第2話「ベンツの鍵」


実にあれから1週間。ベンチャー野郎は、毎日懲りもせず私のところへやってきて、女タバコの匂いと、蜜漬けのアーモンドの匂いをさせながら何度も笑いかけてきた。


さてしかし。それも今日で終わりの話だ、と、安堵とともに喫煙所へ向かう。運がいいのか悪いのか。「もっと優秀な人材が入る」というお客様には唾のひとつも吐いてやろうかと思ったが、現場が変わったことであのベンチャー野郎に会わなくなるのは良いことだ。

思い出す必要のないことを思い出した。

ひとつ、ため息で気持ちをリセットしようと試みる。すぐ傍のコンビニから、見知った顔が出てくるのが見える。


「しっかし、タマチくんも運がないよな」

「どうして」

「あの客先。評判悪いんだよ」

コンビニから出てきたのは、人事の男だった。喫煙所へ行くのを邪魔されるのなら、まだ美人の経理が良かったなどと、恨みがましく思うのはぐっと堪える。

客先ガチャに漏れるのは、今に始まったことじゃない。笑い飛ばしてやると、人事の男は苦笑した。こいつの名前はなんといったか。

「喫煙所があればいいよ。あと、モツ煮が食える居酒屋」

「モツ煮は大事だ」

タバコを吸わない人事の男からは、嫁が選んだのだろう所謂フローラルな柔軟剤の匂いがした。

どいつもこいつも、幸せをくっつけて来ないでほしい。36歳独身。ヤニ臭さと加齢臭にしか自信のない年頃だ。


それから1週間。

ベンチャー野郎の甘ったるい匂いに惑わされることもなく、私は前よりも単価の下がった現場でこき使われて、ため息とタバコと酒が増えた。

仕方がない。使われることしか脳がない。はい、仰る通りで。私などは考えも及びませんでした。バカのふりをして、相手を素晴らしい人間だと思い込んで、媚びへつらって首の皮を繋ぐのが特技。

あの日のベンチャー野郎のように優雅な紫煙を吐こうにも、やはり重いため息と、水たまりのイメージは拭えない。

残業、残業、残業、酒とタバコ。泥酔することこそないが、モツ煮一皿でビールをジョッキに三杯は空けて帰る。酔いに任せてクダを巻く相手もない。愚痴をこぼすにも相手がない。日に日に身体は重くなる。一日一キロ、不満を溜め込んで肥満に近づく。

「タマチくん、接待くらいできるよね」

そんな風に言われたのは今朝のこと。

「何度か経験はありますが」

応えたのも、同じ今朝。

「じゃあ、今晩よろしく」

渡された名刺はなんだかざらついた分厚い紙で、文字のところに触ると微妙に浮いたか凹んだかの感触があった。ざら、ざら。撫でていると、その凹凸が何かしらを吸い込んでいくような感じがする。不愉快ではなかった。


「タマチくん」

改まって名前を呼ばれると、引っ叩きたくなる。取引先でなければ、これが接待でなければ今頃、こいつは紅葉おろしだったろう。

「タマチくんか。かわいい名前だ」

「……庶民の食事で申し訳ありませんが、良ければまずは一杯」

面倒臭くなる前にと渡したドリンクメニューは、私の毎晩の行きつけのそれとは違ってべたつきの一つもない。経費万歳だ。接待の相手が、こいつでさえなければ。

ここいらで評判のいい個室の料亭、という基準で店を選んだものだから、もちろん飯も酒もそれなり以上の値段であるし、個室の内装ひとつ取っても、庶民には「高級そうだ」としか言いようのない良さげなものだが、そこにいて尚ワインやスパークリング的なものを探していそうなーー実際、探していたらしいーーこの男は、あろうことか本当にベンチャー野郎だったわけだ。

「あ、そうそう忘れるところだった。お酒の前に契約書。サインするから。あと添書きも一緒に上司に渡してくれる?」

契約の話は何もしてない。

誓って。

多少の前情報はあったかもしれないが、私からは何も伝えていない。だのにどうして、なんて疑問は、おそらく、こいつの前では持つだけ無意味なものなのだ。

「あとこれはベンツの鍵ね」

私は彼を理解できるという見込みを捨てて、生ビールを三杯頼んだ。

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