微糖カフェオレ-128円

魚倉 温

第1話「あそこにベンツが停まっていますね」

 スタバでマックブックやサーフェスを開いて、スコーンやラップサラダなんかを食べながら、アイスコーヒーは「コールドブリューのグランデ」なんて言いそうな男、と言えば、伝わるだろうか。柔らかく、しわになりにくそうな上等なスーツで立っている。

 髪はしっとりとした艶があり、ストレスや疲れ、それから加齢なんてのの劣化をまったく感じさせないきれいな長髪。

 横顔も見る限り彫が深く、目元なんかもいわゆるシュッとした感じだし、余ったるい匂いでもしそうな感じがある。女が吸うような細長い煙草を指に挟んで、静かに深呼吸をする。細く長く息を吐く、紫煙すら彼のための背景のようだった。

 なぜ、ただのさえないサラリーマンが、人月単価にして四〇万にも満たない俺が、外回りの逃げ場にしているこの喫煙所に、おまえみたいなのがいるんだ。俺の吐き出す紫煙は、彼のとは似ても似つかない。大きな溜息は、ゲリラ豪雨後の水たまりのように重く広がる。

 「あそこにベンツが停まっていますね」

 スタバ野郎が声を掛けてきたのは、ちょうど俺が、奴のと俺の缶コーヒーが同じことに気が付いた時のことだ。

 「あれ、ベンツなんですね」

 どうでもいいことは知らない、知っていても、知らないことにする。そうやってバカを装うのがいちばん賢いのだと、十何年の社会人生活で学んできた。


 風が吹く。

 女煙草の甘ったるい香りと、蜜漬けのアーモンドのような不思議な香りとが混ざっていた。都会の排ガスだとか、そこらのどぶ臭さだとか、そんなのとは無縁の香りだ。

 「そう、ベンツです。差し上げますから、お付き合いしてくれませんか」


 今度はスタバを通り過ぎて、赤坂辺りのガラス張りの喫茶店で目を瞑ってレコードでも聴いていそうな微笑みを浮かべて、ベンチャー野郎は言う。上等なスーツに手入れされたロン毛に赤坂風の笑顔だなんて、ベンチャー若社長様以外の何だっていうんだ。

 「キャバ嬢にカモられるタイプですか?」

 「キャバクラは経験がありませんね。今度ご一緒してくれませんか」

 あそこにベンツがある、という語り出しで始まるのは、たいていが「たばこなんてやめろ」というのを遠回しに「おまえのためだから」という恩着せがましさで包んだ嫌味だし、そうでなければ、特に相手がベンチャー野郎の場合には「俺もたばこを吸っているがお前も吸っている。俺はベンツを持っているが、お前は持っていない」という生まれの格差を突き付けてくるだけの弩級の嫌味だ。

 それが、なんだって?

 「……で、なんですか」

 「お付き合いしてください」

 気のせいではなかった。

 俺の気が狂ったでもない。

 ベンチャー野郎が狂っているとしか思えない。

 「……で、なんですって?」


 すっからかんの缶コーヒーを傾けて一滴を味わい、指先の熱くなるほどちびた煙草を吸って灰皿に投げる。

 待てよ、俺の気が狂ったのか?

 「あのベンツ、今日からあなたのものですよ」

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