最終話 そして空を飛ぶ

 ハンナは真新しい木の香りのする部屋で目を覚ました。耳を澄ますと昨夜までの雨が屋根を打つ音は聞こえない。かけ声を出して毛布を跳ね除けて起きると服を着替えた。ブーツを履いて帽子をかぶるとベッドの上のゲオルグに視線を向ける。丸まって寝息を立てている姿に手を伸ばし掴み上げた。


「うわあ。やめて嘗めないで……。なんだハンナか」

「なんだとはご挨拶ね。さあ、起きなさい」

「えー。まだ寝てようよ。せっかく軍務から解放されたってのに、そんなに律義に飛ばなくったって」


「そうはいかないわ。あなたの大好きなベーコンをこれからも食べたかったら、獲物を取ってこないと」

「そんなことを言ってるけど、ハンナが飛びたいだけだろ」

「そうよ。文句ある?」


 箒をつかんで扉を開ける。外に広がる密生した木々は雨に洗われて緑の宝石のように輝いていた。まだ湿気の残る朝の清涼な空気を胸いっぱいに吸い込むとハンナは箒を空中に横たえた。魔力を通じてやると感度良く反応が返ってくる。ハンナは自分のイメージカラーの赤色に塗り替えた箒を満足そうに見やった。


 ジョルバーナの手が加えられた愛用の箒は以前と比べれば3倍のスピードが出るようになっていた。最大速度だけでなく加速や減速も格段に良くなっている。あくまで私物の箒の範囲内ではあったが、ハンナの所有物を超える箒を持っているものはこの星にはいない。ハンナは箒に飛び乗る。

「マグレブ!」


 ハンナの命令に応じてすうっと箒は飛翔を開始した。目いっぱい魔力を注ぎ込み急上昇をすると眼下にささやかな自分たちの村の姿が広がる。密林の中にゆるやかに流れる川沿いに開けた場所がアーウルトの村だ。少し離れた場所には木々の中に大きくえぐれた一直線の赤茶けた爪痕があり、その先端にはヘリオーンの残骸が朝日を浴びてキラリと光る。


 あの日、ヘリオーンは空の向こうに見えるあの星から、このロムルスの大地までハンナ達を運び着陸の衝撃にも耐えたのだった。何人かがその時の衝撃で打ち身や骨折を負ったのだがその傷はすぐに癒える。やむにやまれずという事情はあったにせよ、移住者は魔女としては珍しく勤勉に働き、この場所に小さな村ができて半年が経つ。


 その間にジョルバーナは古い遺跡から記録をいくつか発見し、そこから読み取った事実を先日ハンナ達数人にだけ話して聞かせた。

「もともとはこの星に遠く旅をしてきたのが我ら魔女の祖先じゃな」

「そうですか」


「なんじゃ、その気のない返事は」

「だって、私にはあまり関係ないですし」

「ここに着いた時は人の姿かたちではなかったようじゃ」

「へえ」


「設計図の状態でやってきて、あの星の人間に取り付いたんじゃな」

「つまり寄生虫みたいなものだと?」

「そうじゃ。衝撃的じゃろ」

 ハンナは全く動じない。

「まあ、私は興味ないかな」


「まったく、これだからな。自分の関心のないことに対してはとことん冷淡じゃなあ」

「そういうジョルバーナ様だって、私のカンタリオンには全然興味が無いじゃないですか。あの子構って欲しがっているのに」


 先日の会話を思い出しつつ箒を操るハンナの側にそのカンタリオンが寄ってくる。

「ママ。お早う」

「お早う。カンティ」

 ゲオルグはいつものようにハンナの服の中に潜り込む。


「ちょっと、ゲオルグ。そんなところに入らないで」

「……」

「お早う。黒毛玉」

「……お早う」


 ハンナは更に高度を上げて、西の地平線に沈んでいく青と白の惑星に視線を送った。あの白い雲がかかっている辺りが霊峰カクタウかしら。記憶を頼りに懐かしい地形を思い浮かべる。懐かしさはあったが、再びあの場所に戻りたいという気持ちはなかった。


 戻ったところで歓迎されないのは明らかだったし、別にこの星ロムルスでの生活に不満はない。村の外れの柵の中では乳を出す動物が何頭も飼われていた。牛の兄弟と言ってもいいよく似た動物で、乳の味はハンナの肥えた舌を満足させる味だった。量もたっぷり、いつでも新鮮なものが飲める。


 ジョシュアの作る料理も手に入る食材や調味料を考えると悪くない。少しずつ今までは無かったものの生産もできるようになりバラエティに富んだ食事が取れるようになっていた。ジョシュアはどういうわけか、料理当番のときにはやたらとハンナの好物ばかりを作り他の魔女からずるいとの声が上がっている。


 物質面での充足に加え、あの日ヘリオーンと一緒にこの星に渡ってきた赤竜カンタリオンにいつでも会えることがハンナには嬉しかった。ロムルスにも生身の人間には手に余る生物が何種類か生息していたが、それらはすべてカンタリオンの腹に消えている。ハンナの大切なカンタリオンはこの場所で重要なパートナーとなっていた。


 そして、なによりも、ロムルスでもハンナは空高く飛ぶことができる。生活のための物資を見つけるためという目的以上にハンナは時間さえあれば空を飛んでいた。通例であれば、そろそろ空への関心を失ってもおかしくはない年頃になっていたが、ハンナにその兆しはない。


「カンティ。あの山まで競争よ」

「ようし。今日こそは負けないからね。ママ」

「用意、スタート!」

 赤毛をなびかせながら勢いよく飛び出すハンナの掛け声が空に吸い込まれ、赤い箒にまたがる赤毛は幸せそうに飛んでいくのだった。


-完-




 


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