ」
俺は牛丼本体を既に腹におさめて、手持ち無沙汰に味噌汁をかき混ぜながら答えた。
母は料理をしなかった。即席飯でもなく、ニーヨンで営業をしているこういう、牛丼とか、うどんとかのチェーン店の味に親しんだ幼少期を思い出す。
「いつ食べても同じ味、がコンセプトだとは言うものね。だとしたら大成功だ。経営方針と実態が一致している」
「視座の違いってやつですね」
「よく知ってる。さてはタマチくん、勤勉だね?」
汁飯をかきこむ発想がなく、スプーンでも探していそうに目を動かしてーー全て俺の偏見だがーーいる男に褒められたとして、素直に喜べるかというとそうではない。
庶民文化への勤勉さが足りないのでは、と嫌味のひとつも言ってやろうかと思ったが、食うのにいくら苦労しようが飯を残すという選択肢が無さそうであることに免じてやろう、という気持ちがふと湧いた。
しかし、素直に助け舟を出したのでは面白くない。
清潔なカウンターに肘をつき、手のひらに頬を乗せて、俺の知るほかの系列店よりあきらかに光量が多いか、明度の高そうな照明から逃げるように目を伏せる。悪巧みには、店内は車のディーラーかと思うほど明るすぎるのだ。
「タマチくん、モテるでしょ」
「なんですって?」
相手がこいつでさえなければ、と、溜息を吐きそうになって堪えた。それは敗北宣言に等しい。
桐木平は、どうせ俺の渋面など察した上で、だのにまだにこにこと楽しげにしていた。
結局、汁飯は一粒ずつ摘むことにしたらしい。
「返事が聞きたいんだけど。プロポーズの」
「鍵は受け取らなかったでしょう」
「ベンツはいらないけど僕は欲しい、とか?」
「ポジティブですか」
「ベンツはいらないし僕もいらないけど現金は欲しい、とか」
「俺をなんだと思ってるんです」
単にお前の得体がしれないし、男と付き合うなど想像だにしたことがないし、今更新しい扉を開く気もないし、お前に俺が似合うとも思えないからだ。
「タマチくん、やっぱりモテるでしょ」
心の中で言ったつもりで、全て口にしていた。そんなフィクションのようなミスのせいで、結局俺は断りきれなかったらしい。
やっぱり好きだなあ、君のこと。
のほほんと穏やかに笑う彼は、もしかしたら、フィクション的にはよくある「金でしか人を動かせない」と思っているタイプの金持ちなのかもしれない。
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